| ――――Jul.20,
N.G.0325 Earth, Hong Kong Free Port 【星歴0325年7月20日 地球、香港特別行政区 香港島自由港】
「すいません。ちょっとこちらに来てもらっていいですか。あ、サングラスは外してください。ええ網膜スキャンにエラーが出ちゃって。女性でいらっしゃ、あ、失礼しました男性の方で。ではiIDはこれでよろしかったですか。はいはい――――ああ、はい。ありがとうございます。どうもお手数おかけしました、ヴァンフォーレさん。観光ですか。あ、仕事でした?ええ、もう結構ですよ。ご協力ありがとうございました。ホンコンへようこそ。楽しい滞在になるといいですね」
1
フェリーに乗って九龍半島へと移動し、タクシーを捕まえて地球に構えたシェルターへ向かった。商店に偽装した家屋である。クンスト・ヴェルク時代に地球での潜伏先として利用していたものだった。今でも、管理を任せて万一のシェルターとしてアルフェラツ星リュケイオン市のシェルターと同様、緊急時の避難先としていた。
九龍の街並みが流れていく。雑踏。賑わう人々の群れに邪魔されながら、ゆっくりと迷路のような街をタクシーが進む。私は、しばし目を閉じて思考の中に意識を落とした。
私が地球を訪れたのは、もちろん、アデレード・フォーレを迎えにきたからだ。
熱量を使い果たし、倒れた私はフルジア帝国のデネボラ星へと移送され、治療を受けた。国外追放となった私を匿ってくれたのは、二級貴族、テレジア・ヴァン・シューベルという女性だった。彼女はデネボラで観光開発を担当する人物で、彼女の経営するホテルの一室で私は目覚めた。
テレジアの財力は貴族家でも相当なものであった。婿として迎えたシリウス人設計士と二人で観光開発を指揮し、リューヴにもシューベル家のホテルがある。シューベルティアーデ財団という財団法人を立ち上げて運営している人物だった。
彼女はその財力とコネクションを活かして、ティール星から抑制鉱石を輸入した。今、私の手の中には隕石種を封じ込め、その拡散を防ぐ手立てがある。テレジアには多大な感謝をし、傷の治療もそこそこに私はデネボラを出立した。
ガンマ線除去作戦の際、ミーティア・タワーへの避難民を装ったリューヴ国軍の数名が、アデレードを拉致した。私は、きっと庇われたのだ。だから、救いにいく。
リューヴ軍は補給のため、アルドラ星か地球に立ち寄ることが予想された。そしてそれは地球になったわけだ。星都ハイデラバード市か、あるいは自由都市ホンコンか。二万もの将兵を乗せた船団である。停泊位置は、すぐに突き止めることが出来た。
以上が、私がここにいる理由である。回想が終わる頃、タクシーは緩やかなスピードでの走行を止めて、一つの店の前で停止していた。九龍の空からは、雨が降っている。私は足早に、人気のない古書店へ入っていった。
この区域は、スラム化している。電力供給さえ怪しい。犯罪が多発し、高価な機械はほとんど使われず、人口が密集している地区だった。
「おお、旦那様。お久し振りでございます」
「張さん。管理をしてくれていて助かります。所用で数日、滞在します」
シェルターは古書店となり、老人の張が主人を務めている。私は管理を彼に託し、充分の給金も支払っていた。昔からここはスラムで、老人はそれなりに裕福な暮らしを謳歌していることだろう。
「驚きましたぞ。七年、いや、八年ぶりですか」
「……ん、お客さんです。私も読書をさせてもらおうかな」
「ここは旦那様の家でございます。どうぞご自由になさってください」
来客そのものが珍しいのか、甲斐甲斐しく老いた店主は接客を始め。私は店の中に置かれたテーブルについて、アデレードの行方について考察することにした。
保菌者であり、感染を防ぐためにリューヴ軍はアデレードを凍結させた。冷凍させれば、脱走することはまず考えられず、まるで物のように運ぶことが可能である。おそらく、そのようにして彼女を護送したはずだと推察した。
補給自体はすぐに終了する。すでにホンコンに入って、数日が経過する。何をもたもたしているのかが、わからなかった。
からん、と。客が扉を押し開けて帰っていったのを、思わず目で追っていた。ガラス張りのショーウィンドウ。雨の降る裏通りが広がっている。
「いやぁすみませんねぇ、旦那様。ここいらもすっかりアイツらに支配されるようになりまして」
「ん?何のことですか?」
「ほら、あそこにいやがるでしょう。立ちんぼですよ」
窓の右端に映る人影に視線を移動させる。立ちんぼ、という隠語が意味するものは一つだ。その姿を見て、私はすぐに事情を理解した。派手なコートに、露出の多い下着のような衣装。特に人目を惹く格好で立ち尽くす後ろ姿は、街娼のそれだ。
私も実際に目にするのは初めてだった。フルジアにも売春婦はいる。しかし法律で指定された区域でのみ性風俗営業は認可され、店に属する女性が店先で呼び込むくらいである。街角に立って売春宿に連れ込むようなものは、見たことがなかった。
「最近ではティールの真似事をする輩が増えまして。気付けばウチの前もナワバリにしやがって。アイツ、いつもいるんです」
「雨の日だというのに、大変だな。入れてやったらどうですか?」
「冗談じゃない!そんなことしたらね、ここも売春宿になりますよ。どれ、ちょっと追っ払ってきます」
店主を止め、好きにさせるように伝える。店前で客をとるのはまだしも、そこで商売を始められたらたまったものではないだろう。営業妨害というのも何だかおかしな気がしたが、迷惑であるには違いない。
「旦那様はお優しいんですから。あ、ほら。見てますよ」
窓越しに、店内を見ている女と目が合った。黒髪の娼婦。何故か、胸がざわつく。
「……悪いのは彼女たちじゃなくて、組織だろう。私は誰にだって優しいですよ」
ティールの労働組合、ギルド連合は明文化された法律で秩序を作っている。労働とその対価。極めて単純な思考である。労働力を提供するから、金銭を支払え。ただそれだけなのである。この均衡を保ち、どちらか一方が強い権限を有さないように規制をするのが、ギルドのシステムといっていい。
一方、九龍のそれは贋作に過ぎない。ホンコン一帯は自由港として設定され、行政もハイデラバード政府から独立している。関税など貿易に関わる一切の規制を取っ払い、交通の要衝に諸国は経営拠点を築く。例えばティールの鉱石資源をリューヴの企業が買い付けるとすれば、ホンコンで購入すれば関税がかからず安価で購入できる、というシステムだ。
現在、九龍はティールを真似て、ギルドのようなものを作ろうとしている。しかし、労働者側の権限が強すぎるのだ。労働力の自由化、というティールの表面しか真似られていないため、労働力を有する組織は企業に恐喝まがいの行為をし、金銭を巻き上げることもあるという。それこそを規制しているのがティールであるというのに、だ。
さて、そうなってくると労働者の組織は資産を持つことになる。ただでさえ真っ当な職につけない者たちが、徒党を組んだものだ。自然と犯罪行為に手を染めるようになった。違法薬物、覚醒剤などを大量に買いつけ、販売する。売春を斡旋し、ナワバリを区画として設定し、上納金を得る。
これらのことから、ティールの労働組合『ギルド』に対し、クーロンの犯罪組織、即ち『シンジケート』と呼ばれるようになっているのが現状である。
「ははぁ。なるほど。旦那様は頭が良いです」
「だから、彼女らに罪はない。でも、店先で全裸になられては、張さんは商売あがったりですからね」
混沌とした街。利害、策謀、そして犯罪。九龍の雨は、今日も冷たくそして寒々しい。
2
例えば、夢であるとか。例えば、理想であるとか。
そういう目標を描いて、人は人生を歩くものだと私は考える。いつしかそれを失ってしまい、より堅実な現実というものを選んだとしても。そこに辿り着くまでは、夢という目標に向かっていた。
もう、夢見る時代ではない。今は歩む時。私はもう、夢を現実に変えなければならない。そう思って、フルジアを飛び出したのだ。残された時は、五年を切った。終着までには、ゴールに辿り着けるだろうか。
店先に、人影。扉を開ける音がする。店主は、私のために料理を振舞ってくれるのだそうで、食材を買いに外へ出ていた。すでに、夜。しとしとと降り続く雨が、夜を濡らしている。私は来客を迎えようと、椅子から立ち上がり、顔を上げた。
すぐに、扇情的な衣装が目に入る。黒髪の女性。いや、そもそも。この惑星は黒髪の人間が大半を占めている。地球人にしては珍しく、肌の白い女性だった。雨に濡れて、体調が優れないのかもしれない。そんなことを考えていると、体は動かなくなってしまっていた。
「目立つ髪形ね。こんな物騒なところに、観光かしら?」
「――――用件を。チャンが呼んだ人でしょうか」
勝手に扉を開けて私を見つめている娼婦に、些か嫌な感情を覚える。娼婦だからどうだ、という話ではなく。私はどこか、彼女らのような人間を見ると、嫌な記憶が蘇ってしまう。違う。嫌な記憶ではない。悲しく痛い、懐かしき日々を思い出してしまうからだ。
「違う。今日はついてなくってさぁ。っていうか、ここ人通り無さ過ぎだよね」
「悪いが。労働は他所でお願いします」
「あー、ソレ、無理。だって持ち場ここだって言われてるもん。ねぇ、アンタ女買ったことないんでしょ。あ、それとも同性愛者?」
「……じゃあ買うよ。時間中、私の言うことを守ってくれるならね」
ぎぎ、と軋みをあげて体が動き始める。すでに女性は、室内に入ってきている。図々しい、と思う前に。彼女はうんうんと首を縦に振っていた。
「やった。あらぁ、間近で見ると凄いキレイな顔」
「商談成立だな。あそこに座って動くな。口も開くな。黙って寝てろ」
命ずるだけ命じて、私は椅子に座った。卓上には、モバイル・デバイスが転がっている。アデレードのIDは九龍区域内で捕えている。ならば、近くにいるのだが。迂闊には動けない。リューヴ軍の狙いが、私である可能性も否めない。
思考に没頭する。サマンサ・ラマートはかなり厄介な人物だ。サピリオのマフィア上がりの女。策士である。軍や戦争を、政治の一部として考えている軍人だからだ。ツェルニーやアンリ・ベルティエなどが命じられた任務をこなす軍人らしい軍人であることとは対照的である。
「ヘンな人。ねぇ、名前はァ?」
「――――黙っていろと言っただろう。今、ちょっと忙しい」
机に影。見上げると、女性。
目を離している間に着替えたのだろう。黒いボンテージ調の姿と、黒い髪。目の前には豊かな胸部。ああ、何だか。凄く、嫌な予感が。私はとても、とても嫌な気分になってしまった。
「相変わらず女性の扱いがぞんざいね、オフェリア。助けに来てやったってのに、ブン殴るわよ」
「頼む。帰ってくれ。そもそも何でいるんだ、お前」
「アンタがここに入ったのを見て、店先の女をぽきっと折りました」
最悪である。この女は本当に、人の命を軽んじているのだ。確かに何も、間違えてはいない。彼女は本当にこの仕事を行っていたことがあるだろう。ただ、ここにいるということがおかしいだけで。
「良い男の危機に駆けつけてやるってのが、良い女の条件でしょ」
高らかに笑いながら、神剣の担い手、アーシアは思い切り私を抱き潰すのだった。
「アーシア、怒るよ」
この女の癖なのだろうか。顔にかかる体重を押し返し、引き剥がす。
アーシアの背後。ちょうど、店の入り口がある。そこで初めて、来客に気がついた。私は唇を尖らせる彼女をさらに横へ排除し、誰がやって来たのかを見届けようとした。店主が帰ってきたのなら、この状況は非常によくない。
その男は、やはり勝手に入ってきた。いや、店であるのなら、扉を開けて勝手に入ってくるのは当然だ。商品を見るのにわざわざ断りを入れる必要もあるまい。ただ私には、どうしても、その男が古書を求めているようには見えなかった。
若い。刈り上げた短髪と、口元に浮かぶ酷薄な笑みが印象的な男だった。やや、痩身。
「……あの、ウチの店に御用ですか?」
「ああ、イヤ。姉ちゃん、ここに娼婦来なかったかい?」
「――――ん」
気がつくと、アーシアは私の背後に隠れるようにして立っていた。彼女の方が背は高く、無論、バレバレである。隠れる理由は、すぐにわかった。だが隠したいのは顔だけなのだろう。だからバレても構わないのだ。本来、ここにいるべき娼婦であると判明しなければ。
「あー……彼女を買ったのは私です。それで、どちら様ですか?」
「どちら様もこちら様もねェけどよ。アンタ、ココの人間じゃないからわかんねェかもしんないけどな、女買うには仲介業者っちゅうのを通さなきゃダメなワケよ。ウチらでこういう風にしてやってるんだわ。わかる?ウチらが集金して、売春婦どもに給料くれてやってるの」
「あ、もう支払いましたよ」
「ウチらにはルールってモンがあるんだわ。女に金払おうが払わんが知らんけどな、きっちり業者に支払わなきゃダメなワケ。まァ、コイツらもずる賢いからな、チップみたいなのを騙し取るヤツもいる。それは諦めてな、正規の仲介業者ってのに払ってもらわなきゃダメなのよ」
男性は比較的穏やかな口調だが、端々には脅しめいた勢いもある。これが九龍のシンジケートというものなのだろう。私は新鮮な気分で対応をしていたが、どのような理論武装も通じるはずがない。諦めて、IDから金を支払うことにした。
「延長!延長!」
「アーシア、うるさい」
「そかそか、延長か。じゃあちょっとこの額じゃあ足りんわなぁ」
「勝手に決めないでください。アーシア、帰れ。本当、そろそろ私も怒るよ」
背後の女性が何を企んでいて、何を考えているかなど知りたくもない。知ると逃れられない気がした。
「旦那様!何事ですかこれは――――」
追い出し成功かと思われた瞬間である。腕を捻り上げられた老父が帰ってきてしまった。屈強な体格の、おそらく脅し役の男性二名に挟まれ、張は悲鳴のような声で私に向かって叫んでいた。
どんどんと状況は悪くなっていく。きっと、背後の女は悪魔なのだろう。
「どうすんだい。三十分で五十万ルピー。仲介手数料が同額。さらに利用登録料、滞在料金、サービス料と合わせて二百万ルピーだ」
暴利とはこのことか。二百万もあれば、車が買える。
迫る暴利、シンジケートの笑み、老父の叫び。そして背後の悪魔の笑み。
「ああ……もう――――面倒くさい」
私は面倒になったので、全員を叩き潰すことにした。短絡的か、あるいは。最も効率的な解決方法である。
失神した男性三人を店外に放り出して、椅子に縛り付けたアーシアを睨みつけた。老父はしきりに感心し、感嘆の息を漏らしながら、店内の掃除を始めている。
「なにオフェリア、そういうプレイ?」
「……本当にやるぞ、この。私は今、何だか苛々しているからね」
「いいよ。どーせオフェリアのことだから、奥さんにも手ぇ出せずにいるんでしょ。ほら、乳見せ合った仲じゃん!」
「フィアみたいなこと言うな。挑発はそのくらいにして、そろそろ本当のところを知りたいんだけど」
「えー、ホントよ。溜まりに溜まった貴方の鬱憤、晴らしてやろうって話」
どうしてこの人はそういう方向に持っていきたがるのか。その理由を、知ってはいるのだが理解は出来ない。
アーシアは生命の尊さというのが全く理解できていない。人とは逆なのである。生きることに価値を見出すのではなく、死の間際に恍惚とする。生命が尊いのは、散るが故に。死という煌きに美しいと思う。生きることは、死ぬことだと言う女性である。
この世界の越境者は、そんな不思議で構築されている。私との性行為が、生殖のためでなく死ぬためのものと知っているから、この女性はそれを望む。そんな、笑い話だ。
「……私の世界の話は、いいでしょ。今は貴方よ」
「わかったよ。張さん、部屋を借りるよ。しばらく近付かないでくれると嬉しいです」
どう受け取ったのかはわからない。妙に笑みを浮かべる老父を背後に、私は使われていないのに手入れがされた居室にアーシアを連れ込んだ。
あまり、人に聞かせられる話ではない。張が勘違いしてくれる限り、ここに人が近付くことはないだろう。早速ベッドに腰掛けるアーシアを見ながら、私は椅子を手繰り寄せて腰を落ち着けた。
「アデレードの話よ。新九龍城砦を拠点にするシンジケートが、拉致したようね。それで軍艦の出航が遅れてるみたい」
「理由がわからないな。どうして?」
「氷結されたアデレードに、価値を見出したんでしょ。しょっぱい犯罪組織にとっちゃ、大仕事よ。凄い取引でもしようって魂胆かな」
考えられない話ではない。誘拐。人質として、今、最も価値のある人間の一人だ。氷結された人間は逃げ出すことが出来ない。拉致は非常にスムーズに行える。疲弊したリューヴ国軍に潜入し、この混沌の都市に隠れれば、そう簡単には見つからないだろう。
それに、アーシアが嘘を言う理由もない。彼女は本心から私を助けてくれる人間だ。
「そのシンジケートというのは?」
「ここらの娼婦を仕切ってる連中。繋がりは見えないけど、それほど規模は大きくなさそうね。どこかの傘下なのかも」
大々的に商売を始めたり、裏で麻薬の売買を行うような、まさに企業のようなシンジケートとは違うということだ。せいぜい、弱者である女性を働かせるくらいしか力のない団体、ということになる。
ここでようやく、私はアーシアの目的が見えたのだった。
初めて会った時のように、二人で大暴れしてやりたい、というのが本音か。
「うふふ、それもあるけど、ね。貴方に会いたかったってのは本心」
「は?なにを言ってるんだよ、お前。私はあの時と違って既婚だよ」
「知ってるわよ、バァカ。泣き虫で意地っ張りで、小さなプライドに拘る子供そのものなオフェリアが、きっと好きだと言ってるだけ」
不思議な、懐かしい、感覚だ。誰も私の本当を知らないはずなのに。ただ一人。この女性だけが、知っている。奇妙な、不可思議な、感覚を――――
3
翌朝のことである。私はもそもそといつものように朝食をとりながら、すでに終えたアーシアの小言を聞き流していた。まだ意識が明朗ではない。ぼんやりと今日の行動を考えているのだ。アデレードを助け出す。そのために、何をすべきなのか。
「本当に、遅い。もっとちゃっちゃか食べなさいよ」
勢いよく手を回転させて説明するアーシアを横目に、粥をずずずと啜る。
「……シンジケートくらいなら、二人で充分ですよ?」
「そう、充分よ。だから、面倒になる前に、さっさと襲っちゃおって」
相手が軍や警察ではなく、犯罪組織、それもさほど大きな規模のものではない。とすれば、速攻で強襲するのが正しいかもしれない。確かにアーシアの言うとおり、時間をかければかけるほど、状況は変わる。氷結されたアデレードがルテティアに売られる、などということも考えられた。そうなれば、確かに面倒である。
「ふぅん。で――――ドコを襲うの?」
「九龍城砦。昨日も言いましたよ、ボケ」
「それで、何をするんだい?」
ふと、アーシアの動きが止まったのが見えた。私は空になった食器を置いて、箸を揃えてお盆に載せた。店主が下げに来る前に、微笑と礼を添えて渡してやる。
「オフェリア。アンタ、いくつになった?」
「二十五」
もう目は覚めていた。背中越しに年齢を聞く失礼な女に嘘も偽りもなく答えてやる。
椅子にかけた羽織を着て、店を出る。人気の無い路地である。少し歩かなければタクシーを捕まえられそうになかった。ここらは観光地というわけではない。ホンコンに住む人々の日常。ここにあるのは、それだけだ。
駆け足で近寄ってくるアーシアの気配を感じながら、路地から出た。大きな通りに出る。それでもまだ時間が早いのか、活気というほどのものはない。新界の奥地である。目指す九龍は、現在地の新界と香港島の間にある。
新九龍城砦は、尖沙咀と呼ばれる地区にあった。半島の南西端に位置している。城があるわけではなく、現在は九龍城砦の跡地が公園になっている。九龍城地区にあるものだとばかり思っていたが、そうではないらしい。
「ビクトリア港を越えて背後から、ってのはどうかな?」
「強襲案としては悪くないけど。オフェリア、気付いてないの?」
「何が」
「さっき。自分で何て言った?」
ふと、立ち止まる。
「――――何のために、と、言った」
それは無意識。昨夜の会話を繰り返し、そして理由を忘れた。どうして九龍に行くのか。それは、何のためなのか。簡単だ。実に、簡単だ。目的があるから、行動をする。行動をしてから目的がわからないと言うのは、白々しくとぼけた言葉だろう。
「第二段階よ。症状が、神経系から精神系に移りつつあるわ。いえひょっとしたら、内科系の症状も出始めてる」
「……オクタウィアにでも、聞いたのか?」
三十年という歳月しか与えられていない躯。もう二十五年が経過している。すでに、兆候は、あるのだろうか。それに気付いていないだけなのか。
――――寿命。その兆候が、忌々しいほど、見え始める。
「悪いけど、アーシア。今が一番、充実しているんだ。体力は、ちょっと落ちたかもしれない。けど元から体力があったわけじゃない。昨日、わかった。多分、今がピークってヤツだよ」
肉体機能は、なお健在だ。体力や筋力は、少しだけ落ちた。しかし経験や修練を積み重ねた今は、五年前より確かに強くある。おそらく、今の状態が維持できるのは、数ヶ月から一年。それがきっとピークで、後は下降していくだけだろう。経験を老化が凌駕してしまう。
「こういう無茶が出来るのは、最後だろう。だから、」
せめて、楽しませてくれ。そう思ったが、口には出来なかった。
認めたくない思いが、どこかにあって。私は静かに、そして確かに、恐怖していた。
母はどんな思いで死んでいったのだろう、と。ふと思った。
三十三だった。その最期を思い出すことに、以前ほど苦痛は無くなっている。時の経過が、そうさせる。記憶は薄れ、やがて、思い出すことに何の抵抗もなくなり、いつしか忘れてしまう。
フェリーの上で、水面を眺めながら、若くして亡くなった母を思い出していた。三十三歳は、早すぎる死と言えるだろう。病だった。睡眠障害を患っていた。しかし、それが死に至る病気ではなかった。
「私は馬鹿だから、ずっと、ずっと、病気で亡くなったんだと思っていたんだ」
誰に聞かせるでもなく、ぽつり、と。呟いてしまった。
眠ったまま、死んだ。だから原因は睡眠障害にあったと思っていた。そんな大きな勘違いを、私はずっとしていたのだった。いや、そう思いこもうとしたのかもしれない。知っているのは、この世に、私だけ。アデレードに教えることなど出来なかったし、気付いていた父ももう死んでいる。
「――――自殺、だった」
空気が、凍ったような気がした。その言葉を口にして、その言葉を認めた時、空気は凍った。
「だから君はレアティーズを許さないと言うのかね、オフェリア」
そんな真実を言われて、私は振り返った。アーシアではない。隣にいるアーシアもまた、振り返っている。フェリーの甲板で、観光客で賑わう中、その人は歳に似合わない黒い衣装を着こなしていた。白衣ではなかった。だから、驚いた。
「何故、ここに?」
「ゾンマーが死んだ。リゴレット・リエンツィに殺されてだ。その代役を届けようと思ったが、まず演習が必要でな」
「リューヴ国軍が停泊したまま動かないというのは、それが理由だったのかな」
「まぁ、そんなところだ。ハイデラバートで太陽系の屑どもを相手に楽しませてもらった。しかしサム・ラマートも使えないわ。留守番もロクに出来無いときた」
「妹のことですか」
「イエスだ。別にどうでもいいのだけどね。演習が一つ、増えただけさ」
「それで、貴女は何を?」
「観光。共にどうだ。なに、連れがいても構いはしない。わたしの方が知的美人ってヤツでしょ」
昔から、奇妙な人だった。敵なのか、味方なのか。それがよくわからない。
「ひょっとして、マリー。私を探していた?」
「いや、会えたのは偶然。ゴミクズみたいな街並みを観光をしたいと思ったのは本当。ヒマなのだよ、演習が終わるまで」
言って、彼女は笑った。四十歳になろうかという女性だったが、若くして老化する私とは正反対に、瑞々しい若さを見せるマルガレーテ・シン・シャル・イシュクンは、やはり敵でも味方でもなかった。
マルガレーテは敵である。少なくともリゴレット・リエンツィやセリア・イザークはそう思っているだろう。しかし私にとっては敵とは思えず、また彼女も私と敵対しようとはしていない。それは単なる利害関係を超えて、私は彼女が作り出した最高のクローンであり、彼女は私を作り出した生みの親と言える。
双方に、出会うことに利益がある。敵対することで得られる利益は、何も無い。自然と、敵か味方かと色分けすることは難しくなる。
思想も似ていた。彼女は根っからの無神論者で、自分を第一に考えるエゴイストだ。それは、私にも通じるものがあった。少なくとも、神の権威から権力を剥奪するという目的は一致していた。
「ほう、体の変調が始まったか。実を言うと、試作品たちは二十年を超えられなかった。寿命は三十年に設定したはずだが、どうも二十年を越えると変調が始まるようで、バランスを崩して壊れてしまうの」
二十年。五年前を思い出す。そういえば、アーシアと出会ったのも、ちょうど五年前だった。シリウスでの決戦やゲルトラウデの死など、激動の年だった。
「そういえば。二十一歳の時に月経が始まったのを覚えてる」
「ふ、あはは、本当にか。それは災難だったな。だが驚きだ。男性体に作ったはずだぞ、オフェリア」
変調が始まりバランスが崩れる。まさしく、体のバランスを破壊する出来事ではないのか。
「単なる消化管出血だろう。戻った後に検査してみるといい。わたしのクローンがアルゴナウティカに乗船しているから、ソレに頼みなさい」
海を一望できる喫茶店で、楽しくお茶会である。往年の友のように談笑する私たちと、いまいち状況が読み込めていないアーシア。奇妙な組み合わせが生み出す、不思議な時間だった。
「アデレードの居場所だが、対岸の倉庫と調べはついている。今夜、行くといいよ」
「また、その演習に巻き込もうと思ってるんでしょう。戦闘データを寄越せ、って」
「当たり前だ。本気でやらなきゃ殺されるかもしれないねぇ」
楽しそうにクスクスと笑う研究者に、辟易する。だが提案に従うしかない。もし今夜行かなければ、アデレードはリューヴ側の手に落ちてしまう。もし彼女を救いたければ、行くしかない。そして新たなクローンを消滅させる。マルガレーテにとっては、どちらが勝っても面白いデータが採取できるのだろう。
ゾンマーのさらなる戦闘特化型。本気で挑んで、勝利を得られるかどうか。ゾンマーという存在は、この体から戦闘という二文字を抽出して作られた。私が勝てたのは、ほんの偶然に過ぎなかった。それをさらに強くしたとマルガレーテは笑う。
「お礼に、イイものをあげるわ」
妖しく微笑み、彼女が差し出したソレを――――無条件に払いのけていた。
手から落ちる。テーブルに手をつき倒れる。椅子から転げる。無様に地面を見下ろす。そして、吐き出すのだ。
この身に刻まれた傷痕は、未だ消えず。私はソレを見ただけで、絶対的に嫌悪し、生理的に拒絶する。
アーシアは驚きながらも私の背をさすり、飛び込んできた従業員を視界の端にとらえながら忌々しくソレだけを見ていた。小さな薬瓶だ。スポイトのような突起物がついていて、患部にぽとりと薬を水滴にして落とす。点眼薬の一種だった。
「……安心しろ、流通しているような粗悪品じゃあない。この天才サマが作り出したモノだぞ」
「今度私の前でソレを出してみろ。表情を変える前にこの世から消し去ってやる」
「黙って説明を聞きたまえ。ほら、水だ」
コップを渡され、私はゆっくりと水分を補給する。突発的な嘔吐だった。一瞬にしてストレスが沸点に到達したような感覚。アーシアの肩に掴まりながら、腰をおろして椅子に座った。従業員がすぐに清掃を始め、港に面したテラスはすぐに落ち着きを取り戻した。
「お前は遠からず、死ぬ。それは避けようがないもの。延命させる方法が無いわけではないが、きっとお前は否定するだろう。だが末期は苦しい。およそ人とは思えない最期を、迎える」
はっきりと、彼女は答えを口にしていた。突然過ぎる言葉に、私は薄々としか将来を感じることが出来なかった。
「それは、酷いものだろう。自身にとっても、周囲にとっても。だから、」
「拳銃で頭を撃ち抜けと?それしか、道は残されていないと言う?」
「もう一つ。中毒性は無く、夢を見るだけの薬だ。一種の麻酔だな。眠って良い夢だけを見ていれば、幸せだろう」
吐瀉物にまみれた小瓶を、逡巡もなくマルガレーテは拾い上げ、私が口にしたグラスに放り込んだ。水に浸かっているソレを、憎々しい感情で見た。
「オクタウィアはお前に従者でもつけるつもりでしょう。身を守るために。それは、周囲の人々を、お前からだ」
死。それは、絶対なる予定の調和。
必ず迎える結末は、誰もが同じ。ただ遅いか、早いかだけの違いしかなく。
「どうか最期は。幸せな夢を見られると、いい――――」
カウントダウンが、始まった。
それはきっと、最初から。そしてきっと、人より早く。
4
ルキアは言った。“私は何の為に生きているの”と、そう言った。
私は答えた。“人が生きるのに理由がいるのか”と、そう答えた。
理由はいらない。ただ、意味があるといい。それは生きることに希望があるから。積み重ねた生に、光り輝くような価値があると信じたい。たとえ死すとも、その光が誰かを優しく照らすのならば、きっと最期は怖くない。
理由が欲しい。ただ、どうして生きているのか知りたい。それは、生きることに絶望しかないから。価値を見出せないのなら、理由をつけて生きなければならない。たとえ死すとも、生に理由が無くなれば、きっと最期は怖くない。
結末はどれも同じ。結末は皆が同じ。どうせ迎える終末ならば、私は前者がいいと思った。
人が残す生の証、死すとも残る希望の煌き。人はそれを、子という。私に子供は生まれないが、他にも遺せるものはあるだろう。金でもいい。権利でもいい。私がオフェリアが生きたという証を、星の海に流してやりたい。
こういう想いを抱くのは、どこかで理解をしているからだ。終わりはそう遠くはない。頭が、心がいくら叫んでも、身に刻まれた運命がそれを知っている。だから、想う。近くに終わり、遥かに叶え、この願い。そして届け、煌く明日の果てへ。
「……海に、溶けるか。私の願いは」
水面には、香港と九龍の夜景が輝いている。まるで、この大空に広がる星の海。私は想いを海に溶かし、流れていけと淡く願っていた。
「そうね。オフェリアは執着心が無いから、溶けるかもね」
ビクトリア港を、九龍に向けて船で行く。隣に立つアーシアは今までにないほど優しく、穏やかな声で、同意してくれていた。
執着心は、前はあった。しかしどれほど望んでも、手に入らないものばかりだった。家族、故郷、自由。普通というのは望んで手に入れるものではない。普通というのが、一番、手に入らないものだとわかったのは、随分と大きくなってからだった。
夢が、頬を伝った。
「私は、本当の、俺は――――強がってるだけだ」
誰にも侵されないよう、誰からも守れるよう、大人になって強くなろうと決めた。それは今も、今までも、そしてこれからも、きっと。変わらない、変わってはならない。本当は弱くて、泣きたくあっても、強くあろうとして、隠してきた。いつからか、隠してきた何かを、失った。
そうやって、ルートヴィヒはオフェリアを演じてきたのだろう。
「――――生きて、生きていたい……」
死にたくなど、なかった。死にたくなど!
それでも避けられない、生まれた時から決められてる。三十年。歪な電池だ。最初から壊れてやがる!
破裂しそうな感情に、何かが被せられた。体温。生命そのもの。心音を、近くに感じる。まるで母の胎内に戻ったかのようで、どうせなら何も見えなくなれ、と。私は目を閉じ、温かなまどろみに意識を溶かそうとした。
――――帰ろう。これが最期の夢ならば、帰ろう。恐れず逝ける、夢の世界へ。
鋭い悲鳴、強い死臭。薄暗い倉庫の中から感じられるのは、それだけだった。
凄惨。巻き起こる戦闘は、おそらく私が今まで見た中で、最も凄惨なものだった。転がる地球人の死体は、いずれも斬殺されたものだった。アーシアがゆっくりと剣を抜く。銃を手にした男が、剣を手にした鬼を殺せなかった。何か、理由がある。
倉庫の中では、まだ戦闘が行われていた。広い屋内である。月光が吹き抜けとなった上階から降り注いでいる。中央には氷漬けの女性がいる。淡く輝くようなそれにいるのは、目を閉じたアデレード・フォーレ。その前で、一人の少女と守る二人。一瞬で、二人の身が両断された。
「マルガレーテ、何てことだ。貴女はやはり、神か悪魔か」
知らず、言葉が口をついて出た。おそらくどこかで聞いている彼女に向けてのメッセージ。
剣を手にした、陣羽織の男。背はそれほど高くない。青みがかった黒髪。その全てを――――知っていた。
彼は少女を殺そうとし、しかし、動きを止めていた。背後にいる私たちに気付いた。ゆっくりと、ゆっくりと。半身になり、首をこちらに向ける。見ようか、見まいか。束の間、私は迷う。しかし、抗えなかった。私は、振り向いたその男の顔を、直視する。
暗闇に光るふたつの目。それが、見開かれた。口が動く。その音は私の耳にまでは届かなかったが、唇はこう動いた。オフェリア。否、あるいは。「コーディリア」かもしれない。
そして、言い直した。
「ヴァン・フォーレ」
「貴方はいつも、そう呼んでいた。リア・フォーレ」
オフェリア・ヴァン・フォーレと、向かい合う、
オルフェオ・ヴァン・フォーレと、静かに見守る、
アデレード・ヴァン・フォーレ。
月の光が照らす、決して表にはならぬ、裏の、舞台に。役者が揃う。
どうか目を覚まさないで。どうか眠ったままでいて。
この暗闇の対峙を。君に見せたくはない。
彼は死んだ。十六年前に、死んだ。それでもここにいる。
オフィーリアがここにいるように。レアティーズが聖堂にいるように。死者が、世界を動かす。
「お母さんはどこに行ったんだ、ヴァン。家に、いなかった」
「死んだよ。カンディードに殺された。そのカディも、貴方が殺した。レアも」
青年はなお、二十三年前の世界に留まったままだ。二十もの年月が経った。あの頃と、変わらないものなど、何も無い。世界は変わる。人も、未来も、何もかも。
「一つだけ、教えて欲しかったことがあるんだ、父さん」
ヴァイゼル・トレーネ。アーシアはオルフェオの背後にいる少女を助け出し、後ろに下がった。きっとわかっている。これから何が起きて、誰が闘うのか。
「悲しかったからでもいい、辛かったからでもいい。それでも、貴方は、罪と思わなかったのか」
「何を」
「俺を、作ったことを」
どうして、とは問わない。それは決して許されないことだったはずだ。人の命。それは絶対に、触れられない。その無力さに嘆いたこともあった。変えられる力を求めたこともあった。それでも、気付いた。変えられないのは、変えてはならないからだ。
父がいる、妹がいる。母もいれば、それでいい。手に入らなかった全てを手に入れることが出来る。
それは――――失ったから、欲したのに。失わなかった未来では、気付けない夢に。
「アンタは思ったはずだ、俺たちの罪を!双子が殺し合う痛みを、兄を殺して思ったはずだ!それを知ってて、どうして。オフィーリアを殺したのは父さん、貴方だ。その罪を、無かったことにして俺になすりつけるな」
「言うな。子を生めないお前に、あの気持ちをわかってたまるものか、ヴァン」
「その名で俺を呼ばないでくれ!俺にだって名前はある。先生がつけてくれた、名前があるんだ!」
「いいや、無い。お前はオフェリアだ。アデレードとは違う、オフィーリアのコピー品だ」
私は、耐えた。はっきりと否定する言葉を並べる父を、睨みつけるようにして、涙が零れないように耐えた。どんなことがあっても、どんなことがあっても、私は心のどこかで、父が好きだった。どんなことがあっても、絶対にだ。
この世は、全て夢だった。儚く、脆くて、簡単に毀れてしまう夢だった。
こんな現実を、知りたくなかった。たとえ名前をつけてもらえなくても、たとえ殴られていたとしても、たとえ、この身を侵されるようなことがあっても、私は、この父が好きだった。
その全てを、夢で作られた現実が否定をする。もう、忘れてしまえばいい。もう、思いを無くせばいい。私の父は、この心の中だけに。目の前の夢のカケラは、父に似た誰かで、いい。
「この時代に、貴方の居場所はない」
一歩、前に出た。もう会話など、したくない。問答は、剣で。命のやり取りをしよう。
過去の亡霊になど、負けられない。今を生きているのは、この私だ。見ていろ、マルガレーテ。見ていろ、世界。生きるのは――――
豪腕。父の手にしていた剣。知っている。これ以上、私の夢を、穢すな。降り注ぐ豪の剣を、壊してしまうように、真横から薙いだ神の剣で止める。
互いに、ウリエルの名を持つ者。イスラフィルは通用しない。だと言うのに、肉薄した状態で敵は柄から右手を放し、虚空を殴った。オルフェオ・フォーレのイスラフィルは、私とは違う。それは、超接近戦から生み出される。魔弾の拳。
遠距離砲ではなく、ショットガンのようなものだ。身をよじって半身になり、イスラフィルを避ける。同時、脳天に衝撃が走った。敵は一回りは背の低い私の頭に頭をぶつけ、よろめいた体に強烈な蹴撃を繰り出した。
剣術、体術、そしてイスラフィル。あらゆる武技に精通し、格闘戦を極めた男。
胸に長靴が当たり、わずかにむせる。ガムシャラに振った剣は、すでにステップを踏んで後方に跳んだ敵の影を切るだけだった。
小さく息を吸い、大きく吐いた。
互いに、構えは同じ。純粋な剣技であれば、その筋は同じ。何せ、私はこの人から学んだのだ。技量の差がわずかなら、おそらく決着はつかない。勝敗を分けるのは、付加価値の要素。体格と経験を活かした体術を織り交ぜる敵の武技。ならば私は、何を付加する。
動く影。漆黒の衣装に身を包み、宵闇に光る剣。そして光を照り返さない黒刃の剣。両の手に引っ下げた黒い魔女がオルフェオの周囲を回る。状況。単独で勝てないのなら、勝てる状況を生み出すことだ。
アーシアと連携し、オルフェオを左右から挟むように動く。二人に気を割きながら、オルフェオは交互に視線を動かした。
「良い男だけど、好みじゃないわ。美少年がいいのよ、そこのアホみたいな」
妖艶に笑いながら、アーシアが言った。オルフェオが彼女を見る。頭を下げ、私は一気に距離を詰めた。低く、低く、超低空より接近する。
全力。渾身の力で、斬り上げる。同時に対角線上から走り寄るアーシアが右の銀剣を振った。二方向より同時の攻撃。上下からの斬撃。最も回避が難しい攻勢を、鋭くバック・ステップしてオルフェオは避けた。
反撃の剣を、アーシアの二刀目が弾く。外れた剣、私は体を回転させるようにして、巻き込んだ一撃を、頚動脈へ目掛けて放つ。不可避。思った瞬間、弾かれたオルフェオの剣が流れ、肘が折られて防がれる。鋼が当たる音。高音に、耳が一瞬だけおかしくなる。
オルフェオの左手が、アーシアの顔面を捕えた。光。両手で剣を持ち、ぎりぎりと剣を押す。それでもオルフェオは片手で私の剣を押さえきっていた。アーシアを弾き飛ばした左手が、こちらに向く。離れろ。細胞が瞬間的に爆ぜ、私は全力で離脱していた。目の前を、光撃の魔拳が通過する。
二人を相手に、なお、優位。先ほどまで悲鳴をあげていた少女の近くに吹き飛ばされたアーシアが、ゆっくりと立ち上がる。
力。
まさに圧倒的な力。これがオルフェオ・フォーレだ。戦場に立った英雄。その勇名は大聖堂からではなく、戦地より発せられ、世界に響いた。近接戦闘で他者の追随を許さぬ、世界最強の男。その強さに男子は憧れ、女子は畏れる。
かつては、私もその一人だった。
「先生は、貴方を信じていた」
「ナオミがどうした。俺の邪魔をしただけの人間だ」
「どうして邪魔をしてきたのか、その間抜けな頭で考えろ」
全身に気迫。満ちた気勢と共に、オルフェオへ飛び掛る。
振りかぶる。思い切り、振り下ろす。あまりにも単純で、最も強引なその一撃。全ての防御を吹き飛ばす力で――――斬り上げて来る一撃にぶつけた。
腕が飛ぶ。勢いに、負ける。力で、押し負ける。せめて剣は放さぬようにと力強く握り、迫り来る魔拳を眼前に見た。
呼び声。求めの声。アーシアの声で起き上がる。鼻が折れ、唇が切れていた。
尻餅をつく。もう嫌だ。こんな痛い思いまでして、何をしなければならない。気持ちが折れている。起き上がることは出来たが、立ち上がろうとは思えなかった。きっと立てば、今度こそ殺される。
ぼうっと、風景を眺めていた。
私を見て叫ぶアーシア。名も知らぬ少女の涙。氷の妹。そして超然と君臨する我が父。何が起きているのだろうか。父は死んだ。死者が街を歩くことなど出来ないのに。今、ここは何が起きているのか。否、ここは一体どこなのか。
亡霊。
生きていてはならないものが、生きている。
「サーシャには、触れないでくれ」
守り続けてきた希望。触れるな。ソレに、触れるな。死者。死してまだ、娘を穢そうとするのか。ならば――――殺さなければ。死ぬまで殺さなければ。
亡霊を殺せ。誰かが語りかけてくる。うるさい天使だ。氷の中で起きているなら、手を貸してくれてもいいものを。折れた心を、何とか立ち上がらせる。目を閉じ、氷に閉じ込められた肉親を見上げる。その目は開けないで。これから起きることは、きっと、惨劇。
「私が殺す、私が殺す。断罪の剣はここに。神の焔が亡者を焼く。地獄の業火が死者を焦がす」
時間は無い。両腕からふつふつと湧き上がる闘志。まるでひび割れた心から、漏れ出る命のように。焔が全身から吹き上げてくるのを私は感じた。命は限りがある。いつまでも燃えているものではない。故に、時間は無い。
今すぐ殺す。今すぐ殺す。死ぬまで殺してやる。
それが断罪。ウリエル・フォーレが担う神の役目。ラファエル・リーティアが癒す者ならば、ウリエル・フォーレは殺すことで救いを与える。
救う。亡者の念を断罪の剣で、斬る。どうか父は英雄のままで。心に残った愛する父のままで。これ以上、偽りの生で、その人生を汚すことはさせてはならない。救えるのは私だけ。この身から湧き出る神の焔のみ。
だから。泣くな。涙が出る。悲憤の涙は、赤く、血の如く。
オルフェオが、振り向いた。まさか。そんな顔をした。心の叫びが私には聞こえるような気がした。きっと父は、父ならば、こう言っている。――――殺してくれ。
私にしか出来ない。私がやるしかないのだ。
「ああ、なるほど。アイツは、神を産んだのか」
神。ガートルードが産んだ神の名は、オフィーリア。
迸る焔。熱、光、質量、全てを含んだ月の虹。アデレード・アレクサンドラが銃ならば、オフェリア・ルートヴィヒは弾丸。
我が身、弾丸に変えて。全身から迸る焔を湛えて、私はオルフェオ・リアに飛び込む。
疾走。その跡が燃え上がる。その影が光り輝く軌跡を生む。走った。ふ、と。浮いた。空さえ駆け、剣を翼に。広げた腕は大気を掴み、なお、加速する。
敵はひとり。アデレードの砲撃など不要。一人を徹底して殺すだけならば、巨大な剣は要らない。鋭く速い、矢のような剣でいい。氷の中で眠る希望。私の代わりに、世界を攻めるのは、彼女かもしれないと思った。
二人で一人。それでも、君には見せたくない。
朽ちた摩天楼に雨が降る。濡れた街並みは陰鬱。汚れた街角は醜悪。夜空を埋めるネオンの輝きに目を向くこともなく、ただ切り裂くが如く。空に咲いた。叩きつけられるように地面へ落下。激しく痛む背を押さえながら、無言のまま彼の者は雨の道を行く。窪む眼窩に光はなく、痩せこけた頬が凄愴な表情を生み出している。進む理由は意志が生み出す。それは希望か、あるいは絶望か。去来する思いに生存の意志は少なく、あるのは有り余るエゴイズムだけだった。鈍痛を訴える腹部を押さえつつ、よろめくように、なお前へ。背後では、ひとしきり続いていた爆音がようやく止まっていた。目的は達した。障害を阻むものなど無い。後は夢を取り戻すだけ。いつか失われた輝きと、かつて灯ったその煌き。今もなお、遺された光を求む。歩みは止まることなく。終幕はまだかと急かすように進む。空港。そこから船に乗り、光を追って限りない未来へ。そもそも――――彼にはそれしかわからなかった。彼には、それしか見えるものがない。故に。今、まさに彼を囲む警官隊の存在には気付けない。誰と識別されることもない。彼は名も無き者。誰何されることも、あるいは呼びかけられることもなく。路傍に斃れ。路地裏でただの肉片と化した。
それが、私の父の最期。それでいい。それがいい。こうして息子に殺されることなど、時間の狭間に消えてしまえばいい。
誰も見ない。誰も知らない。オルフェオ・フォーレは誰にも知られないまま、二度目の死を迎える。
5
赤い瞳。頭から流れ出る血が目に入り、血涙を流しているようにも見えた。
「いや、うるさいからこのままで」
アデレードを解放しようとしたアーシアを止め、目を拭きながら座っていた少女を立たせた。思えば、この少女がシンジケートの長となり、アデレードを奪った。この悲しき死は、彼女によって引き起こされた運命なのかもしれない。
彼女は少し途惑ったような、困ったような仕草で立っていた。私は何とか笑みを作って見せる。考えようによっては、サマンサ・ラマートからアデレードを助けてくれたようなものだ。
「あ、オフェリアでしょ。フルジア皇帝の。凄い、本物?」
「偽物」
目を擦りながら、元気そうな少女の声を聞く。背後から気配が迫ってきているのに、私は気がついた。完全に視力が回復し、振り返る。兵士。軍が出動しているのだろう。この倉庫はすっかり取り囲まれているようで、続々と部隊が流れ込んできた。
相当な騒ぎになっているのかもしれない。銃を向けられ、誰何される。服からIDカードを取り出し、それを見せる。アーシア。周りを見ても、すでにアーシアの姿はなくなっていた。困った時にだけ現れる私の天使。心の中で、感謝を伝える。
「ルートヴィヒ・ヴァンフォーレ。そこの氷漬けになっているのが妹のルイーズです」
シャルパンティエにもらった@ID。照会をしている兵士の隣で、少女が拘束されていた。
「ユーロパから仕事で来たようだが、どういった事情だ?」
妹が犯罪組織に拉致され、やって来た。そう言えば理解もされるような気がした。しかし私には、拘束された少女が気がかりで、すぐに真実を言うことが出来なかった。
「妹は重い伝染病患者で、空気感染を完全に防ぐために氷結させています。ホンコンに腕の良い医者がいるという噂だけを頼りにやって来て、そこの女性に紹介してもらう予定でした」
目を見る。話を合わせろ。そんなメッセージを伝えたつもりだった。
「……ああ、うわ。こりゃあ、将軍に報告しなきゃマズいぜ」
「申し訳ないが、身柄を拘束させてもらう。抵抗はしないでくれよ」
言い分も聞かず、連行を余儀なくされる。手錠はされなかったが、自由は無さそうだ。どうなるのか。少し興味が湧いた。おとなしく私は彼らに従い、軍用車に乗ることにした。隣には同じように拘束された少女が座っている。
氷結中のアデレードも含め、三人。移送された先は軍事基地で、一人の上級将校が案内するように先導をした。アデレードには厳重な警備がついているようで、奪還するのは難しいように思えた。
陸軍の駐屯地を歩かされ、兵舎に入る。太陽系同盟軍地球軍団の軍基地だ。陸上部隊がここホンコンを本拠とし、宇宙軍はハイデラバードに本拠地がある。
一室に通される。将校が退室した後、入れ替わるように軍服を着た男が入る。見覚えがあるな、と何となく思った。徽章を見る限り、階級は中将とかなり高位だった。おそらく駐屯地の司令官を務めている人間なのだろう。
林家維。名前を思い出す。太陽系同盟軍の実質的な総司令官に当たる人物だ。名将と名高く、フルジア軍でも最重要の敵性人物にマークされている。
「リン・カーウェイ同盟軍司令官です」
名乗る。どこか清潔感のある言葉だ。歳はまだ四十代前半で、マクベス・ライルよりかなり年下だった。故に強引に動くような真似は出来ないのだろう。ライルに対する発言力がもう少しあれば、フルジア軍もうかうかしていられないと分析していた。
「アエロナウティカ・オフェリア、アルゴナウティカ号の艦長を務めています。前フルジア帝という方がわかりやすいでしょうが」
正直に身分を明かした。この男は、嘘を見抜くと思ったからだ。カーウェイは少しだけ驚いたように表情を動かしたが、すぐに平静を保った。互いに名乗り合い、着席する。
「ベルベデーレの。これは、驚きました。ルテティアでの一件は、大変でしたな」
「妹が一緒に連れて来られています。リューヴ国軍に逮捕されましたが、この少女のおかげで助かりました」
「やはり、ルテティアにいるオフェリア様は偽物なのですか」
「断定は出来ません。確かに私はルテティアでアデレードの双子の姉として生まれた。しかし実際にオフェリアとして、あの子の兄として生きたのは他ならない彼なのです。私は、名前を持つだけに過ぎません」
何もしてやれなかった。全部、レアティーズがやってくれたことだ。私は何一つ、アデレードに報いてやることが出来なかった。私は、何をした。祖国を裏切り、フルジアに味方し、そしてフルジアをも裏切ってここに流れ着いた。
「憎しみを持たず、怒りを知らず。まさに神の如し、ですな。オフェリア様、そんな言葉は貴方にしか言えぬ」
「……そう言っていただけると、救われます」
「さて、大層と娘が世話になったようで。いやはや、反抗期と言うか。まさかここまで楯突くとは。娘に代わって、謝罪いたす」
おや、と思った。頭を下げるカーウェイの姿。そして隣。バツの悪そうな顔で椅子に座り、ふてくされる少女。歳はまだ十六歳かそこらだ。もしや、娘とはこの少女を指すのか。
「素行の悪い娘です。家を飛び出して、挙句の果てには仲間とつるんで犯罪集団なんぞを作りやがった。いっそ逮捕して処罰を加えようとは思っているのですが、なかなかそこまでは」
「大変ですね。売春の斡旋程度では、法律に触れるか触れないか微妙なところでしょう」
「そうなのだ。裏でこそこそと悪さはしているが、捕まらないようなことばかりで。法律の抜け穴を潜り抜けてやがるのです。しかし、今度は駄目ですな。誘拐罪だ、それも聖女様を誘拐するとは!」
落涙。物凄い勢いで頭を下げ、再び謝辞を述べるカーウェイ。慌てて私はとんでもない、と叫ぶように返していた。
「どうかご寛恕くだされい、オフェリア様。この娘は不憫ではあるのです。男親で育ち、荒い軍の世界に生きてきた。馬鹿なのです。どうしようもなく、愚かで、馬鹿なのです」
「うるさいわよ!人を馬鹿馬鹿言って、親父に何が!」
「――――あ。何か用事を思い出したので、帰らせてもらおうかなあ」
関わってはいけない気がする。関わると、とてつもなく面倒になると思った。
娘、リン・フェイを更生させたい。それが父の願いのようだ。
関わってはならないことに、関わってしまった。オルフェオの死体を隠匿することと、アルゴナウティカへの帰還。この二つはカーウェイ将軍の力添えが無いと難しい。逆に言えば、カーウェイを味方に取り込むことが出来れば、今後の展望も含め、楽にはなる。
「刑務所にぶち込むというのも、忍びない」
「ソフィア・ビュザンティオンには女子修道院があります。今のところ、アリアに任せようと思っていますが」
「修道院、ですか。どういったところなので?」
「清貧、従順、貞潔など厳しい戒律の下で沈黙を美徳とし、品性を磨き立派な神職を目指す場所です」
世界各地に修道院はある。フィルウィリミテア教の神官になるには、この修道院を卒業しなければならない。実質的には神職資格を取得することの出来る専門学校と捉えられているが、ソフィアに作られる修道院は少し趣向が違っていた。
オリュンペイオン式のシスターを目指す。世界に存在する教会や寺院とは違い、オリュンペイオンは総本山だ。実際に神に仕える身として、厳しい教育が施されることになる。それにうってつけの教師が、オリュンペイオン・シスターのアリア・ローゼンミュラーということだ。
現在のフィルウィリミテア教はレアティーズが統率し、リューヴ政府と結託して軍事行動まで起こしている。これを乖離させ、正しい方向に導くには政教分離を信条とする新しい神官たちが要る。新たな方向へ神を導く者たちを育成したい、というのが私の考えだった。
その響きが気に入ったのか、カーウェイは目を輝かせるようにして私の手を握った。
「入れてやってください、是非。是非に!」
「ま、まあですね。かなり厳しいと思いますし、地球に逃げ帰るのも難しいので、こればかりは娘さんの承諾が無いと」
「気にしないでやってください。オフェリア様ならば安心して娘を預けられます。どんなに厳しくしても構いません。ぶっ叩いても良しです。面倒を、面倒を見てやってください」
「――――あ、と。ちょっと待ってください」
娘を案じる父。教育を、と私に預けようとする姿。私は、そんなにいい教育者ではなかった。アマリアを、フィアを、オリヴィアを、そしてシャルンホルストを思い出す。少し、涙が出そうになった。
人に、教える。自分にはその資格がないのだ。だから私は、カーウェイ将軍の申し出を受け入れることが難しかった。利己的な理由で人を育てることはするべきではない。何を今更、と思われても。これだけは譲りたくなかった。
その一方で、伝えたい想いがあるのも確かだった。自分の生きてきた道。学んだ全て。それを誰かに伝えられれば、きっと私は、死してなお、人の心に生きることが出来る。
――――私の中に、父が生きているように。
「人は、悪い思い出は捨てられるのかも。そして残るのは、楽しく、幸せだった日々」
もう一度、教えてみようか。そう思った。
「リン、私と共に来る?妹の友達になってくれると嬉しい」
「いいよ。フルジア皇帝に教わるんだったら、ゲリラ戦のやり方とか学べそうじゃん」
私は微笑んでみせた。
想いは海に流れ、溶け。それでも幾多の星となり、後世にも輝きを残せるのなら。
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