[一日目]
胎を侵す不可視の触手、産み付けられる陵辱に吐き出される汁を浴びて
懐孕する



 共に生きるか、ただ縋られるだけか。
 脆弱な絆を、繋ぐ時。
 どちらを望むのだろう。
 流れた涙を拭い、星に願いを。
 僕らは血を分け、運命を共にする双つの命。



 残骸と火花の中で、私は目覚めた。
 体が痛む。墜落の衝撃はかなりのもので、よく生存したものだと感心した。胸の上に乗っていたシートの破片を強引に排除し、身動ぎをする。
 周囲に、アデレードの姿は無かった。死んだ、とは思わなかった。絆は生きている。だから、どこか他の場所へ投げ出されたのだ。探そう。私は目的を見つけ、気力を取り戻した。瓦礫に挟まる足を引き抜き、もんどりうって外に這いずり出る。
 森だった。群生した木々の中、光さえ遮る深い森。不時着というより墜落した艦艇は、もう完全に壊れてしまっている。そこだけ、光が差し込んでいた。木を薙ぎ倒して着陸したせいだろう。私は木漏れ日を浴びながら、上着を脱ぎ捨てた。かなり、暑い。
 空気があるのは幸いだった。やや息苦しくもあるが、生命活動に支障は無さそうだった。周囲を見渡すと、他にも空中分解したらしき艦艇の破片が転がっていた。それを拾い集めるように、木漏れ日を探して歩き始める。破片が墜落した地点は、いずれも木をへし折っている。そこだけ、光が集まるのだ。
 まだ使えそうなコンテナのようなものが落ちていた。エントランス部分だろうか。かなり大きめの破片だ。開いた大穴から私は中に入って、いくつかの使えそうな機器を持ち出した。武器はなく、腰に佩いたヴァイゼル・トレーネだけ。ポケットに入っていたモバイルのバッテリーと、アイス・ボックス。食糧を入手する。ついでに、衣服の入った箱も片手に持った。
 モバイルに所在地を映し出した。星図では、おとめ座銀河団に属している。だが近くには、何も無かった。第二銀河団のどこか、ということしかわからなかった。それにしても、リューヴの近くで墜落したと思ったのだが、とんでもない位置にいるらしい。
 近辺の地図を出す。熱帯雨林が広がっている周囲。生命の存在を示す光点がある。北東には群れもあった。それが原始生物なのか、あるいは高度な知能を持った集落なのかは、まだわからない。とりあえず、向かってみることにした。途中、単独で輝く光点もあった。もしかすると、アデレードかもしれない。
 しかし、おとめ座にいるのなら、救出は期待出来なかった。自力で脱出しなければならない可能性が高い。アルゴナウティカに連絡しようにも、遠すぎて通信が届かない。今頃、リゴレットたちは必死で私たちを捜索しているのだろうか。ならば、悪い気もする。せめて無事だと伝えたい。
 近くに、いくつかの光点が表示される。かなり速い。人間とは思えなかった。私はまだ止まったままの、群れの途中にある単独の光点に向かって歩いている。それを取り囲むように、五つ、六つの光点が迫っていた。どのような生物なのか、出会ってみるのも悪くない。
 そして私は――――その安直な思いつきに後悔をした。
「……何だ、これ――――」
 男が、木にもたれていた。男、とはっきりわかる。それは人間にとてもよく似ていて、シリウス人に近い容姿をしていた。焼けた肌と細身の体である。顔の彫が深く、鼻が高い、普通の人間に見えた。
 よくわからないのが、その男性が悲鳴を上げながら、犬のような動物に襲われていた。抱きつかれているような格好だ。それだけならまだ、じゃれているのだとか、そういった解釈も出来ただろう。問題は、どう見ても犬が男性と、交尾しているように見えたこと。
「っ、わ、お姉さん、助けて――――!」
「お望みとあらば。コレを退かせばいいの?」
「ああッ、頼むぜ、早く、いや気をつけろよっ!」
 支離滅裂に喚く男性の言葉に従い、私は注意しながら、しかし迅速に犬の脊椎部分を掴んだ。強引に引き剥がす。抱きかかえるようにすると、すんなりと犬は離れた。意外、だった。
 犬、なのだろうか。男性の肛門に挿し込まれていた生殖器は、黒く腫れ上がり、ウロコのようなもので覆われていた。規則正しく、ウロコがある。何だ、と思った瞬間、犬が私の顔面に飛び込んで覆われた。
 気をつけろ、とはこのことか。私は慌てるでもなく、生殖器を口に突っ込もうとする犬を地面に叩き落し、剣で大地まで貫いた。犬は即座に生命活動を停止し、動かなくなった。確認して、私はヴァイゼル・トレーネを抜いて、しかし鞘には納めなかった。
「アンタ、大丈夫か?」
「いや私より、自分の心配をするべきじゃないですか?」
 どうにも、男性と私の言葉が食い違っていた。ともかく、この星は、何かがおかしい。喋れもしない下等生物に怯える高度な知能を持った生命体。それは、通常ではありえないことだ。
「今のは、何です?」
「今のことは、忘れてくれ。絶対に誰にも言わないでくれ、頼む」
 やはり、会話が成立していない。気の無い返事をする私は、モバイルから発する警告音で五つの光点が接近していることを思い出した。再び、襲撃。剣を構えて私は襲撃の相手を見定めようとし、そして、今度こそ本当に、よくわからなくなった。
 五人だった。五つの光点は、人間に見える。ここにいる男性と、外見的特徴はほぼ同じだ。女性もいる。それは女性とわかる外見をしている。そう、全員が全裸の姿だったからだ。
 やはり、ウロコのようなもので皮膚が覆われていた。六面体が規則正しく組み合わされて、独特の模様のようになっていた。その鱗は等しく灰色で、人間たちはまるで、乾いた泥を塗りたくったように見えた。
 背後の男性が、再び喚き始める。ここで逃げられては面倒だ。私は思い切って男性の横隔膜を殴打し、呼吸を止めて気絶させた。そして五人と対峙する。
 まず、イスラフィルを撃った。二人同時に命中したが、彼らは驚くべき防御力でイスラフィルに耐え、真っ直ぐこちらへ向かって走ってきた。これには、驚愕する。イスラフィルを受けて消滅しないモノなど、無かったのだ。
 肉薄する。剣、通用するのか。わからないが、覆いかぶさろうとする男性の腹部を、貫いた。血は、出ない。剣を引き抜くと、その男性はまるで、最初からいなかったかのように、粉になってさらさらと流れて消えた。驚く暇も無く、二人目を切り下げる。同じく、灰の粉になる。
 三人目は、なかった。残りの三人はそれを見て一目散に逃げ出し、私はただ愕然と、呆然と見送るしか出来なかった。

 男性は、集落に住んでいるという。北東にある森の中の集落で、農業をしながら人々は生きている。私は彼に誘われて、その集落に入った。
 最初は、疑われていた。どうして生き残ったのかと訊ねられ、殺したら灰になったと答えた。それで彼はああ、と頷き。集落に来ないかと誘ってきたのだ。どうやら、あの人間に似た危険な生物は、殺すと粉や灰になるらしい。
 危険だった。アデレードを一刻も早く見つけなければならない。だから集落の人間から情報を集めようと思ったのだ。この近くに、他の集落はない。
 木造の家、森を切り拓いて作られた農地。酪農も行われているようだ。集落は豊かで、科学技術の痕跡は見られないが裕福に思えた。私は、男性の家に招かれる。彼は畑の隣に作られた民家に入り、私もそれに続いた。
「私は、とある女性を探しています。私によく似た女性が、こちらでお世話にはなりませんでしたか?」
 切り株を削り出して作られた椅子に座り、私は彼に問いかけた。妻であろうと思われる人物が差し出す木製のコップを受け取り、感謝を伝えると彼らは恐縮した。
「それは村長がご存知ではないかな。お前、ちょっと呼んできてくれ。彼女は命の恩人なんだ」
 愛想よく微笑んで、妻は退室していった。私にはそれが、厄介払いに見えて仕方が無かった。
「貴女、ここらの人ではないね。歓迎するよ。どこから来たんだい?」
「遠くから、としか言えません。私とその女性は突発的な事故に巻き込まれて、知らずここに辿り着いていたのです。ですから、よくわかりません。先ほどの、アレは何です?」
 核心を、衝く。男性は少しだけうろたえて、苦笑を浮かべて、額に手を置いた。
「……流行り病だよ。皮膚に、ちょっとずつ鱗が出来て、妊娠したように腹が出る病が、流行ったんだ」
「なるほど」
 唇に指を置き、考えた。それは突然、起きるものだ。病気というのは、それなりの文明を持っていなければ解明できない。ウイルス、病原体、それらを解明していないと、発生の原因もわからない。対処の仕様もないのだろう。原因が病気でなくとも、突然起きる異変であれば病気と思われるかもしれない。
「理性を失って、ただ人を襲うようになる。イカレちまうんだ。そうして襲われると、被害者も狂ってしまう」
 だから、対処の方法が無い。感染した村人は、発症が認められた時点で放逐されるだろう。イスラフィルさえ弾く、あの鱗。農村文化の武器では傷さえつけられないだろう。となると、襲われる前に追い出してしまうしかない。
 そうやって、森に彼らが住み着いたのだ。手当たり次第に襲ったのか、喰らったのかわからないが、動物まで感染は広がっている。それを食い止める術など、無い。
 彼の恐怖を、推し量る。森で、彼は隠そうとした。狂犬に襲われる。そして、感染する。ひょっとすると感染しているのかもしれない。真実はわからないが、少しでも疑わしい人物は放逐されてしまう。
「森でのことは、秘密にしましょう。性行為による感染ですか」
「ありがとう。感染は、一概にそうとは。唾液とかでも、なるみたいだし」
 体液を交換すると、感染する。確かに伝染病の一種に似ていた。感染者は血液が無いのかもしれない。だから、精液か唾液の体液に含まれる何かが感染源だ。生殖本能、というのは生物の基本的な本能。自我を失い、理性の無い人間が、食欲と性欲に走るのは、理解できなくもなかった。

「――――それで、ね。貴女の探してる女性だけど、孕んでるみたいなんだ」

 男性は、決定的な一言を口にした。私は、一瞬、彼が何を言っているのか理解が出来なかった。
 ただ、どうしようもなく。絶望に似た何かが私を包んだのが、わかった。



 村長の話によると、アデレードがこの集落を訪れたのは昨日だったという。
 この家の主人は簡潔に私の境遇と、森での一件を語った。それで私が余計な発言をせず、アデレードの安否に関して、即刻、問い訊ねることが出来た。主人の妻と、四人で向かい合っている。村長は比較的若い、女性だった。
「オフェリアさん、ですね。貴方の恋人はすでにこの村におりませぬ」
「なんですって?」
 私は、また混乱した。村長の言葉は、よくわからない。
「感染したものは、放逐する。それがルールでございます」
「それで、今どこに?」
「わかりかねます」
 混乱した頭を、何とか静めてみる。大きく息を吐き、一度、思考を透明に。
 質問をするにも、考えるべきだ。無駄な会話は、何かを間違えた問いは、致命的になるだろう。原住民との接触には、細心の注意を払う。アデレードは私を恋人と呼んだ。それには、きっと意味がある。双子であることを、隠したい何かだ。迂闊に姉妹、兄妹と答えれば、その何かが闇に隠れるかもしれない。
 感染したから、私の「恋人」は集落から追い出された。感染源。行為。時間の経過。
「無事、でしたか?」
 悩みぬいてから、安否だけを気遣った。村長らしき女性は、小さく頷いた。小康状態、ということだろうか。
「共に行動はしていなかったようですね」
「ええ。私は、遅れて目覚めたのかもしれない」
「オフェリアさん自身の、感染の可能性は?」
「おそらく、無いかと」
 男性が頷き、信憑性を加えてくれた。感染している人間に保証されても、仕方がないのかもしれないが、互いに森での出来事を黙認したということか。彼と私は一蓮托生。彼が発症すれば、私もまた疑われるだろう。
「色々と訊ねたいことはあるのですが」
「場所を変えましょう。軽々しく口にすべき問題では、ないので」
 誰が感染していて、誰が健康なのか。住民は疑心暗鬼になっている。村長が言うように、軽々と口端に上ることではない。出来れば、誰もいない場所で。二人だけで話すべきだ。
 私は頷いて、彼女に導かれるまま、この家を後にしようとして思いとどまった。
 彼に感謝を告げ、少しだけ微笑んでから、家を出た。弱々しい笑みで、まるで元気付けるものではなかった。

 情報をまとめてみる。
 周囲一体、この森で伝染病が蔓延している。感染源は不明。感染経路は粘液や体液の接触で、空気感染や接触での感染は無い。感染すると、短時間、数時間から数日の間に発症。皮膚の硬化と腹部の膨張の身体的特徴が見られる。理性が無くなる、というのがよくわからなかったが、脳症のようなものだろう。
 要するに、狂ってしまうらしい。脳の機能不全を起こすのだろうか。よくわからないが、社会的な生活を送ることは不可能になる。人間が持つ基本的な欲求が、理性を凌駕する。手当たり次第にモノを食し、羞恥心も感情も消えて生殖行動に走る。発症した人間は、必ずといっていいほど森に出る。放逐も含めて。
「予防策や、あるいは治療は?」
 私は村長と集落を見て歩く。何の変哲もない、散策だ。集落を案内するように回りながら、村人が最も恐れる会話を続けた。
「治療法は、ありません。単に触れる行為や、同じ空間にいるだけでは感染しないようですから、隔離も考えました」
「それで?」
「凶暴な患者を一箇所に閉じ込めるのは、不可能でした。食事を運ぶものが襲われ、感染が拡がる。それを何度か繰り返した後、我らは感染者の放逐を予防策としました」
 すでに、幾つかの集落は滅んでいるという。ここは、孤立しているのだ。
「アデレードは、どうだったんですか?」
 私は、そろそろ本題に入りたかった。はっきり言って、この集落がどうなろうと知ったことではない。妹さえ無事なら、それでいいのだ。私が知りたいことを、彼女ははっきりと口にしてくれた。
「下腹部の膨張が見られました。彼女が、妊娠されていたということは?」
「おそらく、ないでしょう」
「わたしも、そう思います。腕の一部が硬化し始めており、感染は、ほぼ間違い無いことかと」
 最後に、残念ですと付け加えて。彼女は、アデレードの命運を口にした。
「発症までは、どのくらい?」
「早くて数時間。遅ければ、数日かかります。彼女がここを訪れたのは昨日の話ですから、その間にオフェリアさんも感染している可能性はあります」
「どう判別します?」
「血です。感染していた場足、怪我をしても、血が流れなくなります」
 村長の家らしい場所についた。そういえば、確かに森で出会った彼らは、出血をしなかった。ただ粉末となり、灰になっただけだ。私は村長に誘われて、彼女の家に入った。木造で、二階建てである。この集落で最も大きな民家だった。
 椅子に座るよう指示され、私は果物ナイフのようなものを受け取った。試してみろ、と。彼女の目は無言で訴えてくる。私はさほど悩まずに、親指の腹に刃を立てた。ぷつり、と。肌が破れる。そして――――赤い血が少しだけ零れた。
「……安心、しました。この試験は確実なものですから」
「私は、白ということですか」
「はい。大丈夫です」
 ナイフをテーブルの上に置き、彼女はすまなそうに、少しだけ微笑みながら布を指に当ててきた。初めて、この星で笑顔を見られたような気がした。彼女から布を受け取って、私は親指の血を丁寧に拭き取る。
「あ……申し送れました。わたしは、この集落の長を務めております。フォラです」
「これはご丁寧に。オフェリア、です」
 続く言葉が、思い浮かばなかった。役職も、苗字さえもあやふやだ。
 フォラはまだ若い。三十にもなっていないだろう、と予想した。彼女は宿を提供する、と言って。代わりに素性を教えてほしいと続けた。あの男性に対して言ったことと、ほぼ同じことを口にした。やはり、こういった状況では、見ず知らずの人間を匿うのは難しいのだろう。
 村長として、何とかしましょうとフォラは笑った。正直、拠点があるのはありがたかった。
「しかし、今の私には返せるものがありません」
「虫のいい話はありませんよ、オフェリアさん。もちろん、わたしたちも、あなたに望むものがあります」
 護衛。対価として持ち出されたのは、そんな言葉だった。
「わたしたちでは、感染者に対抗する術がないのです。しかし、あなたはキラボを救った」
「先ほどの男性のことですか」
「はい。硬化してしまった皮膚には、どうやっても傷がつけられないのに。どうやったんですか?」
 剣で突いた、としか言えなかった。イスラフィルは弾き返されたのだ。フルジアの光学シールドより優れた防御力と言っていい。そこまで、生物の皮膚が硬化するとは考え難いのであるが。まして、それを貫けるとは、信じがたい。ヴァイゼル・トレーネは不可能を可能にし、私を助けた。
 少なくとも、私には対抗する術がある。悩むことなど無かった。頷き、契約を受け入れることにした。ただ、わからないことが多すぎる。それは、はっきりとフォラに伝えた。
「ありがとう。感謝します」
「……本当に、困っていらっしゃるのですね」
「それはもう。さ、食事に致しましょう。戦士を労わるのも契約というモノです」
 笑って、彼女は食事の準備に取り掛かる。ぐずついた気分が、それで少しだけ、晴れた。

「あなたによく似た白いお嬢さん?いんや、見てないケドねぇ」
「そうですか」
「あなた、顔色悪いよ。しっかりご飯食べてるかい?」
「ええ。フォラさんの家で」
「まぁだ若いんだから、もりもり食べなさいよ!」
 数人の村人に囲まれて、食事を勧められる。確かに、私の肌は白いだろう。彼らが黒いのだ。日に焼けた健康的な小麦色の皮膚である。髪は、誰もが黒かった。少し、シリウス人に似てると思った。私はシャルンホルストを思い出しながら、笑顔で応対を続ける。
 この星は、日差しが強い。恒星が一向に没する気配を見せない。空を見上げると、東西に二つ、燦々と輝く星がある。これでは時間の経過も何もわからない。
「その服、どこで手に入れたの?そんなんじゃモテないよ!」
「余計なお世話です」
「女の子なんだからシャキっとしろよ」
「男です」
「ええぇっ、ウソだぁ」
 物珍しいのだろう。村人たちは群がるように集まってきて、異邦人である私にあれやこれやと話しかける。最後の言葉に関しては、万国共通なのであるが。
 若いもの、老人、特に目に付くものはなかった。ほとんどが農業に従事しているようだ。昔は近隣の集落と交流があったのだろうが、それも今はない。この集落だけで、自活しなければならないのだ。農作物を中心に、手工業は無くなりつつある。物流までは、よくわからなかった。
 それでも、微々たるものだが、遠くの集落と交流は続けられているようだ。集団で武装した護衛と共に、物資を交換する。おそらく、ここよりもっと大規模な集落なのだろう。アデレードがそちらに逃れているという可能性もあった。私は、そういった外部の情報を集めることに終始することにしていた。
「おめぇに、フォラさんは、渡さないっ!」
「――――オフェリア、さん」
 名前を呼ばれる。私は集まった村人の中から、駆け寄ってきた女性を見つけ出す。言い切る若い男性を避けて、その女性の手をとる。
 見覚えはある。キラボという男性の妻だったろうか。慌てた風な容貌に、私は一つの不安を覚えた。もしや、発症したのか。時間の経過が曖昧だ。一日の定義がよくわからない。ひょっとすると、私は途方も無い勘違いをしていたのかもしれない。
 この星の数日というのは、もしや、数時間ではないのか。だとすれば、あまりにも即効性。私は彼女と共に、キラボの家に駆けつけることにした。
 数名の村人が追従してくるが、構わなかった。急ぎ足でキラボの、私が最初に訪れた家に入る。犬から、染った。犬から、感染したのか。種というものすら、関係がないのだろうか。ならば体液を「介する」というだけで。病原体を体内に取り込んだ時点で、感染するのか。
 寝具の上で、キラボは横たわっていた。目を強く閉じ、腹部を押さえて横になっている。片腕、左腕は伸ばされ、鱗が現れ始めている。まだ、腹部は大きくなっていない。
「これが、感染を意味するのですか?」
 彼女は村人を一旦、部屋から出して対応した。力なく頷くのを見て、私は再び、キラボに視線を移す。
「……触れてみます」
 制止の声を無視して、腹部を押さえる彼の手を退かした。腹部に手を当てながら、左腕を持ち上げる。肘より上、腕部の皮膚が硬化し始めている。美しい六面体が敷き詰められていた。これは、結晶と呼ぶのが最も相応しいと思った。
「石――――鉱石。ああ、何だったかな。アヴェスターで読んだ覚えが、ある」
 とにかく、皮膚の全てが覆われれば、完全にアウトだ。手を退かそうとした私を、キラボが苦しそうな声で止めた。触れていると、痛みが軽減されるらしい。私は、左手を彼の腹部に置いたまま、妻へと振り返った。
「腕を切り落とせば、感染は阻めるのでは?」
「えっ?」
「腕から感染が拡がっている。なら、腕を落とせば」
 彼女は、よくわからないといった、困惑した表情をして見せた。当然か。この技術レベルで、腕を落とせば死ぬと思うだろう。そこまで医療技術が発展しているわけではなさそうだが、四肢欠損という外科手術は最も原始的だとも思える。私は、束の間どちらか考えた。知らないのか、それとも知った上で困惑しているのか。
「悩む時間は、無い。このままでは死ぬんだ。やる。奥さん、男手を集めてください」
 指輪を外し、枕元にあった水で私は手を洗浄した。ぞろぞろと男性が入室する。一人に左腕を押さえろと命じ、動かないように数名で固定させる。ヴァイゼル・トレーネを抜き、私は特に何かを考えることなく、一心に、一息で左腕を切り落とした。
 血は、わずかにしか出なかった。驚くほど、出血は少ない。
「清潔な布を」
 立ち上がり、私はヴァイゼル・トレーネを暖炉の中に突っ込んで熱した。彼の妻が白い包帯のようなものを持ってくるのを受け取り、再び部屋に入る。痛みは、わずかだ。熱い、と訴えるキラボを、より強く押さえるように指示し、無造作に剣を患部に押し当てる。
 肉の焦げる臭い。鼻をつく臭気に、男たちが顔をしかめた。充分に殺菌してから、私は包帯を水で濡らして、患部に巻きつける。失神したのか、キラボは身動き一つ、しなくなっていた。
「あの、オフェリアさん、これは」
「祈るのみ。捨てた命です、助かる確率には期待しないように。ただ私は、何もせずに死を迎えたくなかった」
 腕を拾って、男たちと私は部屋を後にした。患部に巻いた布は定期的に取り替えるように、と指示を一つだけ残して。腕から出たはずの出血は、すでに凝固し、赤い結晶となっていた。血が出ない、というのはこのことだろう。
 居間では、フォラが待っていた。手にした腕を見て驚いたようだが、周囲の人間が説明を始めた。私は、特に気にせず、切断した腕を調べることに従事していた。



 硬化ではなく、結晶化。そう分析し、初めて、見えてくるものがあった。
 アヴェスターに記載されていた気がする。フィルウィリミテア教の聖書で、最高神の生涯を神話のように綴ったものだ。そこに、右腕を結晶化させるという文があった。始祖はその右腕とヴァイゼル・トレーネで世界を切り拓いた。
 それは、生命だという。石というのにも、生命がある。繁殖能力を持った岩石と考えるべきかもしれない。
「ああ、くそ。アルエなら知ってるはずなんだ」
 症例を知っていても、解決策がわからない。
「抑制……鉱石だったっけ。違うな、ああ、思い出せない!」
 ヴァイゼル・トレーネに使われている素材が、確かそれだったのだ。鉱石の生命を停止させる鉱石。そして抑制作用の付加された鉱石が、ユーロパ・リングにも使われている。もしかすると、私がキラボの腹部に手を置いた時、痛みが引いたというのは、それが理由ではないか。手ではなく、この指輪が、鉱石の侵食を防いだのではないか。
 フィルウィリミテアは、自在に結晶化を操った。どうしてか。それは、侵食に対する抑制効果を持った何かを所持していて、その着脱で結晶化のスイッチとしたのではないか。私が感染していないのは、この指輪のおかげで。森で感染者を殺せたのは、ヴァイゼル・トレーネの効果ではないか。
「大声を出されて。どうしましたか?」
 フォラの家だった。キラボの様子を見てきた彼女が帰って来たらしい。私が手にしている腕に嫌悪感を示すが、私は気にしないことにした。調査のために、どうしても必要なのだ。代わりに、容態を訊ねてみることにした。
「皮膚の硬化は止まったようです。が、」
「腹腔内に異物が挿入されたまま、下腹部の膨張が始まった。出産は肛門からかな?」
「――――ええ、確かに。ご存知だったんですか?」
 それが、彼らの繁殖だからだ。胆石や結石のようなものだ。生物に寄生し、臓器に結石を作り、「ひり出して」出産する。
「彼らは寄生生物。私たち生命の肉体を宿主として、『分裂』をする」
「どういうことですか?」
「感染された者は、すでにヒトじゃない。それは『彼ら』である。『彼ら』は血や体液の中にいて、体を乗っ取る。そして体内で増殖し、母体とは別に増殖をする。生み出された結石は、子供なんだろう。その子供を別の個体が取り込み、宿主となったモノが私たちを襲い、私たちも寄生される。その輪廻の中で、『彼ら』が生き続ける」
 非常に小さな石。おそらく、目に見えない細菌のような、石。血流に生き、やがて集まり、個体となる。それは一般的な生物という解釈では、決して認識することが出来ない。姿は常に移ろい、しかし、確固として存在する流れの中に生きている。
 気付けば、それは増えているのだ。これを繁殖と呼ばずして、何と呼ぶ。
「フィクションだと思っていた。けど、そうさ。アヴェスターは史料だ。ウソがあるはずがない」
 繁殖する石。それは、死という概念を超越して。最も長く「生きる」モノを族長とすると記載されていたと思い出す。まるで、生物のように。彼らは、生きる。
「微量なら問題ないでしょう。生み出してしまえば、人体には無害だと思いますよ」
「助かる、ということですか?」
「確証はありません。ですが、彼の様子を見させてください。もし発症すれば、責任を持って処分しましょう。他にも、感染症で死ぬ確率も高いことですし」
 脳を硬化させるほどの量でなければ、問題はない。体内に残った結石は全て集められ、排出されるはずだ。それが彼らにとっての出産になる。取り込んだ分が微量なら、やがて古くなった血液と共に出てくるだろう。
「――――あなた、なら」
「ん?」
「あなたなら、救えるかもしれません」

 夜のない星。人は眠るために、地下室を作る。それは半地下のように、屋内にてわずかに掘削された部屋だった。
 私はフォラに誘われ、その地下室に訪れた。やや、下る。暗い室内に、フォラが灯を入れた。
 臭気が、少しある。糞尿と、何か別のものが混ざった臭いだ。私は、目を凝らして室内を見渡した。鎖の、音。この星では聞きなれない鉄の音に、耳を澄ませる。私は、音の方向を見た。フォラが手を伸ばし、ソレを映し出そうとした。
 そして、私は、絶句するのだ。
 半裸である。ぽこりと膨らんだ下半身は、妊婦を想像させるに相応しい。垂れ流しになった糞尿は汚く、しかし私を躊躇させるには至らなかった。汗と涙で濡れたボロの上着に手をかけ、それから、垂れた頭に手を置く。
「――――サーシャ」
 呼びかける。金色の髪が、乱れていた。顎に指を沿え、持ち上げる。濁って潤んだ瞳は、蒼。私と同じ顔をした、少女がそこにいる。
「サーシャ、私がわかるか?」
 呼びかける。彼女の容姿など、気にもならなかった。複雑だ。助けられなかった、遅くなってしまった、こうなってしまったのは――――私のせいではないか。
「……オフェリア」
「そう、オフェリアでいい。苦しくないか?」
 兄と呼ばれないことに、少しだけ、悲しみを覚える。あれは、遠き過去の日。今更、取り戻せない時間の彼方。私は、刹那に懐古し。そして苦しみ、胸を締め付ける想いの強さに、身を焦がす。オフェリアでいい。今は、そう呼ばれるだけで、いいのだ。
 鎖を強引に解いて、横たわる妹の体を抱きしめた。胸元に抱える。仰向けに、見上げた顔を。私は、複雑な心境で眺めていた。
「フォラ、外してほしい」
「わかりました」
 家主を追い返し、置かれた灯がアデレードの横顔を照らす。口は、半開きになったまま。私は流れた涎を指で丁寧に拭き取った。
「ごめん。随分と、遅れてしまった」
「……オフェリア?」
 妹の頬が、濡れている。私は何度も指で拭ったが、それはいつまでも繰り返し、繰り返し、濡れる。
 気付いた。私が、泣いているのだ。零れる涙は小雨のように、アデレードの頬に、落ちる。
「オフェリアじゃ、ない。違う、貴方は――――」
 否定の言葉に、私は声を失った。アデレードは目を見開き、体をよじり、抵抗をするように離れるようにして――――

「――――ルートヴィヒ、ね。もう片方の、わたし……」

 より深く、より強く、私に縋って、強く腕を絡めてきた。



 アデレードを監禁してくれたフォラに、礼を言わなくてはならない。村人を静めるために追放したと主張しながら、匿ってくれていたのだ。理由は、きっと多くある。だがそれを追求するほど無粋でもなかった。
 全ての責任を私が持つ、という名目で。フォラにアデレードの解放を頼んだ。体を洗いながし、布を巻きつけたような簡易服で登場したアデレードに、私は目の置場に困りながら、着替えの入った鞄を放り投げる。まだ、着れないだろう。
 彼女は間違いなく発症していたが、気が触れることは無かった。食事をとり、しばらくすると気分も落ち着いたようだ。普通に会話が出来るようになった。元々、衰弱していたのもある。寝具に寝かせながら、私は必死に対策を考えていた。
 二階の私室である。フォラは遠慮したのか、下にいるようだった。
「あの……ルートヴィヒ。えっと、喉が……渇いた」
 途切れ途切れに、遠慮がちな言葉が寝具から聞こえる。私はグラスを手に、葉が詰まった布団の上に腰掛けて、アデレードの背に手を入れ、起こして飲ませる。細い首、喉が動き、生きているということを証明してくれる。
「懐かしい」
「え?」
「前も、こんなことが。随分と、重くなったけど」
 笑って、飲み干されたグラスを近くにあった台の上に置いた。子は、成長している。私が思うより、ずっと早いスピードで、大きくなってしまった。私の記憶にいる妹は、小さく幼い、軽い子供だったのだ。今ではすっかり、大人の女性で、見事なスタイルに驚かされる。
 遺伝子一つを奪われているので、こちらは貧弱な体なのだが。その分、妹は胸も尻も、背丈以外は大きくなった。私は、身の縮む思いだった。
「覚えてないわ、そんな昔のこと」
 ぶっきらぼうに、アデレードは過去を否定した。そうだろう。覚えていたら、こんなことには、ならなかったに違いない。お嬢様ぶった口調も、今では聞けない。それを悲しいと思うほど、私にはまだ、懐かしく微笑ましい記憶が残存しているようだ。
「それに、重くなっただなんて。失礼だわ」
「気にしてるの?そりゃ、お前。痩せていないから」
「……ケンカ売ってます?」
 健康的でよろしい、と言いたかったのだが。アデレードは機嫌を損ねて、ぷいと横を向いてしまった。
「――――大人に、なったね。私の知ってる、妹じゃないみたい」
「ッ、それが!」
 強い眼光が、こちらを向いた。怒り。激情を、そこに見た。
「……それが、苛々するのよ。貴方は知ってるでしょうけどね、私には、わからない。いきなり現れて、兄だからってそれだけで――――それだけで、頷けるものじゃないわ」
 時は、流れる。私が故郷を離れて、再びアデレードと顔を合わせたのは、九年も経ってからだった。そして、今は。まともに口を利く今は、別れてから、もう、十六年が経過している。
 十六年。私たちは、その時を、一緒には、過ごせなかった。
 彼女の言葉は、当然だと思った。私たちは、違うものを見すぎてきた。違う場所に居すぎてしまった。その距離を埋めるには、一言では、足りない。とても、足りない。
「いいんだ、サーシャ。私を認めなくていい。憎んでくれて、いいから」
 迎えに、行けなかった。約束を、したはずだったのに。
「ごめんね。嫌だったらすぐにいなくなるから、だから。ごめんね――――」
 言葉が、上手く、出てこなかった。私はただ、ただ謝るしか出来なくて。ただ頷くしか許されなくて。十六年の時を、埋めることなど、叶わなくて。
 私が、出来たのは。今にも零れ落ちそうな涙を、こらえるだけで。
「どうか君は、君だけは。笑っていて、ほしくて」
 焼き付いた幻想は、消せぬ。

 逃げるように階段を下りて、私は、立ち尽くした。
 理由は、わからない。悲しかったのだろうか。虚しかったのだろうか。とにかく、無性に、胸が詰まって。私は、理由も意味もわからず、顔を伏せて堰を切る涙を流し続けていた。
 ああ、十六年は、遠すぎる。誰も悪くなどなかった。ならば、どうして。どうしてという疑問しか浮かばない。それでも、それを否定するつもりもなかった。私は、この十六年を過ごさなければ、今に辿り着けなかった。いや、それとも。私はどのような十六年を歩んでも、この道を辿ったのだろうか。
 それは、わからない。わかりたくも、ない。
「恋人、というのは。ウソみたいです」
 そっと、布が差し出された。私は、少しだけ考えてから、ぐずる声で礼を言って受け取った。
「姉妹とか?」
「……よく、わかったね」
「それはもう。顔がそっくりですよ。双子の姉妹としか思えません」
 笑顔で、慰めてくれるフォラに。今は最大限の感謝を。胸を切り裂くこの切なさを、少しでも癒してくれたからだ。私は涙を拭い、再び、強い意思を取り戻して。まだ、戦える。まだ、自分を貫けることを再確認した。
 顔を手で拭って。目尻から涙のカケラを吹き飛ばして。私は力を取り戻した。
「きっと、素直になれないんですよ」
「そうだと、いいね。しっかし、そんなに似てるかな。自覚、ないんだけどな」
 頬に触れながら、そんなことを口にした。するとフォラは、上品に笑いながら肩を叩いてきた。
「似てますとも。でも、わたしは。優しいお顔のオフェリアさんの方が、好きですけど」
「ん、ありがとう。少し元気出たよ、今の言葉で」
 長い一日だ。陽の沈まぬ星は、まるで、明けない夜が続いているようだった。
 幕のある部屋に通され、私は寝具に横たわった。遮光の窓。目を閉じる。思考だけが、巡る。明日、目覚めた時に。どうか幸せがあるようにと願った。ただ願った。祈ることしか、許されない。無力で、か弱き、体だ。
 この星から、どう抜け出そう。結末を、考える。いや、そもそも。私はどうやって、この星に来たのだ。発端から、わからない。決して未来は明るくないだろう。それだけしか、わからなかった。

 夢を見た。懐かしい夢だった。
 私は眠っている。隣には、ふくよかな体のサーシャが。私たちは、ずっと一緒に眠っていた気がする。おそらく、私がアルバ・ロンガで学ぶためにハイネの家に下宿するまでは。一緒に寝て、起きていた。
 それには、様々な理由があった。単に寂しがりで甘えてきたサーシャがいたというのもある。それ以上に、私は父が恐ろしかった。一人で眠る妹に、狂った父が危害を加えるのではないかと心を痛めていた。だから、せめて。眠る時くらいは安心させたかったのだ。
 すり寄って来る妹の、肩を抱く。失った温度。手放した温もりだ。
 ――――守りきれなかったのだろうか、私は。
「馬鹿な子。貴方の苦労を思えば、無碍に出来るはずがないのに」
 苦労だっただろうか。母を亡くし、父が狂い、その後の人生で。私は頼れる人物を失った。五年間だ。五年、私は父であり、母であった。食事を用意し、家を片付け、ぐずる妹をあやして、父から家族を守った。思えば――――私が子供であった時期は、短い。あまりにも、短かった。
 だから、フルジアへ行っても。私は保護者のまま、大人のままだった。そうでなければ、きっと耐えられなかった。
「だから辛くなかったと貴方は言うの?」
 ああ、そうだ。私は、何も辛くなかったよ、サーシャ。
「……嘘、だ」
 布団の中で、胸の上で、サーシャが呟いた。ひっかくように、指で胸をなぞる仕草。
「そんなの、嘘だ。あの狂った楽園が、楽しかった?そんなはずない、愚かで舌足らずで頭の弱い妹ならまだしも、貴方は普通の、ごく普通の少年だったはず。それがいきなり、誰の助けも無い、ただ金だけがある世界に置いてかれて。狂った父親から妹を庇う役を押し付けられて、それで、楽しかったですって?」
 あまり、思い出したくはなかった。だから、少し、うるさいと思った。
「あの泣き虫オフェリアが、急に強くなった。人って、そんな簡単に、意思一つで変われるものじゃない。強くなったフリをしていただけなのに。誰も、気付かなかった。ああ、良い子だなって。ああ、優れた子だなって褒めるだけで。貴方の孤独には、貴方の苦労には、誰も気付かなかった。馬鹿なナオミ。馬鹿なスコア。馬鹿なアデレード。そして哀れな、あなた」
 ふと、私は。これが夢ではないということに、気付いた。
 私の胸に乗っている女性は、妹の姿をしていた。しかし、別人のような気がした。現実か、夢か。その判断は難しかったが、夢ではないと、どこかで気付き、そして警鐘を鳴らしていた。

「二十五年。それだけ経っても、まだ気付かれない」

 今の私は、あの頃の私ではない。友がいる。妻がいる。一人ではない。
「それも、嘘。誰が貴方を理解しているって言うの?」
 深く。根っこのところで、私を理解してくれる人間は、誰だろう。私の半生を知り、私の行く末を知り、私の思想を知り、私の目的を知り、私の孤独を知る。そんな人間が、いるはずなどない。自分自身でさえよくわからないというのに、他人の全てを知ることなど出来るはずがない。
 でも、もし。自分が二人いるなら。
「オマエは、ダレだ」
「ワタシは、アナタ」
 唇が、知らず、重ねられた。何かが流し込まれる。唾液を飲み込み、貪るように口腔にて暴れる舌を感じる。
 そして、私は。血が燃えるのを感じた。

 飛び込んでくる人影。料理用の包丁を手にしたフォラを、眺める。
 全身に力をこめて、何とか、立ち上がった。目の前にいるアデレードを押しのけ、咳き込みながら、私は立ち上がった。具合が、悪い。吐きそうだ。この女は、誰だ。私は、どこにいる。全てが、わからない。
 耳に、音。名前を、呼ばれたようだ。私はフォラの方を見た。彼女は、ある一点を凝視したまま、恐慌に陥った表情を見せた。視線を、追う。それは私の、腕を見ていた。
 かちり、かちり、と。何かがはまっていく。腕を侵す、結晶の感染。私の腕が、徐々に重みを増していく。鱗。六面体に覆われた右腕が、重さに耐え切れず、だらりと垂れた。感染。その二文字が、未だ健在である脳が感じていた。
「――――あ」
 アデレード。その表情は、元気そのもの。口元に笑みを浮かべて、私を見ていた。
 体が、震える。胸が、キツい。呼吸が、少し、難しい。吐けるのに、吸えない。吸えない。大きく吸い込んでいるのに、少ししか酸素が入ってこないのだ。だから私は、何度も、無様に、ひゅうと音を立てながら呼吸を必死で行った。
 空気が、漏れる。えずきながら、俯いた。
「……やあああアあアアあァぁぁアあぁァっッッっうあァッ――――」

 それは、誰の声?
 それは、誰の悲鳴?

 終ぞ、私にはわからなかったのである。なぜなら、私は、昏倒してしまって、意識があやふや。
 下腹部に、強い痛みがある。抱きつく女性の香りが、血の薫りに変わった。ずるり、と。包丁が抜け落ちた。ああ、それは。私の腹から零れた。血と共に、抜け落ちた。痛み。熱さ。赤い意思。
 倒れていた。床の上に。斃れていた。天井が見えたが、それが何か、よくわからなかった。意識が、汚濁している。赤く巻いて、澱んでいる。

 ――――待って。本当に?
 こんな。こんな終わりを、私は迎えるのか?

 そう、死ぬのだ。はっきりと、それだけがわかった。この混濁も、この痛みも、この感情も、全てが死に向かっていて。私は、どうしてと考えることもなく、自然と、死ぬのだと理解した。
 腹部から血が流れ出る。包丁が刺され、その隙間から、どぼどぼとみっともなく血が流れ続けている。それはまるで、命そのもの。意思が、感覚が、魂が抜け落ちていくようでさえあった。
 ただ。どうして私が死ななければならないのか。そして、死にたくないという生への執着だけがある。
 けれど、そんなものは何の役にも立たずに――――

 私は、目を閉じて開くことを止めた。
 そして、最後に空気を吸って。とくん、と。最後の心音を鳴らして――――その役目を、終えた。




















 ……サーシャ。どうか妹だけは、幸せに生きて――――――――