世界よ、求めの声が聞こえるか。

 声は空を突き、海を越え、遥かなる夜を駆け巡る。

 未だ、陽は昇らず。深い闇に閉ざされたまま、黎明は遠く。

 この身を焦がす、夢だけが光だ。

 

 野に降る雪が、大地を固める。

 叛旗。白い世界で孤高に立つ、夢の証。

 

 馬蹄。雪を蹴立て、無数の馬蹄が雪原を揺るがす。

 先頭を駆ける指揮官。旗本とも言える十騎ほどが少し遅れ、ついて来ていた。前方に、誰かいる。二人。雪降る大地に立っている。人影に気付いた指揮官は片手を挙げて進軍を止め、手綱を絞って愛馬へ停止を伝えた。

「やあ、ルートヴィヒも連れてきたのですか」

 軽い身のこなしで馬から降り、二つの人影へ声をかけた。広大な原野にぽつりと立つ二人は、あまりにも不自然。だが指揮官にとっては知り人であった。
「さすがに、ここらは冷え込むな。故郷ほどではないが」

「ええ、シャルパンティエ少佐。ところでここまでどうやって?」

「家内から、懲りずに旗本の調練だと聞いた。バスだよ、お転婆娘」

 風が強く、なってきた。ゆるやかにウェーブがかったロングヘアーが風に持っていかれる。一面、平野である。遠くで地吹雪が巻き起こっているのさえ見えた。木々がなければ、風を遮るものはないのだ。吹き抜ける強風に、ルートヴィヒも寒さを感じていた。

「川沿いに進めばウィノナに着きます。少佐、輜重の馬に」

「有り難い。ルートヴィヒはどうする?」

 荷物を載せた馬が引っ張られ、危なげなくルイ・シャルパンティエは騎乗した。すでに指揮官の女性も馬上だ。ルートヴィヒは困ったような表情で視線を上げ、馬に乗ったことは無いと口にした。まだユーロパ北部の街、ウィノナまではそれなりの距離がある。

「おいでルーちゃん、余の馬に乗せてあげましょう」

 立ち尽くすルートヴィヒを引っ張り上げ、一瞬、馬が棹立ちになった。巧みな馬術で馬を落ち着かせ、しっかりと少年を抱きとめる。見事なものだ、とシャルパンティエは感心していた。カミーユ族が遊牧民族だとは聞いたことなど無かったが、素晴らしい馬術だった。

 馬上の二人は上機嫌だった。これを狙って、シャルパンティエはルートヴィヒを連れてきたのだ。どうも、あのお転婆娘はルートヴィヒがお気に入りらしい。どこか弟のように思っているのだろう。彼女と会う時には必須の人物である。そうでなければ、こんな場所まで連れてこない。

「……さむ。ルイ、こんな場所なら先に言って」

 ルートヴィヒは寒そうな短髪を手で覆いつつ、咎めるような視線で文句を言う。端整な顔立ちが、不満で染まっている。普段は物静かで、いつも微笑んでいるような青年だが、彼も機嫌をよくしているのだろう。いつもと違う、ころころと変わる表情を見せていた。

「いいだろ、文句あるのか。貴様、今ちょっとポジション美味しいよね?」

「ポジション美味しくても、寒さとは関係なくないか?」

 思わず、シャルパンティエは苦笑した。冗談めいたやり取り。まさか、こんなツッコミが返って来るとは思わなかった。フレーニの胸の中に抱かれた少年は

、嬉しそうに非難するのだ。まぁ確かに、寒さとは関係ないな。

 二人のやり取りを眺めてみる。二人とも、普段はあまり表情を見せない。それでも、今だけは。他愛ない話に笑顔を咲かせていた。日々は辛く、現実は厳しい。いくら大望を描けど、叶うことなど、まず無い。だからせめて。夢を語る時だけは、忘れさせてくれ。

「ルーちゃん、妹さんは元気?」

「まぁ、そうだね。たまにはカティアも会ってほしいとは思うよ」

 口の利けない妹を案じる。彼はそのせいで、天下に雄飛することは出来ないだろう。惜しい、と思う人材だった。ただ優しすぎる。まるで美徳のような欠点が、ルートヴィヒの弱みだった。だからカティア・フレーニも強くは言わない。

 同志に。この腐った世界をブチ壊す、仲間に。ルートヴィヒは、加えない。

 

 一年前の話だ。人工的に作られた、カメリアという惑星があった。当時のアンドロメダ銀河にとっては最前線で、軍事基地の意味合いが強かったものの、建造当初は移民計画の一環として打ち出された政策に基づいたものだった

 三百年前の戦争で、敗北して母星を破壊されたカルクス星人。彼らは虜囚として戦勝国のリューヴへ連行され、居住区を与えられて今日に至る。屈辱。その二文字が、常にあった。移住という解放が希望であり、願いは果たされるはずだった。

 だが、それも戦争に消えた。移住先のカメリア星は破壊され、すでに移住していた旧カルクス星人の大多数が星の最期に巻き込まれ、死んだ。

 カメリアの生き残りは、ついに決起した。

 現在、カミーユ種カルクス人は二分している。ひとつはリューヴに残り、今までどおり服従を続ける一派。そしてもうひとつが、カメリアの生き残り。こちらは、過激だった。彼らは武装し、ユーロパへと流浪し、時を待った。

 暫定王国を立ち上げたものの、事実上のテロリストだ。反アンドロメダの勢力はここユーロパに潜伏し、資金を蓄え、武器を調え、ただ時を待っている。

「シリウスの戦況を、聞いたか?」

 小さな田舎町だ。ウィノナのレストランで、シャルパンティエはカティアに訪ねた。無論、とでも言いたげに、無言で顎を下げる。カティア・フレーニはカメリア暫定王国を率いる、女帝だ。表向きは元モデルの富豪。だが実態は。テロリストのリーダーである。

「ユドン南部要塞の攻略も時間の問題だろう。リューヴにとっては幸いだったな。電磁波攻撃でテレビカメラがぶっ壊されれば人的被害を隠蔽できる」

 アンドロメダの第一次反攻作戦は、今のところ順調だった。最前線のシリウス星へと上陸したリューヴ軍は圧倒的な兵力を恃みに、前進。星都であるユドン解放を目指して進軍したが、ユドン南部高地に築かれた要塞の前で立ち往生していた。だがそれも、死体の山を越えて踏破しようとしている。

「時期は今、と思うがな。SSU軍も動き始める。シリウスを巡って戦功争いだな」

 リューヴ軍と、太陽系の軍が揃って外征に赴けば。ユーロパを中心にして蜂起出来るかもしれない。またユーロパという位置がよかった。人口の割りには兵が少ない。兵力を最も募れる可能性がある。反乱の拠点とするには丁度いい。

「……オフェリア様がおられます」

「何だカティア。貴様もラヴオフェリア様症候群か?」

「御恩があるだけです」

「恩があるのはその父親だろう。あんな小僧に気を取られている場合か」

 多少、複雑である。カメリア建造に当たって、リューヴ居住地から先遣隊の指揮官にカティアは任ぜられている。姉のカミラが居住区域の指揮官だった。移住、そして人選。全ての提案をし、リューヴ政府にかけあったのがオルフェオ・フォーレだった。今の神皇、オフェリアの父だ。

 アンドロメダに叛旗を翻し、反乱をする。これはすなわち、オフェリアに背くこと。

「……何か、腑に落ちない」

「どうしたルートヴィヒ。まさか貴様もラヴオフェリア様症候群」

「くどいよ、ルイ」

 ルートヴィヒは、何も知らない。反乱がどうの、資金はどこから。またカティアが何者かさえ知らないだろう。ルートヴィヒがユーロパに来て、まだ一年にも満たない。妹を連れて貧困に喘いでいたのを、シャルパンティエが気まぐれで救っただけなのだ。

「神皇って、さ。宗教の教祖サマみたいなもんだろ。なのに先頭きってアンドロメダの味方しちゃっていいのかネ?」

「僧兵ということだろう。フルジアは信仰の敵、ということで、」

 

「そうじゃなくて―――――神様は人を殺さないんじゃないか?」

 

 なるほど、とシャルパンティエは納得してみせた。神皇ということは、神様と同然だ。いくら敵だからと言えど、殺してはまずいのではないか。

 時折、鋭い。こういった直感の鋭さを、シャルパンティエは気に入っていた。

 

 カティアに甘さは無い。直感的に、まだ時期ではないと感じているのだろう。素直に言えば、彼女の好きにすればいいと思った。革命ならずとも、あるいはユーロパを占領しようと、シャルパンティエには関係の無いことだ。

 夜まで話し合ったが、進捗はなかった。依然として太陽系の軍は近郊にあり。確実な勝機を、とカティアは考えているだろう。剛毅な部分もあるが、思慮深さも忘れてはいない。それが少しだけ、憶病にも見えた。臆病であることに対して文句は無い。考えない猛者より悩む臆病者の方が、正しいと思える結論を出す。

 ただ妻であるロジーナの友人だった。あるいは庇護しているルートヴィヒの友人だった。シャルパンティエがカティアを援助するのは、そんな単純な理由でしかない。資金を援助したり、武器商人のコネクションを貸したり。その程度の援助しかしなかった。

 もし、カティアの野望を聞けば。ルートヴィヒはついてくだろうか。わからなかった。

「時期、か。そんなモノがあると思うのか」

 帰路、独り呟く。まだ若い。夢を見、希望と思う心。それが絶望だとしても、一縷の希望にすがる。自分は、希望に頼るほど若くはなかった。現実を分析し、冷静に鑑みる。結局、時期など無い。いくら待てども、状況は変わらない。シリウスの戦況は、当分このままだろう。

 腐った世界を変えたい。そう願うのには、共感できた。

 腐った世界は、よく出来ている。実によく出来ている。そう簡単には壊れないと、どこか醒めた目で見つめている自分に気付いた。

「オリヴィア、俺だ。ルイだ」

 自宅に戻る前に、ルートヴィヒの家によった。妹のオリヴィアにルートヴィヒがウィノナに泊まることを伝え、それから少し、夕食や一日の出来事について簡単に会話をした。オリヴィアは、構音障害があった。聾ではないが、唖だ。つまり喋ることが出来ない。しかし耳は聞こえた。

「カティアの、家だ。帰るのは、明日」

 発声が出来ないのだと、最初は思っていた。だがどうやら違うらしい。耳は聞こえるが、理解を示さないこともある。行き着いた答えが、「言語」を全く知らない、というもの。生まれたての赤子と会話をすることは出来ない。喋れないのではなく、言葉を知らないのではないか。

 その可能性は大いにあった。ルートヴィヒとオリヴィアがユーロパに現れた時、二人には何一つ、記憶が無かった。病院で検査を受けると、オリヴィアに異常は見られなかったが、ルートヴィヒには障害が見られた。脳に、装置が取り付けられていた。大規模な発信装置のようなもので、記憶を情報化し、メインコンピューターに送信していたと考えられる。

 喪失したのではない。略奪されたのだ。記憶を。

「じゃあ、俺は行くぞ」

 発信装置は途中で取り出した。故に、ルートヴィヒの記憶は完全に失われていない。根っこの部分、即ち、言語や一般常識の一部は残された。彼は喋ることが出来る。しかし、1+1の計算は出来なかった。

「……また、オペラ・レーヴェか。覗きが好きとは悪趣味なヤツだ」

 家の前にかすかな気配を感じる。このところ、自分に監視がついているのに気付いていた。素性を探っても、なかなか尻尾を出さない。高度に訓練された諜報員。そして、このシャルパンティエにケンカを売るような真似が出来るのは、一人しかいなかった。

 オペラ・レーヴェ。闇に暗躍する、稀代の英傑の目が光る。

 

「現状は我らに有利である。が、故に公安の監視も厳しい。まだ時ではない。あと少しだ。待とう。三百年。これまで耐えた時と比べよ、何ほどでもない」

 ウィノナ市街にある小さなレストラン。シャルパンティエはいなかった。ユーロパ王室より援助された資金は全て、ミネアポリスのカティアの屋敷にあった。幹部数名の前で下した決断を、彼はおそらく気に入らないだろう。一体、何が好機で何が時期なのか。見定めるのは非常に、難しい。

 つまりシャルパンティエには、希望が無いのだろう。明日はもっと厳しくなるぞ、と思い。カティアは明日もっと機が熟す、と希望を持つ。

 雪はもう止んでいる。電灯は、無い。それでも暗くは感じられなかった。解散し、それぞれに去って行く幹部たちを見ながら、カティアは友人の姿を求めた。ルートヴィヒ。彼は仲間ではない。会議に参加することは出来ず、子供たちの世話を任せていた。

 カメリア移民、八十万。うち兵士は二万程度だ。ユーロパを中心に、エンケラドゥス、トリトンと分散している。中にはもちろん、女性や子供も含まれる。リューヴを認めないカミーユ種の者たちだけだ。気持ちは強く、忍耐もある。

 焦りが無いわけではない。ユーロパの民に紛れ、潜伏している。彼らは協力的で好意的だったが、当然、間諜の類が入り込んでいる。その元を辿っていくと、オペラ・レーヴェという名前に当たった。フルジアとも繋がりがある、リューヴのスパイであるとシャルパンティエから聞かされた。

 泳がされているのか、あるいは確信を得られていないのか。理由が何であろうと、発見はされていない。もしかすると、レーヴェはフルジアと手を結ぶ可能性を見出しているのかもしれなかった。

 考え事を、衣料品店の前でやめた。

「カティア様、どうされました?」

「ルートヴィヒは来ているか?迎えにきたのだが」

 この衣料品店は、仲間のものだ。店主である女性もカミーユ人である。子連れで来る幹部も多く、広い二階を宿舎として提供している。子供たちの面倒をルートヴィヒが見ていたとしても不思議ではなかった。問いかけに店主は是と答え、二階へと案内される。

 雑然とした二階に、音を忍ばせて入る。布団が並べられた一角、子供たちと共に、本を手にしたまま眠りこける青年の姿を見る。起こすのは、忍びないか。そう判断し、カティアは背を向け階下へ向かった。

 居間へ通され、茶を勧める店主に従って椅子にかけた。暖色の光。家庭的な部屋だった。窓の外は雪明りで幾分、明るい。穏やかな、日だ。

「シャルパンティエ様も帰り際に見えられましたよ。私はどうも、好きになれませんが」

 いかにも切れ者、といった印象を与えるのがシャルパンティエだった。言葉のひとつひとつに意味がある。そして、深い。彼の前では、迂闊に喋れないとこちらも構えてしまうのだ。切れすぎるほどに、鋭い。この店主のような意見も少なくはないだろう。

 幹部の中でも、シャルパンティエの援助に裏があると推察する者は少なくなかった。

「それは、言うな。彼の援助で我々はユーロパ圏に潜めている。利用している以上、利用されるのも仕方があるまい」

 本当なら、姉に頼みたかった。姉のカミラは今、リューヴのカミーユ居留地における族長だ。リューヴ政府にも食い込んでいる。だが、カミラと連絡はとっていなかった。訣別、したのだ。今を生きるのか、明日に生きるのかを。

 希望。あるのかどうか、よくわからなくなっていた。

 これで、いいではないか。友と呼べる者もいる。温かい皆がいる。何の不自由がある。何に不満がある。密やかに、穏やかに生涯を送れば。それこそが、幸福なのではないか。

 戦で剣を手に、戦い合うことが幸福だとは、口が裂けても言えないだろう。その先に、勝ち取る未来は果たして。本当に幸福であろうか。自由。ただそれだけを渇望していた。だが――――自由など無くとも、人は幸せに暮らしていける。

「……結局、余もシャルパンティエも。平穏では満足できんのだな」

 それが、人の上に立つ者の義務か。

 友に安らぎを、民に自由を。そして私には、傷痕を。

 家族などいらない、平和など望まない、求めるのは、付き従う者たちの願望に応えることのみ。

「王女様は戦われますか、必ず。けれどこういう、日々もあるのだということを知っていてください」

 店主が言う。子を成し、誰彼となく世話をしてみたりする日常。安らいだ日々に、見出すもの。リューヴの日々は、苦渋だった。屈辱とも言える。虐げられ、住まう場所まで隔離され、差別を受ける。気付いたのだ。この一年で。栄光も勝利もいらない。ただ自由があるだけで、おそらく我らは幸せなのだろうと。

 だから、このまま一生。ここでこうして、という思いもある。

「今更、引き返せぬさ」

 窓の外を見ながら、呟く。雪。白い大地。それきり、カティアは口を開かなかった。

 

 雲行きがおかしくなってきたのは、年が明けた頃からだ。リューヴ国軍はユドン南部高地要塞を攻略し、ついにユドン市攻囲戦を開始した。戦況を見る限り、優位なのはリューヴ側で、面目が潰れた太陽系軍も出兵の準備を開始している。

 精強無比と呼ばれたフルジア軍さえ、打ち負かす何かがリューヴ軍にはあった。それが神皇オフェリアなのかもしれない。たった、一人。だが百万の兵に匹敵する価値がある。この展開は、カティアにとって予想外だった。

 フルジアが勝ち、リューヴ軍が敗れる。これでフルジアの勝利は決定的なものとなり、カミーユが割り込む隙を見出せたのだ。もしリューヴがシリウス決戦に勝利すれば、反アンドロメダ勢力は孤立し、撃破されるのは目に見えていた。

 余計、動きにくくなった。だが動きがたいだけで、動けないわけではない。

「カティア、また考え事してるね?」

 隣を歩くルートヴィヒが、咎めるような視線を向けた。こうして、二人で出歩くということはあまり無かった。いつも周りに誰かいたものだ。慌てて視線を返し、穏やかに微笑む彼の顔を見る。その仕草で安堵したのか、ルートヴィヒは視線を外し、寒そうにネックウォーマーに顎を突っ込んでいた。

 何の気まぐれか、誘ってきたのは彼からだった。気まぐれというには、なかなかに綿密ではあった。休日を調整し、互いに貴重な休みを削ってのことだ。シャルパンティエに振り回されるルートヴィヒの日常は、あまり暇とはいえなかった。

「ルーちゃん、それで何をするの?」

「さぁ。決めてないんだ。たまのリフレッシュにまで、プランを立てることはないかな、っと」

「アテもなくブラブラするの?」

「そんなトコ。ご飯食べて、面白そうなモノ探して」

 大雑把に方向を決めて、二人でなんとなく歩いているだけだ。どちらが先導するでもなく、どちらが示し合わせるでもなく、ただ適当に。

「正直言うと、ここらへんしか知らないから。正しい女性のエスコートの仕方も忘れてしまった」

「ほう、それは大問題だよ。紳士失格だわ」

「耳に痛いね。いや、まぁ。何とか」

 覚えているかも、と呟いて。ルートヴィヒは振り返り、手を取る。その仕草があまりにも上品だった。気品がある、というのは生まれついてのものだろう。カティアの手の甲に軽く口付けて、すぐに離れた。往来激しいミネアポリスの市街地だ。くるっと反転して華麗に人目を回避する。

 人徳というか、人間的魅力というか。彼には不思議な魅力があった。子供たちがルートヴィヒを慕い、人気者になるのもわかる気がする。言葉では言い表せない、何か。人を惹き付ける輝きのようなモノをしっかりと抱いている。

 だからこそ、シャルパンティエが目をかけ、カティアもまた注視していた。利用価値は存分にある。だが今一歩、踏み切れない。

「……おなかすいた。ルーちゃん、ここ入ろう」

「この甲斐性ナシ。ってか即物主義。ファーストフードなんて味気ないの、やめようぜ」

 作戦は無いが、考え無しでもないらしい。

 腹を満たすなら何でもいい、というカティアの考えを蹴って、ルートヴィヒはまだ歩き続けた。

 

 寒いと言って憚らない頭に帽子を被せ、シンプルな耳かけを首に。共に色は白。揃えて買ったという認識はあまり無かった。ただルートヴィヒは、品のいい耳かけをお返しに、と手にしながら何とも言えない表情をしていた。ありがとう、とプレゼントを受け取るカティアの表情が笑みに変わったのはそういうこと。

「あら可愛い」

「うるしゃい。そもそもなんだよ、この玉ぁ」

 ぷらぷらと耳の横で遊ぶ玉にじゃれつく。丸い小顔が怒ったように紅潮している。やや面長なカティアから見れば羨ましいとも思う。背丈はさほど変わらない分、すっきりとしたショートカットの小顔はバランスが良かった。

 一言だけ謝り、ルートヴィヒを先に店から出した。ウィンドウショッピングもすでに後半戦。両手に荷物をぶら下げて背を向ける彼を眺めながら、最後の一品を購った。お詫びのシルシ、というものだ。それはあまり値が張るようなものではなかったが、この道程で最も琴線に触れた。

 小さな黒い買い物袋を手に、店から出る。春が近い日。逢引きというほど重くなく、買い物と呼ぶには軽い日。とても楽しく、どこか寂しい。いっそ明日が無ければ、今日という日を謳歌できたのかもしれない。

 どうしても頭から離れない、未来。希望、と口を揃えて言う。だがどうしても、希望には思えず、崩壊へと突き進んでいるのではないかという思いがある。

 ああ、故に。ルートヴィヒは仲間に入れないのかもしれなかった。

「……あれ、ルーちゃんドコ行ったの?」

 店先に姿は無い。周囲を見渡しても同じだった。急に、不安を覚える。沿道にそれほど人がいるわけではなかった。それでも、姿は見えない。不安が募る、歩いている場合ではない、体が勝手に走り出した。あても何もないが、走り出した。

 思わず身をすくめたのはそんな時。隣の商店、窓ガラスが大きな音を立てて割れた。見ると、ボールか何かが当たってしまったらしい。すぐに道端からわらわらと見覚えのある子供たちが湧いて出た。

「絶対、イヤだ。何でいい歳してキャシーんトコ謝らなきゃなんないのよ」

「割ったのルッツだろっ」

 両手を引っ張られてイヤイヤ歩く、探し人の姿があった。目が丸くなる。渋々、といった様子で子供たちに連行されて来るルートヴィヒ。割られたガラスの店、その店主らしい女性が店先に登場する。

「また、かい」

「悪いな」

 互いに、一言。常習犯のようだ。ルートヴィヒは明日、修復に来るとだけ付け加え、キャシーもさほど怒っていないようだった。愛嬌、というか。人徳なのだろう。明るく、気まぐれなところもあるが優しい青年は、気付けば周りを笑顔にさせる不思議な雰囲気がある。

「いや絶対おかしいだろよ。何だっていつもキャシーさんトコなんだろね。呪われてんじゃねぇ?」

「地理的な問題でしょ。それより、ルーちゃん!」

「あ?ああ、カティア。いたの?」

「勝手に、いなくならないで。心配するでしょう」

 黒い買い物袋を押し付け、自分の言葉にひっかかりを覚える。自分で言って、自分で不思議に思う。

 何に対して焦ったのだろう、と首を傾げた。それは子供に対する大人の心配なのか。それとも、いなくなることに不安を覚えたのは、何故。

 ごめんと謝る声も、周りの子供たちの冷やかしも。どこか浮ついていて聞こえなかった。

 

 今日のような、暑い夏の日だった。今でも鮮明に憶えている。七、八歳の記憶だった。

「腹が立つなら壊せばいい。無いなら創ればいい。それさえしないオマエの、何が自由だ」

 感銘を受けたのだ。自由。その明確な定義を、初めて知った。

 だから我々は、動いた。鳥籠をぶち壊し、新たな世界を築くことを夢見て、自由を求めた。それを教えてくれた人は、笑顔で星をプレゼントしてくれた。カメリアは創ってもらったのではない。創らせて、手に入れたのだと考えろとも言われた。手段を持たないのなら、その手段さえ作ればいい。

「それより、カティア。見てみろよ。愛する人が笑い、子が遊ぶ。幸福なんか他人に決められるものじゃないが、これは確かな、シアワセのカタチさ。二十年後のオマエが道に迷うなら、少し立ち止まってみるといい」

 まだ二十年は経っていない。それでも思い出す。道に迷っているだろうか。未来を案じているだろうか。恐れと、迷い。その二つが思い出させているのだ、と思った。

 教えてくれた先生は、どこか陰鬱な暗さがあった。彼は妻を亡くしたばかりで、自暴自棄のような部分が少なからずあった。時折、見せる表情。それ以外は、尊敬に値する人物だったはずだ。

 人生。それが運命なら。オルフェオ・アディーラ・フォーレは運命さえ、動かした。

「あれ、ルートヴィヒのカノジョが来たぞー」

「俺の?……誰だよ、ソレ。アホなコト言ってると球ぶつけるぞ?」

 どうして訪れたのか、すでに理由は明確だ。キャシーの店がある角を曲がり、公園に出る。子供が数人と、背の低い男性。皆、上着など脱ぎ捨て、上半身をむき出しにしてボールを蹴っていた。なかなかに広い公園だ。置かれたベンチへと向かってカティアは歩いていた。

 包みを隣に置き、観戦をする。穏やかな日常に強い日差し。足元でボールを転がすルートヴィヒは、真剣そのものだ。本気で遊び、本気で戦って。子供たちはそんな泥まみれの大人を信用しているようだった。胸までの短いタンクトップが、汗で濡れていることから、いつもと同じ本気なのだと読み取れた。

 不意に目が合う。笑顔。屈託の無い笑みに、少し引け目を感じた。

「一ヶ月と二十九日。なんか久しぶりだね」

 子供たちを後に残し、早めに切り上げてくるルートヴィヒはそう言った。正確な日付はカティアのカウントと同じ。やや髪が伸びたようだ。耳が隠れ、前髪は短いが襟足が長い。金髪は風に揺れるほどに、伸びている。短髪、とはもう言えなかった。

「お弁当、作ってきたから。お昼ごはん、まだでしょ?」

「ああ、うん。それは、嬉しい」

 答えることはせず、横に置いておいた包みを渡した。約二ヶ月。夏が到来する前。カティアは慎重に時期を計っていた。ユドン市の攻防は苛烈を極め、数日おきに占領者が入れ替わる構図になっていた。まだ、どちらか見えない。今出来ることは―――――悩むこと。

 暑い暑い、とうめくように。包みを開けようとするその手を、止めた。汗を流しながらぐったりした彼を案じる。名案はすぐに。思い立ったと同時に、止めた手を持ち上げて立ち上がらせる。

 そのままバス停まで引っ張っていき、街の入り口、湖畔の公園へと誘ってみた。

 

 木陰に身を安め、静かに佇む湖面を眺める。少しだけ遅めの昼食だった。

 久し振りだ。何も考えず、何も喋らず、ただ時間の流れるままに。生きている。時折、箸を止めて律儀に感想を漏らすルートヴィヒに、頷きで相槌を打つ程度。湖の方向から吹く風は、冷涼。いつしか汗も引いていた。

「そういや、最近。会ってない間に、さ」

 空になった小さめの弁当箱をキレイに包みながら、彼は口を開いて言葉を発した。長いこと、会話が無かったきがする。それは今、だけでなく。ここ一ヶ月という月日だ。

「来客とかイタ電が酷いんだよな。カティアちゃんファンクラブの方々に狙われてんじゃね?」

 少し、考えた。ルートヴィヒの冗談を無視し、頭を動かす。

「ルーちゃん、その人たちは何か言ってた?」

「さぁ。政治みてぇな話して帰ってったよ。後はオリヴィアに任せてる」

 ユーロパの政治家の選挙活動とルートヴィヒが関係している、ということは有り得ることだ。エウロパ元首ロジーナと、その夫と懇意にしており、しかも政治に無知で無関与。一つのコネクションとして考えれば、充分なものがある。

 だが―――――それは、表の話。

「絶対に耳を貸さないように。オリヴィアちゃんにも、それは伝えなさい」

 やや、口調が強くなっていた。それは無意識のうちで、カティア自身でさえ認識していない。ただルートヴィヒはその微妙なニュアンスに、無言で頷きだけを返している。おそらく、彼の方が利口だったのだろう。そして、冷静でもあった。

「ごめんね、変な話して」

「うん、それは何とかするから。だから、約束しなさい」

 絶対に、どこにもいかないこと。そう言うとルートヴィヒは薄く笑い、容易いことだと胸を張った。

 聡明なのか、愚鈍なのか。あるいは、優しさか。笑みを見せる、その心境に。初めて罪悪感を覚えた。結局はカティアも、ルートヴィヒを利用しているのに過ぎないのかもしれない。いや、利用している。勝手に複雑にしているだけで、本心でははっきりと、利用していると言えた。

 言うなれば、人質。留めておきたい人質だ。

「……カティア、そういうワンピースも、似合うな」

 ならば、何故。葛藤が生まれる。

 迷える時間は、もうあまり、無い。だが時間がある限り、迷い続ける無限の螺旋。

 

 その一件以来、シャルパンティエから借りているルートヴィヒとオリヴィアの家に、監視をつけた。人の出入りを調査し、不審人物があれば即座に報告が入るようにした。気付かれるかどうかは、さほど問題ではなかった。気付かれても、いくらでも言い訳は出来ると踏んでいる。

 夏も中頃を過ぎ、カティアはミネアポリス市街のランドマークタワーに、シャルパンティエの呼び出しを受け、入っていた。元首であるロジーナとも面識はあった。ユーロパ政府は、カメリア人の反乱は近いと踏んでいる。

 邸宅は捨てた。今はウィノナに武器弾薬、あるいは食料を貯蓄し、幹部はタワーに入っていた。政府そのものを隠れ蓑に、来るべき時を待つだけだ。

「機を失した、とも考えられる」

 借り受けた一室で、シャルパンティエと話し合う。彼は世界情勢を見て、時期は失っていると言った。ユドン市攻防戦は未だ続いているが、シリウス派兵から一年が過ぎ、さしたる功績も無く長期化する戦闘に対し、厭戦気分がリューヴで蔓延しているという。

 リューヴは撤兵するかもしれない。そうすると、また元に戻るだけだ。撤兵する前に、反乱は行われなければならない。すでに作戦、そして計画の段階は終わったのだ。今は、もう行動するべき段階に入っている。

「秋の収穫を得て、と決めました」

「そうか。ならば、何も言うまい」

 決めた。しかし、迷いの中で、だ。それでも、覆すことはしないとも決めていた。

「蜂起の場所は、ウィノナ。しかし陽動であります。本隊はエンケラドゥスを占領後、イオの資源を奪取。この二星を核とします」

「ほう、ユーロパに手は出さんか」

「戦線を延ばしたくありません。戦術の基本は篭城戦です。その間、情勢を見つつ外交にて威力を以って独立承認を求めます」

 どう足掻いても、勝てる算段は無い。百倍の敵を前に完全勝利は有り得ない。集中的に攻撃されれば一瞬で壊滅する。本拠を別にしつつ、ユーロパでは潜伏しながらの抵抗が有力だった。そして外交で、活路を見出すしかない。

 エンケラドゥスは人口も少なく、占領するだけなら容易く思える。しかし資源に乏しく、緑も少ない。故にユーロパかイオのどちらかが無ければ長期間の維持は出来ない。外交に持ち込むまで耐えうる補給線が必要なのだ。

「そこで、ルートヴィヒか。ヤツの利用法は多々あるだろうが」

「一点目、ルテティア・パリシオールムへ突き出し、代わりに独立承認の約定を得ること。二点目、フルジア政府へ引き渡し、援助を受けること。そのどちらかは、まだ決めかねています」

 オペラ・レーヴェというリューヴの監視役がいる限り、いくらでも裏における交渉は可能だろう。レーヴェはフルジアにも繋がりがある。彼を通して、ルートヴィヒを引き渡せばいい。

「ふん。どっちにしたって、帰ってはこないさ」

 シャルパンティエは、認めた。そして否定しなかった。

 ルートヴィヒ。彼に対する、あらゆる諜略をカティアは知っていた。レーヴェを通してリューヴ政府からの働きかけもある。フルジアからのものもあった。正体が何であれ、彼が重要人物に違いはなかった。

 

「シリウス停戦後、カメリア移民とリューヴ在住移民から希望者を募った分だけ、シリウスに移住する。責任者は、再び貴女だ。これは取引というより、フルジアへの敵対行動だが損得を考えると有利じゃないかな?」

 指定された喫茶店。人除けをしているのか、他に客も、店主さえもいなかった。

 オペラ・レーヴェは黒髪を長く伸ばした青年だった。物腰の穏やかな、やや無感情じみた面をした彼は、好意的とも敵対とも思えない。あえて言うなら、中立。そんな立場からの物言いに聞こえ、カティアは思わず安易に頷きそうになった。

 二人だけの密談。真意を探ろうと、顔を覗き込んで質問を投げた。

「罪が、ある。もう二年になるか。貴女たちがいた、カメリアを一時の感情で、破壊したのは私」

「その罪滅ぼしだと?」

「そうなると気持だけは少し、晴れる」

 レーヴェが持ち込んだのは、建国の話だった。アンドロメダとフルジアが争うシリウスの地は、すでに一年が経過している。激戦による被害は尋常ではなく、極秘裏にオフェリア・フォーレを仲介とする停戦協定が結ばれつつあるという。

 シリウスから、両軍が撤兵する。そうなると、シリウスはどうなるか。おそらく中立となり、非武装地帯に設定される。そこに、カルクス人による王朝を復権させようというのがレーヴェの戦略だった。フルジアでもアンドロメダでもない。新たな、希望を。

 ただし、これは両軍を敵に回す可能性もある。リューヴと主従関係にあり、フルジアに助力を願おうと試みている現状だ。その一切を破棄する。

「結局は、どちらかと結ばねばならない。その判断は、誤るな」

 フルジアとは従属でしかない。ならアンドロメダなら、と考えれば軍事面で劣り、フルジアの侵攻を許すかもしれない。攻撃に耐えうる力は、まだ無かった。

 力。欲しいのは、力だ。

「どちらとも、余は結ばない」

「中立のままというのも、賢明」

 信用はできる、とカティアは思っていた。レーヴェの言葉からは、政治的なものが何一つ見えず、本当にカルクス人を思ってのことだと信じられた。どちらとも結ばない、となれば。両軍ともしばらくは静観する。その間に国力をつけ、軍を持ち、結ぶのは従属ではなく、同盟に出来る。違うのは名目だけで実質は同じかもしれないが、体面だけでも何とかしようとレーヴェは思っているようだ。

 星歴318年の夏。今から二年前、カメリアを破壊したのは歌姫を救出したチームが引き起こした事故だと発表されていた。親戚のティアが調べた結果、出てきたのは目の前に座る青年の名前だ。

「蜂起は、まだ待つ」

「今はそれで充分だ」

 停戦が成った後、速やかにシリウスに進駐し、政治機構を掌握する。どちらの政治も介入しないのなら、迅速さが要になるだろう。

 待ちに待ったのだ。あと、数ヶ月。待つほどのことでもない、と思った。

 もう秋を過ぎていた。金よりも必要になるだろう、食料備蓄を確保した。シリウス進駐にて最も必要になるものだ。ユドン市の攻防戦では建築物の破壊や一般民の被害もあったが、何より一年間の戦闘においてインフラは破壊され、農地は爆破された。飢え、荒んだ人々にとって何より、食糧が必要になる。

 シャルパンティエはレーヴェを信じたことに失望したようで、会っていなかった。彼もユーロパ圏の独立を夢見て、カルクスと志を同じくしていた。故に援助もしてくれていた。ユーロパという土地を貸してもくれた。その好意、全てを蹴って、争うことを止めたのだった。

 よく、わからなくなっていた。何が正しく、何が悪いか。落ち着いているようで、荒んでいる。久し振りに、ルートヴィヒに会おうと思った。

 

 ルートヴィヒの家には、オリヴィアしかいなかった。二年。随分と大きくなった。もう八歳になるはずだ。目鼻立ちが美人で、将来はきっと素敵な女性になるだろう。

「オリヴィア、お兄さんはドコ?」

 行方を聞いてみる。片言の声と、表情で。一生懸命オリヴィアは言葉を返してくるのだ。だからこっちも懸命になる。

 いつもと同じく、子供たちと遊んでいるようだった。ただ違うのが、金髪の凄い美人が、訪ねてきたこと。それを聞いてカティアは家を出て、周囲を監視していた護衛兵に詰問する。ルートヴィヒを訪ねた金髪美女。胸騒ぎを覚える。嫌な、感じがした。

 ルートヴィヒ。ルートヴィヒは、どうするのか。この地に留まる。シャルパンティエという保護者の下で、今までと変わらない日々を送る。

 この地を離れ、新たな星で、人の上に立つのなら。

 全てを捨てて、そうするなら。

 彼とて例外ではないだろう。

「連れて行けばいいじゃないか。シリウスで一緒に、住めばいい」

 物陰からオペラ・レーヴェがひょっこり現れ、そう助言した。本当に覗きが好きな男だ。この分だと、レーヴェはカティアの心情まで見透かしていよう。

「人には立場がある。余にも、ルイにも、そして彼にもな」

「そんなもんかな。強引に進めても、良くないかもね」

 曖昧ながらも肯定して、レーヴェはひとつ、足元の石を蹴っ飛ばした。それが歳相応の姿のようにも見えて、少しだけ親近感が湧いてしまった。ひょっとすると、この下らないアドバイスも、レーヴェが親近感を抱き始めた証拠なのかもしれなかった。

 少しだけレーヴェは、悲しそうな顔をしていた。

「……後悔はしたが、過ちなんかじゃなかったんだけど――――な」

「何か言ったか?」

「別に。お前は賢明だよ、賢明すぎるほど」

 嫌味のような一言を残し、レーヴェは去っていった。親近感は少し、好意めいていて。その背中を応援してくれているように見せた。

 そして、聞いた。二十年の歳月を、苦悶で過ごした悲劇の王の声を。

 

「いつか来る別れを見て――――今を捨てることなど、無い」

 

 誰かに謝るような、けれど誇らしげな声がした。

 後悔しかなくとも。その始まりは、きっと美しかったのだろう。

 オペラ・レーヴェと一人の女性の物語はすでに終わっていたが、まだ残っている。

「ルートヴィヒを呼びなさい。彼を、守るために」

 もう監視も必要ない。担い手に伝え、走らせる。今、この嫌な予感から守る。そして、未来を願ってみる。

 

 秋の短い陽。街が燃えている。赤。悲しみの、赤。

 風が強い日だった。もう肌寒い季節。冬がそこまでやって来ていた。長袖の服を突き刺す風の冷たさに耐えながら、待つ。

 息を切らせて走って来た人を見る。彼の家の近くにある、公園。もう子供たちも家に帰る時間。独りで待ち続け、ようやく、登場した姿。やはり来たという思いと、来たのかという思いが覚悟をさせる。

 ――――出会いは、死より。とある一人の人間の死から始まった。

「ルートヴィヒ、プレゼントがあるの」

 愛称ではなく、名前で。目を見てしっかりと、言う。

「そして終わった後、船に乗りなさい。ファイーナという人物に会うのです。それが、貴方の姉の名前」

 ファイーナ・“アンドロメダ”・デルフィナ。名前しか知らない占い師。ルートヴィヒとオリヴィアの唯一の肉親だ。それを、カティアはルートヴィヒ本人から聞いていた。

「これは手紙。貴方に渡して、と。『貴方』に頼まれたわ」

 手紙と、旅客機のチケットを手渡す。彼はまだ、何も言わなかった。行き先はシーテス星系。遠く離れた未開の惑星だ。イルカの進化種が生息しているというが、保護を理由に一般人が立ち寄ることは出来なかった。

 結局――――共に歩む道は、潰えた。ルートヴィヒは、未来に覚えているだろうか。今日を、この二年を。その隣にいた、偉そうな女のことを。

 そして、諦めた。オペラ・レーヴェの言葉も理解出来る。それ以上に、果たしたい夢があった。個人の感情で失いたくない夢。また、失ってはならないモノ。それが、志というものだ。信念は、何があっても曲げられない。

 君には、夢を。未来を。そして願わくば、私と共に住まう二十年後を。

――――それが、貴方と、貴方の父に教わったことなのです。

「行きなさい。私にはやることが」

「……初めて、『私』って言ったね」

「ん?」

「カティア、ちょっと目玉飛び出るようなコトするから」

 おもむろにルートヴィヒは手を伸ばして、カティアの襟元に手を当て――――力任せに引き千切っていた。確かに、目玉が飛び出る所業。突風のような行動に思わず、止まる。そして動かず、あるいは何かを期待して。

 首に小さな、痛みが走った時。鎖が切れる音がした。

「これ、ロジーナさんかルイにもらったでしょ」

 引き千切ったチェーンの欠片を落としながら、ルートヴィヒは握り拳を開く。手のひらには、指輪がある。そのとおり、ロジーナ・アルマヴィーヴァにもらった指輪だ。大きすぎて指のサイズに会わず、落とさないよう常に首から提げていた。

 由緒正しい品物で、ユーロパの為政者が身に着けてきたとされる。つまりは王家から治世を委譲された王室以外の人間が、王位と同等の権力を握る証明だったらしい。現代では明文化され、憲法で総理大臣の地位が確立されているため、王位の象徴のような指輪は効力が無い。

 カティアがカメリア移民を率い、ユーロパの土地を貸与してもらった際、受け取ったものだった。

「これさ、俺にください。代わりに」

 渡されるものがある。遠慮なく受け取ってみると、全く同じ指輪があった。幾分、サイズが小さいようだ。ユーロパの指輪が二つ、というのも知っていた。もう一つはルートヴィヒが持っていた、ということか。

「ほら、指輪交換」

「え?」

 

「離れていても、守れるよう。『今度』は絶対に、守るから」

 

 誓いを口に。立ち上がり、手にした手紙を引き裂いて、秋の空に返していく。赤いマフラーが風に靡いた。金色の髪もまた、靡く。もう、ルートヴィヒはこちらを見ずに、空を眺めているだけだった。

「今までありがとう、カティア。いつでも、君に祈っている」

 これは本当に、望んだ答えなのか。

 この結末が、願ったものなのだろうか。

 多分違う。そして正しい。

「――――はい。待っています」

 背を向け、去っていく。用意された別れを受けて、ルートヴィヒは消え去って。

「そうだ、君にもらったこの赤いマフラーなんだけど、」

 ふと、思い出した。冬のある日。彼に渡したプレゼントを。

 

「一人じゃ大きいんだ。だから、いつかの冬は二人で、使おうか――――」

 

 それは、再会の約束。

 これは別れ。そして、出会いへの道に続くと信じる。

 

 誰もいなくなった公園で、一人、呟く。

「さようなら、オフェリア。私は貴方を、愛していた――――」

 

 再び、冬が来た。ウィノナ近郊に、全軍集結。二万の将兵を前に、カティアは立った。

 逸りに逸った兵士たち。見送るは残留を決め、自由よりも大切な家族という幸福を得た同胞。誰もが、頷いた。そして誰もが、止めなかった。

 ユドンにて停戦が成立し、二週間の和平が生まれた。その間にユドン市を掌握し、国家として産声を上げる。

「時は、今。我らはこの手で戦う。そして死ぬのだ。これは、叛乱である」

 そう、叛乱だ。誰にも屈せず、誰にも従わない。追い求めてきた夢を、その手に掴むために、傷つき、死ぬ。そんな狂った戦い。世界そのものに勝負を挑む、戦い。

「アンドロメダにも、フルジアにも、見せ付けてやろうでないか。戦いに生き、戦いに死ぬ。名誉と誇りある、蒼い人の全てを」

 地面に突き立った旗。青で染められた、象徴。カティアは引き抜き、片手で持ち上げる。女でも指導者でもない、ただの戦士。それ以外は、無い。戦士以外は、いない。

「恐れるものは、消えろ。怯えるものは、死ね。余は欲しい。何を。何が――――」

 空いている手で剣を抜いた。剣と旗を天へと突き上げる。整然と並んだ兵士たちが、見守る仲間が、そして世界が、全てを止めて、待っていた。

 

「――――自由だ!なににも奪われない、生を!」

 

 世界よ、見ていろ。失うものも、恐れもない、誇りある蒼い人の命、賭した戦を。命など惜しくない、愛さえいらぬ。描いた夢だけが、生きる証。

「全軍、出撃」

 夢へ向かってひた駆ける。立ち止まることは無い。

 自由を手にするか、死ぬか。果たすか、消えるか。そのどちらかしかない。

 暴走より三百年の屈辱を経て、この日、我らは狂走を開始した。