「キノ、キノ、キノォォ――――!オレすんげぇモン見つけた、見つけたった!」
「……あー、ウゼぇ。このクソ暑い中、相変わらず元気だなオマエ」
 教室のドアを勢いよく開け放ち、弾けるような音が響く。教室中の誰もが一旦は顔を上げ、ああまたコイツかと落胆するように顔を落とす。その中には、名前を呼ばれた少年も入っている。教科書でパタパタと首元を扇ぎながら、目を閉じたまま一つ、文句を言っただけだ。
 蹴散らすように教室内を爆走し、キノへと突進。まるでタックルするのではないかという勢いのまま、目を閉ざしたキノへ手にした雑誌を見せつける。ちらり、と片目だけ開けて内容を見て、キノは呻いた。そして疑問の声だ。語尾を上げた「はァ?」という声に、まったく動じず、勢いの少年はさらにテンションを上げる。
「『はァ?』じゃ、ねぇよぉ!見てくれってキノ、このオッサン、星に娘さんの名前つけたんだぜ、すごくないか!」
「……第一発見者に命名権があるのはずぅっと昔からだぞ、阿呆。なにを、いまさら?」
 鼻で笑い、雑誌を払いのけるキノ。その雑誌というのも、ごくごく大衆向けの漫画雑誌だ。娘の名前を星につけたというオッサンも、無論、マンガの中の話である。
「馬鹿にすんな、このキノコォ!考えてみろって。オレが見つけたらオレの名前つけれるだろ?」
「……ハァ。そうだねそうですね良かったね。だからもうあっち行けよ」

「決めた。キノ、一緒に星、探すよ」



「勝手やってんじゃねえぞコラァ――――!」
 吼え声が教室中に響いた。キノスラは持っていたテキストを引き裂き、怒り心頭といった様子で立ち上がる。教室の窓側最後尾はいつも爆心地であるため、注目を集めることには慣れていた。
 今日の様子はいつもと違う。物静かなキノスラが激昂しているのだ。掴まれて揺さぶられる対面の少年が爆発するのが常なのだが、今日は逆なのである。
「前に一緒に星探そうぜって言ったじゃん、言ったじゃんかキノォ――――!」
 新年のことである。教師に呼ばれたキノスラは進路変更を余儀なくされた。それまでは危機管理コースの専攻だったのが、天文学部に変更されていたためだ。キノスラは卒業後、蒼海鎮かソフィア王都大学に進学する予定だった。ところが、コース変更で進学が出来なくなっていた。
 このままでは他の大学に、それも入学試験を経ていかなければならない。蒼海鎮も王都大学も入試はやっていなかった。教師は、どうして変更したのだと訊ねてきた。調べると、この目の前の男に行き着いたのだ。
「言ってねぇよ、言ってねぇ、お前一人が言ってた」
 思わず脱力してしまい、掴んでいた手の力が緩んだ。すると目の前の男は、ぽん、とキノスラの肩に手を置いて言った。
「気にすることないさ。これから、探せばいいんだ」
「はは、はははッ……二週間後に卒業式だってのに何言ってやがるんだテメェ――――!」
 この男はキノスラを怒らせる天才だ。再び怒りに駆られ、あらん限りの力で揺さぶる。返してくれ。三年間の努力を返してくれ。やるせない感情をぶつけても、少年は楽しそうに笑うだけだった。
 膝がかくんと折れた。座席に座り、うなだれるしかない。父親に何と説明をすればいいのか。謝罪するのはこいつだけでいいとして、卒業後、本当にどうすればいいのか。予備校に通って試験勉強をして、行きたくもない大学に進むのか。
 急に人生が変わった気がした。ほんの少しの間違いで、これほどまでに人生は変わるものなのか。神を呪いそうになる。
「人生は短いんだ。そんな先のことばかり考えても、仕方ないよ」
 こちらの思考を読んだのか、友人はそんなことを言った。
「ルーは今を見すぎだ。人生はあと七十年くらいある」
「そんなの……わからないさ」
 ふっとルーは笑ってみせた。苛立たしい笑みだった。
 顔を背けて窓の外を見る。そこには何も無いが、前や横は向きたくなかった。外にあるのはリュケイオンの景色。アルフェラツ星の中心が見える。本当なら、もうすぐソフィア・ビュザンティオンに行けるはずだった。
「夜、屋上集合な。キノ、絶対来てくれよ」
 ホームルームが始まる頃、そんな声が聞こえた。流す。教師の声と一緒に聞き流す。ずっと窓の外を見たまま、将来が不安でたまらなかった。
 気付くと、放課後になっていた。周りの生徒たちが続々と立ち上がり、帰っていく。真似るようにキノスラも教室から出た。校舎からも出て、学園都市へと歩く。ここらは大学の一部と言えるような地区で、本当のリュケイオン市街は駅で二つ先に行ったところにあった。
 帰ろう。素直にそう思って歩いていた。下宿の前にはガールフレンドのネリーが立って待っていた。ブロンドの長髪が目立つ、背の高い女性。彼女はこちらに気付いた様子だったが、手を振るような気力がキノスラには無かった。
 制服姿の彼女を後ろに従えて、弱々しく鍵を開けて自室に入る。ワンルームの部屋には寝具やら家具やらがあって狭さを強調している。
「もう、駄目だあ――――」
 心が折れた。体も折れて、ベッドに倒れこんだ。
「ごめん、ネリー。一緒にソフィア、行けなくなったかも……」
 ベッドに顔を押し付けながら、背後に立つ彼女に言った。表情はもちろんわからなかったが、素っ頓狂な声が聞こえたことから、驚かせたことを把握する。
 仰向けになってから事情を説明した。180センチはあるネリーの長身は、下からだとますます大きく見える。背だけではなく体も大きい。太っているわけではなかったが、タイタン人らしいがっしりとした骨格の持ち主だった。体重を聞くのだけは禁物である。
 背も体も胸も尻も心さえも大きなネリーは、微笑んで励ましてくれた。彼女と付き合っていて心からよかったと思える瞬間が到来した。やるせない気持ちを癒す言葉は、清涼感のある彼女の声に彩られて、ささくれた心に沁みるようだった。
「うん、それで良かったのかもだよ。だってほら、蒼海鎮とか行ったら軍人さんでしょ。気軽に会えなくなる」
「馬鹿だな、ネリー。修道院に入るお前の方こそ自由はない」
 え、と。彼女の顔色が変わった。いつもルーに言っているような突っ込みをネリーにもしてしまっていた。
 ソフィア・ビュザンティオンにある聖ユーリヤ修道院に彼女は進むことになっていた。戒律の厳しい修道院だ。下手をすれば幽閉のような生活を強いられるに違いない。励ましてくれる彼女にネガティブな発言を浴びせ、少し後悔した。
「いやあ、冗談。いくらシスターでも恋人に会う時間くらいあるだろ」
「うん、ごめんね。絶対作る」
「そうだ。文句言うヤツはブン殴ってやればいい」
 気付けば立場が逆転しているような気がした。励まされていたのが、励ましているような気分。シスターが人を殴るというのはどうかな、と自分でもおかしな発言をしたと気付く。それでも、少し気分は晴れたように感じられた。
 ネリーは歌手になりたいと言っていた。アリア・ローゼンミュラーのような歌手にだ。心の底には種族蔑視に対抗するような熱い根性があるのかもしれないが、決してそれを見せることはなかった。目標に向かって走り続ける彼女が、目標の無くなった今、眩しく見える。
 優れた心の持ち主。ネリーはキレイな心を持っていて、それを自分は好いたのだ。その心が奏でる音楽ならば、きっと優れたものに違いないと信じている。だから、頑張れと応援することだけは止めないと決めていた。自分が情けなく、不甲斐ない今を迎えていても。
「私、でっかいけど大丈夫かなあ。シスターになれるかな」
「体が大きい方が肺活量はあるし、有利じゃないか」
「それシスター関係ないよね」
 アリアのようになりたいから、同じ道を行く。理想とする人物がいる。キノスラも理想の人物というものを考えてみた。小学生の作文であるような、尊敬する人というものだ。大抵は父親だったり、スポーツ選手だったり、あるいは歴史上の偉人であったりする。
 思い浮かばない。地味に堅実に生きていければそれでいいと思っていた。蒼海鎮に行きたかったのは、軍隊というものに興味があったからだ。それだけの理由で、国家のために戦おうとも、戦争を終わらせてやるとも思ったことはない。どうせ軍人になるなら、蒼海鎮のエリートになりたいと思っただけだ。
 それが潰えた今、自分は何をするべきなのか。

 行くあてなどなく、結局は、来てしまった。
 下宿で夕食をとり、夜になってから学校に来た。屋上へ。ルーの言葉に従うのは非常に口惜しいが、他にすることも、行く場所もなかった。
 ルーは何度もここに来ているようで、準備万端といった風だった。シートを敷き、夜食や飲み物を置き、テントのようなものまである。ひどく旧式の望遠鏡の前にルーは座っていて、気配に気付いたのか、首だけをこちらに向けた。
「来てやったぞ、馬鹿るー」
 悪態をひとつついて、シートの上に座った。ルーは嬉しそうな顔で夜食を勧め、飲み物を注ごうとしていた。いらないと断ると、急に興味を失ったように望遠鏡に向かった。面白いのだろうか。そもそも天文部など学校にあっただろうか。
「あるよ。オレ、キノの二人だけだけど」
「それをサークルともコースともギルドとも呼ぶことは、絶対にない」
 珍しく、ルーは口数が少なかった。無心で夜空を見ている。沈黙が訪れ、自然とキノスラの首も持ち上がった。明るいリュケイオン市街から遠いためか、星空ははっきりと見えた。星座も何もわからなかったが、美しいと思う心は持っていた。
 これから、どうしようか。漠然と考えた。親に会って説明をして。それから、どうなる。何をするにしても、目的が無ければどうしようもない。今の自分にはそれが無いのだ。そういえば、こいつはどうするのだろう。不思議に思って、ルーに問いかけてみる。
「考えてないよ。今を生きる、ってヤツさ」
「随分とカッコいい言葉だけどな、ルー。俺にはお前の生活基盤がわからない。仕送りだったっけ?」
「うん。好きにしろってお金だけ送ってくれる」
「羨ましい話だな。一生、遊んで暮らせたらいいのになあ」
「つまんないよ、そんなの」
 夢が無ければ、とルーは付け加えた。同感である。そんなルーの夢は、星を見つけるというものだった。思うに、この男は大人物なのではないか。それとも単なる馬鹿ではないか。前者だと信じてやりたかったが、おそらく後者なのだと思った。
「キノは、未来が不安なの?」
 望遠鏡に向かったまま、ルーが訊ねてきた。思っていたことをずばり言い当てられ、反論出来ずに肯定した。
「――――ふうん」
 まずい、と直感的に思った。ルーのため息は問題の前触れだ。案の定、とびっきりの笑顔でルーはこちらに振り返った。最初の言葉はもちろん決まっている。出だしは、必ず「決めた」なのだ。
 シートの上で後退する。座ったまま後ろに両手をついて、体勢を逸らした。いつでも逃げ出せる用意だけはしておかなければ。勝手に決められては不都合が発生する場合がある。むしろ、ほとんどが不都合だ。
 それでも、いつも逃げないのはどうしてだろう。つい聞いてしまう。ルーの提案は突拍子もないものだが、少しだけ、期待もある。道に迷う自分を誘ってくれるようなパワーを求めて。キノスラはおかしな体勢を維持し続けた。
「決めた。キノ、一緒に暮らすよ、キノん家で」



「くそったれ、また落ちただとォ――――!」
 求人雑誌を引き裂き、ベッドに倒れこむ。まだ眠っているルーの体を容赦なく襲うが、この男は起きる気配を全く見せなかった。
 季節は春、もう五月を幾日か過ぎて。奇妙な同居生活はまだ続けられていた。どうして同居する羽目に陥ったのかは思い出したくもないが、継続中である。下宿の部屋はより一層と狭くなり、まさに寄生されていると言っていい。
 癒してくれるネリーも遠いソフィア市だ。連絡を取り合ってはいるが、もう久しく会っていなかった。寂しいと思う反面、寄生虫のウザさがそれを紛らわせてくれるような気がしていた。
 都合、六度目の不採用を経験し、学校も行かず、日々だけが過ぎている。二度目の三年生という不名誉な事態をキノスラは選んだのだが、蒼海鎮へ入るための単位は足りている。卒業も出来る。あとは来年を待つだけだった。ただ、その間の費用を父にだけ負担させるのは自尊心が許さなかった。
 アルバイトでこれほどまでに落とされるものなのか。やり場のない怒りを覚えながら、キノスラはため息をつく。むくりとルーが起き上がった。おはようと声をかけ、ベッドに手をついて立ち上がった。その時、じわりと冷たい感覚を手が味わった。
「テメェ……またおねしょか」
「はい、オッカアがヨーと声をかけてくれます」
「いつまでも、寝ぼけてるんじゃねえぞコラァ――――!」
 掴みかかろうとダイブすると、反対に起き上がり立ち上がったルーに回避される。冷たい布団に身を埋め、ああ、ちくしょうとキノスラは呻いた。視界には勝手に冷蔵庫を開けて水を飲み干す寄生虫の姿。寝起きの悪いルーは、いつも起床時に水を飲んでいた。
「くそう、冷てえ――――」
 泣きたい気分である。濡れた布団を干しながら、乾燥機くらい下宿で買ってくれと願った。アルバイトでもらった給料は、まず乾燥機を買う金に消えると思う。
「ねえキノ、昨日気付いたんだけどさ」
 完全に覚醒したルーは、机の上に置いてあった写真を手に取っていた。昨夜、星を見ていたルーが撮影したものだ。確かシーテス星系のあたりだったと記憶していた。
「星が無くなってる」
「馬鹿かお前は。星を探してるんだろ、見つけるんだろ。見失ってどうする」
「見失ってるのはそっちだバカキノコォ!ふふん。コレ、見てみろよ」
 写真を見せられても、キノスラには何のことだかさっぱりわからなかった。考えてみれば、この無数の星空から未発見の星を探すのは容易なことではない。キノスラにはどれがどれかさえわからなかった。
 もちろんルーも全てを把握しているわけではないだろう。気の迷いだと言っても、彼は釈然としない態度を見せた。こういう顔は珍しい。ルーという男はぞっとするほどワガママな人間であり、思いどおりにならないことなどほとんどない。だから、こうしてふてくされるような顔を、キノスラはあまり見たことがなかった。
 大学付属の図書館には、きちんとした設備で撮影された天体図があるはずだ。それと見比べようとキノスラは提案した。ルーはそれで納得し、昼飯にしようと言い始めた。時計は確かに昼を示している。寝すぎだ、と一言だけ注意してみる。
 冷蔵庫を開けて昼食を用意しようとして、手が止まった。
「ルー、どうしてゼリーが増えている」
「好きだからだよ」
「お前は、この冷蔵庫を見て、何とも思わないのか。あ、サカナが腐って」
 まるでスライムと化した冷蔵庫の中。冷蔵が届いていない魚が見るからに腐敗してしまっていた。ゼリーが詰まった冷蔵庫の中から食材を引っ張り出す。同時にあふれ出るゼリーのパック。これだけ詰めていれば、確かに冷蔵が届かない場所もあるだろう。
「くそっ、こんなもの冷凍してやる」
「錯乱しないでよ、キノ。ゼリーを冷凍したら食べられないじゃないか」
「狂ってるのはお前だ、この――――!」
 落ちてきたゼリーを後ろにいるルーにぶつけ、少しだけ溜飲を下げた。

 図書館の資料室にて、ルーは目を輝かせた。星の写真、目的のシーテス星系の写真を持ち出し、ディスプレイを指差す。比較の映像が出され、キノスラもルーの言っていることがはっきりと理解出来た。
 昨夜の写真では一部が暗くなっていた。本当ならそこに星があるはずである。欠損部位の近くに明るい一等星のような星があったので比較は容易い。その明るい星の近辺に漆黒の部分がある。しかし資料室の星図にはいくつかの星が映っている。
 星が無くなる。そんなことがあるのだろうか。それも一つや二つではなく、数多くの星が消えているのだ。
「専門家に聞くしかない」
「駄目だよそんなの。手柄とられるじゃんか」
 手柄なのかどうかはよくわからないが、誰もこれに気がついていないのだろうか。ぱっと見上げた星空の、本当にごく一部だけが欠けているという事実。望遠鏡がなければわからない差異。ルーが気付いたのも偶然だ。必然的にそれを見つけることは果たして可能なのだろうか。
 おそらく、それは無いような気がする。第一発見であるという手柄は、確かにルーのものだ。しかし星を見失ったことが手柄なのかどうか。キノスラにはよくわからなかったが、ルーは絶対に誰にも言わないでくれと約束を求めてきた。
「まあ、いいけど。それよりどう調べるんだ、これ以上」
「手柄を横取りしない専門家に聞く」
 相変わらず言っていることは理解不能だ。キノスラが呻き声で答えると、先生だとルーは言った。どうやら心当たりがあるらしい。天文部を作る時にお世話になった教師がいるらしく、その人に訊ねるのだと解釈する。幸い、キノスラはまだ生徒だ。難しいことではないだろう。
 周りに大学生らしい人々が増えてきたので、混む前に退散することにした。図書館を出ると、じわりと暑さを増し始めた初夏の到来を感じる。わずかに吹いている風は確かな熱を帯びている。
 ゼリーまみれの食材を救うべく、帰りがてらにショッピングモールへ寄った。とりあえず食品を確保した後、疲れたというルーのために小休止することになった。設置されていた休憩所らしきスペースの一角、ベンチに座るルーに飲み物を買って渡した。
 炭酸飲料を飲みながら、一息入れる。大きなテレビモニターが柱に設置されていて、キノスラは何も考えず、ぼけっとしながら流される映像を眺めた。何かの宣伝らしい。驚くほどの美女が口紅を縫っていた。顔のアップのカットに切り替わる。真っ白な肌に蒼い目と鮮やかなルージュ。
「アデレードか、キレイだなあ」
 化粧品のコマーシャルを眺めていると、ついそんなことを口走ってしまった。学校の友達の中には、ポスターやカレンダーを持っている者もいた気がする。微妙にエロかった、画。思わず目をとめ、気付けば凝視してしまう力がある。
「普通、アレだぜ。この細さであの体はねえよ。ネリーであんなもんだもん」
「ギリギリだよね。もうちょいバランス崩れてたら気持ち悪いよ、きっと」
「お、何気にお前も見るとこ見てるね」
「そりゃ、目に付くもん」
 全くだ、と男同士でアイドルの話題に花咲かせる。
「いや今までアイドルのファンとかの心理が理解できなかったが、これは見てしまう。ポスター、部屋に貼ってあったら最高だな」
「ふとした時に見惚れてそうだよね。で、ちょっとの間、行動停止」
「話がわかるな。なに、ひょっとしてルーはアデレードみたいな女がタイプなのか?」
「可愛くてキレイだし、まあ好きだよ」
 どこか歯切れの悪い言葉だった。ルーは飲み干して空いたカップをリサイクルの容器に入れ、帰ろうと促してきた。モニターを見上げると、レグルス戦線のニュースが流れ始めていた。

 目覚ましの音で覚醒した。今日は二人で学校に行く約束をしていた。そう、ルーが見つけた欠落を調べるためだ。言い出したルーを見ると、やはりまだ眠っている様子だった。
 ベッドに寄りかかり、何度か揺さぶって起こそうと努力してみる。声をかけても目覚めない。諦めて、キノスラは床に敷いた布団に崩れ落ちた。二度寝である。
 夢を見た。気がつき、飛び起きるようにして覚醒する。夢の内容はよく覚えていなかった。眠気はもう無い。時計は、昼を過ぎている。しまった、と布団を跳ね除ける。これでは遅刻だ。急いで隣のベッドに手をかけた。ルー。揺さぶり起こす。
 彼はゆっくりと目を開け、口を結んで硬い表情をした。手を置いた部分が濡れている。またか。多少、苛立ちながら起きるように指示する。
「みず」
「あァ?何だお前、具合でも悪いのか?」
 冷蔵庫からボトルを取り出し、渡そうとした。ルーは手を出すのも億劫なのか、ただ横たわったままかすれた声を出した。ストローを使って飲ませる。相当な量を飲んで、ルーは目を閉じた。体を起こす素振りは無い。
 体調が悪いというのは見た目でわかる。素人が見てもわかるほど衰弱していた。悪い風邪か何かだろう。思ってキノスラは医療装置を起動させた。白衣を着たホログラムが作動し、IDを要求してくる。置いてあったルーのカードを通すと、エラーが表示された。
「タイタン、ユーロパ、ネレイド人以外の亜人間種は診察することが出来ません」
「使えないヤツだな。ルー、病院には行けそうか?」
 振り向いて訊ね、問いが間の抜けたものだと気付いた。立って歩ける状態ではなさそうだ。装置の電源を落としつつ、ボトルを枕元に置いてやる。
「……キノ、学校行ってきて」
「一人で大丈夫か?」
「世紀の発見かもしれないんだよ。気になって仕方ないから、行って」
 あまり明瞭な声ではなかったが、はっきりと彼は言った。彼らしい言葉だった。昨日は健康そのものだった。悪い食べ物を口にしたわけでもない。体調不良はそう重いものではないだろうと判断し、看病の言葉を一通り並べた後、資料を鞄に詰めた。
 家を出る。学校は近い。何か考え事をする時間もなく、校舎が目の前に見えてくる。生徒玄関から中に入り、職員室に直行した。一応は名前を天文部に貸してくれている教師を訪ねると、老齢の男性は快く資料を見せろと申し出を承諾してくれた。
 場所を変える。空いていた教室に移動してから、資料を取り出した。教師は老人らしい呻き声を出しながら、曖昧な答えを用意してくれた。
「何かが陰になっているのかな。宇宙船があったり」
「ああ、そういうことか」
 複数の星がいきなり消えるということは考えられない。視界に遮蔽物があり、隠れてしまったと考えるのが妥当だろう。ルーの発見は一言で解決されるようなものだった。後は帰って残念なニュースを伝えてやればいい。
「その宙域はサジタリウスだと思うね。第二銀河団だからフルジア帝国側で観測されているかもしれないよ」
「サジタリウス?」
「恒星が三つある惑星系でね、総称してそう呼ぶんだ。フルジアの端に当たる。アルフェラツから観測出来無いはずはないから、やっぱり何らかの遮蔽物があると考えるのが妥当だとルースィに伝えておいておくれよ」
「アイツの名前、そんなのだったっけ。俺は『ルートヴィヒ』とかだった気がしたが」
 友人の名前もロクに覚えていなかったらしい自分を少しだけ恥じ、残念な結果を頭に刻んだ。サジタリウス。もう発見されていては、命名など出来ない。
 ルーシ。口にして、上手く発音出来ないことに気がついた。おそらく彼の故郷の現地語なのだろう。どういう意味なのかな、と。束の間キノスラは由来について思いを馳せてみた。



 翌日になっても、ルーの体調は良くならなかった。病院に連れて行くと、医者はキットと同じようなセリフを口にした。
 種族がわからないので、これが何の症状なのかわからない。そんな馬鹿な話があるかとキノスラは思ったが、例えば発情期だから熱があるだとか、そういった特殊な症例なのかもしれないのだ。人間にはわからない苦しみ。どのような薬が効くのかもわからなかった。
 送金をしてくれている保護者。金の流れを探れば、種族がわかるような気がした。ルーは病院のベッドで眠ったまま、起きることもない。キノスラはIDを借りて、事情を説明して送金先を調査することにした。
 銀行で口座を問い合わせると、家族でなければ口座情報を開示することは出来ないと言われた。事情を説明する。人命がかかっているのだ、人ではないのだが。人情というものがあるのならば、送金先だけでいいから教えてほしかった。
「要するに、親に連絡をとりたいんですよね。で、送金先の人間と連絡がとれれば、と。病院からの要請書とかありませんかね」
「それがですね、医者も連絡をとりたいともちろん思っているようですが、警察でもわからないらしいんですよ。貴方でも構わないから送金先に電話して種族だけでも問い合わせてくれないか?」
 懇願すると、行員は折れた。奥に消えて電話をかけ、戻ってくる。随分早いなとキノスラは思った。
「……おかしな話です。送金先の情報を開示するには、頭取クラスのIDが無いと」
 意味がよくわからなかった。情報開示に厳しいセキュリティがあるらしく、銀行員でも見ることが出来ないのだと彼は言った。あまり考えられないことだ。だから、驚いていた。
「警察も同じようなセキュリティの壁にぶつかったのでしょう。おそらく、国内ではありません」
「当たり前でしょう。この星にルーと同じ種族がいたならば、こんな苦労はしていない」
「特殊な種族。例えば、リューヴ=レイスのような種なら、身元を隠すために口座をロックすることもあるかもしれません」
「そんな馬鹿な。アイツが、神様?」
 神があれほど間の抜けた男。想像すると、思わず笑ってしまいそうになった。銀行にいても埒が明かず、キノスラは病院に戻っていた。こちらの話は、進展があった。医者はルーの容態について説明をしてくる。たとえどのような種族であっても、生命には違いない。
 臓器の運動があまり機能していない。消化器が弱まれば食物を消化出来ないので、食べることが出来なくなる。心肺機能も低下していて、いつ止まってもおかしくないと言った。それはつまり、生命の危機。危篤ということではないか。
 ここにきて、事の重大さに気がついた。死ぬ。ルーが、いきなり死ぬ。そう思っても、あまり実感はわかなかった。ただ、はぁ、と。気の無い返事をしたくらいで。キノスラには何が起きているのか把握することが出来なかった。
 銀行での話を教えると、医者はそれはないと言った。原住リューヴ種ではないと断言する。なぜなら、リューヴ種は人間種であり、姿形は外も中もキノスラとあまり変わりない。ルーは外見は似ているが、内側は人間と比べて全く違うのだという。
「どのような種かはわからないが、これと似ている症状は人間にもある」
 人間との大きな違いは、心肺組織だという。肺には見たこともないような器官がたくさんついており、生物として似通っているものの、全く違う種族である。それでも、人間と似た病だと医者は言った。
「――――老衰。この症状は、老齢の患者に多く見られる」
「老人、って。どう見たって俺と同じくらいだろ」
「これは内面の話だよ、ウェーベルンくん」
 苗字を呼ばれ、黙ってしまった。単なる高校生が、何かを言えるような状況ではない。帰りなさいと諭されて、病院にいることも禁じられた。
 ここにいても、出来ることなど何もないのだ。そして自分が、何か出来ることなど、この世にない。
 眠ったままのルーを一度見てから、キノスラは退散した。

 家に帰ると、父親が来ていた。ヤバいとは思ったが、構う余裕がキノスラには無かった。
 父は何も言わず、夕食に連れていってくれた。キノスラも知らないレストランに入り、適当に食事をオーダーする。待っている間、気まずい空気を打破するために、どうでもいいことを話す。おそらく、人はこれを他愛の無い話と呼ぶ。
「父さん、仕事は?」
「休みだ」
 世間話が途絶える。二人とも、あまり多弁ではなかった。
「困ってること、無いか?」
「あるよ」
 言おうとは思わなかった。沈黙の訪れたテーブルに、食事が運ばれてくる。夕食が始まると、より一層、会話は無くなった。あっという間に食べ尽くす。キノスラが食事を終えた時、すでに父は食器を下げるようにウェイトレスを呼んでいた。
 十分ほどの食事を終え、三度、沈黙となる。気まずいと思ったのは、きっとキノスラ自身に後ろめたいことがあるからだと思った。父は何も感じていないに違いない。これがいつもの食事風景だったからだ。
 最近は、多弁なヤツと一緒だったからか。そんなことを思うと、心に言いようのない感情が生まれる。
「助けてほしいことがあれば、言え」
「そうする」
「一人で悩め。帰る」
 レストランまでは一緒に出て、帰る方向は別だった。どうして片言だったのか、よくわからない。父も何か感じることがあったのだろうか。無論、それを感じさせない人ではある。
 帰路にて。電話が鳴った。受けると、病院からだった。ルーの容態に変化があったようだ。電話先の女性は簡単にだが説明してくれた。
 はっきりとして意識は戻っていないのだが、目を開いて言葉を喋る。うわ言。ああ、まだ寝ぼけているのかとキノスラは思った。ただ、そのうわ言が一時間以上続いている様子なのだ。まともな会話は出来そうにない。
 解読する自信があるわけではなかった。しかし自分に何か出来るのならば。もし役に立てるのならば。行くべきだ。そう直感する。行くと伝えて電話を切り、タクシーを捕まえる。
 目が覚めた。それは嬉しかった。昼過ぎの目覚め、寝ぼけて全く会話の通じないルーを見るのが、嬉しいと思う時が来るとは思ってもみなかった。
 一方で、こう思う。
 治る、治らないの問題ではない。それが、寿命ならば。
 まるで老人と接するように、それは介護という名の友情か。何だ、それ。車窓から過ぎ行く夜景を眺めながら、心の中が絡まった。
 六月十八日。ニュースの隣に日付が出ていた。
 病院につくと、ルーは眠っていた。昼に見た時と何も変わっていない。医師に呼ばれ、病院内の一室に入る。彼が起きていたのはわずかに三十分ほどで、再び眠りについたのだと説明を受ける。
「君は、何か、とても大切なモノを持っているのでは?」
 問い詰められ、首を傾げた。
「例えば大金であったり、例えば情報であったり、とにかく重要なモノをルースィから預かってはいないか?」
 それは残念な結果。壮大な勘違いを、彼はまだ、夢見ているのだろうか。ベッドの上から見える夜空に、夢を描いて。キノスラには、それが幻だと伝える勇気が無かった。だから、何も、言えずに。ただ医者の言葉を聞き流した。
 夢は幻。ルーという男にとって、それは何より聞きたくない言葉であるはずだと思った。彼は常に追っている。上を見て、胸を張り、星という夢を追っている空想家。

「もし持っているのならば、誰にも渡すな。オフェリア・フォーレただ一人に渡せと彼は言った」

「ルテティア・パリシオールムの神様に?」
「神に祈れ、ということなのかもしれない」
 要領を得なかった。サジタリウスが遮蔽物に隠れてしまったということを、心中で神に捧げよと言うのだろうか。彼は熱心な信者だったのだろう。貴重な情報ではない。だから、彼は知らないのだ。サジタリウスが隠れたではなく消えたことを祈れと言う。
 オフェリア・フォーレという部分に引っかかりを覚える。おそらく世界で最も著名な人物だ。フルジア皇帝であり、ルテティアに入って偽者を叩き出した。それは神の力というより、己が力で掴んだ夢。神という曖昧な救いというよりは、現実的な英雄という存在に近い。
 神に祈れというのならば、おそらくこう言う。フィルウィリミテアに伝えろ。しかしオフェリアへと言ったのならば、何かが違う気がする。夢を実現する力。実行せよ。夢を果たせという意味ではないのか。
 わからない。何をすればいいのか、どうすればいいのか。
 だから誰か、教えてくれ。

「オフェリア様に会いたい?」
「そうだ、ネリー。確かソフィア市にいるんだろ、修道院とかに来ていないかな」
 迷いはある。だから、会おう。ルテティアは開放されている。だから、神にも会える。迷えるならば、救ってもらおうではないか。それこそが神の仕事だろう。
 修道院に進んだ彼女に電話をかけた。家族が緊急ですと伝えると、通してくれた。慌てるネリーを鎮めて話をする。宗教のことはキノスラにはよくわからなかった。だから、詳しい人物に聞くのが手っ取り早いと思ったのだ。
「オフェリア様はルテティア・パリシオールムのご自宅にいらっしゃるはずよ。でも、会えないと思う」
「どうして」
「ご自宅で静養をなさっていて、宮殿に出て来るのは妹君のアデレード様で、代行しているから。アデレード様には会えてもオフェリア様は難しいんじゃないかな」
 アデレード・フォーレ。引っかかる。ルーは彼女を何と言っていた。あまり気乗りしない会話のように見えた。しかし詳しそうではあった。知人。もしや面識があったのではないか。ルー。何者なのだ、お前は。
「何か、抜け道みたいの、無いのか?」
「私も一度だけしか行ったことがないの。ご自宅はオリュンペイオンの裏にあって、護衛みたいな人がいるから門前払いだよ。もしオフェリア様が庭にいて、護衛が中にいたら、庭に回れば会えるかもだけど」
「検問や聖堂側からの規制はないんだな、わかった」
 忍び込む。それしかない。その後はどうなるのか、あまり考えなかった。よもや殺されるということはあるまい。犯罪であるとも考えられない。会ってはならないというわけではないし、そもそも危害を加えるわけでもないのだから、護衛に警戒されることもないだろう。
 要人だからSPがいるわけであり、その護衛がアポイントのない訪問客を追い返す役にあるだけだ。会える。確信に似たものをキノスラは抱いた。それほど厳重な警戒態勢であるわけでもないのだ。神は武力を放棄している。
「切るぞ、じゃあな」
「あ、待って」
 電話を切ろうとした手が止まる。何か用事があるのだろうか。あるのなら、急いでもらいたい。ルテティア・パリシオールム星に行く方法を考えなければならないのだ。
「――――もっと声、聞きたいな」
 ふと、自分が何か、間違えていることにキノスラは気がついた。
 キンとなる心の痛み。ネリーの声。感情。おそらく、切なさに似た何か。少し、立ち止まろう。逸る気持ちを少しだけ止めてみよう。言い聞かせ、目を閉じる。
「ああ。そうだな、久し振りだからな」
 話した。色々なことを。話題の中心にいるのは、ルーだった。いつの間にか、あの友人が生活の中心になっていた。話していて改めて気付かされる。自分の中で、彼はどれほど大切な親友になって。だから、たまには彼の願いを聞き届けたいと思う。
 心は晴れやかに。どこか鬱屈して、暗い感情ばかりだった胸の内。遠く離れた恋人の声が、それを少しだけ上に向かせてくれた。空を見ろ、前を、見上げろ。俯いていては視界は暗くなる、思考も、気持ちも、暗くなってしまうから。
 気付かせてくれたのは、君の声。ああ、君なら。アリアになれるかもしれないと思った。
 救ってくれ、皆を。その声で。そして、俺を。救ってくれ。
「うん、キノはオフェリア様に会うべきだと思う。私もね、一度だけ。会ったから、そう思う」
「どうして」
「なんて言うのかな。カワイイものとか、キレイなものを見た時って、心がほわってなるでしょ。感動じゃないけど、そんな感じ。オフェリア様と会うと、それをもっと凄くした気持ちになるの」
「ごめん、全然わかんねぇ」
「チカラ。多分、もらえるのは心のチカラだよ」
 欲しいのは、多分。そういうものなのかもしれない。悲しみに、絶望に負けない強い意思だけを望む。そして理想を叶える、夢を追い続ける、強い意志だけを求む。救いはそこに。願いを我が手で叶える力を欲した。
 視線を落とす。テレビの上に、封筒があった。



 退院の許可は簡単に出た。病院は介護施設ではなく、医療機関だ。寝たきりの老人を引き取ることは容易く、ルテティア・パリシオールムに連れて行くと言えば許可は出た。
 父親が何故か置いていった金でチケットを買って、アルフェラツから旅客機に乗って宇宙の海を渡る。ルーは十五時間以上を寝て過ごしたが、起きて曖昧ながらも会話をすることが出来た。軽い体を背負って神の住まう星に降り立つ。
 他の観光客は、ガイドをつけて大聖堂へ吸い込まれていく。ユミルの女官たちがガイドを務めている一団もあり、初めて神聖さに触れてみる。美しい。そして、荘厳だ。肌で感じる。これは、触れてはならないもの。人が冒してはならないもの。一段階上の世界が広がっている。
 大聖堂には入らず、左に回った。広がる森、残された自然。崖のようになっているのか、遠く眼下に海が広がっていた。ぐるりと大聖堂を回って裏側に出た。裏から見るオリュンペイオンは、華美な円形のステンドグラスがあった。
「あれは、星?」
「違うよ馬鹿。あれはガラス、銀河みたいだけどな」
 背負ったルーが大聖堂を見上げ、呟いていた。キノスラはもう見ていなかった。白い家が見える。聖堂の裏にあって普通は見えない位置にある。裏側に回って初めて家があることに気付く。確かに、民家に入ろうとする者はいないだろう。
 家に近付く。玄関が見える。正面からは入れないだろう。こっそりと家の裏に回ってみた。庭がある。家にはバルコニーがあり、木製のデッキが作られていた。庭にはテーブルや椅子などがあり、遊具のようなものも見えた。
「水」
 探した。水。庭には水がある。奥にある森、その手前に小さな湖のようなものがあることに気付いた。木には遊具のようなものが取り付けられている。あそこに行けとルーは言うのだろうか。庭に人影はなかった。きっと家の中にいるのだろう。
 庭を歩く。湖から生えた木。ぶらさがるブランコのような遊具。初夏の日差しが、キノスラの背中に汗を浮かばせた。
 水音がする。そこで、気付いた。湖にいるのだ。神か、妖精か。人ではない何かが。さらに近付いた。ルーが微笑む。それは嬉しそうに、喜色を顔に浮かべた。どうしてかはわからない。キノスラは視線を真横から正面に向けた。
 足を、止める。水に足をつけ、じゃれるように遊ぶ少女がいた。金と銀の中間。輝く髪を持った少女の小さな背中。ルーが、会いに来ました、と。震える声を投げかけていた。
 少女が振り返る。眼。美しい顔にある二つの瞳。こちらを見ているのか、いないのか。焦点のずれた視線がそこにある。ただ深い、深い、深海のように深い蒼。
「――――オフェリア・フォーレ」
 口に出した名前がある。これが、かの英雄か。なんと小さく、なんと可憐な姿なのだろう。常勝不敗の神将、神算鬼謀の政治家、栄華を極め、権力と権威の頂点に立った超世の英傑とは思えぬ姿にキノスラは驚いた。見つめる。目を離せない。とろんと開けた小さく厚い唇は動かず、何も答えなかった。
 背中から重さが消えた。すとん、と庭に降り立ったルーは、おぼつかない足取りでオフェリアの隣に行った。同じように水に足をつけ、オフェリアを見ている。キノスラもまた、オフェリアを見ていた。何を言うのか、何をするのか。おそらくは期待をして。
 オフェリアは、ただこちらを見上げているだけで。視線は、青空に向かっているのだと気付いた。口が少し動く。口元が、笑みに変わった。

 その時、こう思った。こんなに神々しく美しいのに、ひどく、醜悪な姿だと。

 思わず、キノスラは顔を歪めていた。何だこれは。感情の全てが驚愕に変わる。見るものを魅了する蒼い瞳は呆けた焦点でどこを見ているのかわからず、唇はやや開いて呻き声をあげて唾液をたらし、白い肌には陰がさしてどす黒く、かつ生気を失い血流を感じさせない灰の色。美しい白金の髪は乱れている。
 よく見れば、とても正常とは言えない姿に生理的嫌悪感を抱いた。醜く歪んだ姿は直視に耐えられず、視線を逸らした。声のようなもの。喋りたいのか。聞こえるのは呻き声でしかない。アア、ウウと唸るような声は言葉ではない。まるで、呪詛のような、地獄からの呼び声。聞きたくないと、耳をふさぐ。
 背後に気配を感じて、キノスラは振り返った。影。何だと思って見上げる。巨体だ。黒い巨体が目の前に立っている。顔から血の気が引いた。言葉は無く、ただただ敵意だけを感じる。感じられるほどの敵意なのだ。巨体と合わさりこちらを圧倒してくる。
 思い切り服を掴まれ、強引に引きずり込まれる。刃向かうことも、踏ん張ることも難しい。圧倒的な怪力で引っ張られているのだ。ウッドデッキ。投げられそうになるところを、キノスラは喚いて反抗した。多少、力が緩んだような気がした。自力でバルコニーから屋内に入る。
 椅子に縛り付けられる。護衛は一言も言葉を発しなかった。ただ厳しく、見たこともない顔がこちらを見ていた。暗く。黒く。ふっと目が何かで隠された。

「正直に言え。雇い主はリゴレット・リエンツィか、それともジュリエッタ・ミュゼットか?」
 目隠しの上から、何かが眉間に触れてきた。ごつごつとした硬い何か。最初、キノスラにはそれが何かよくわからなかった。問いかけてくる声は低く、凛とした響きと張りがある。威厳と迫力のある声の質が、答えろと圧してくる。
「雇い主って……何?」
「アルフェラツから来た船だが、所属はどこだ。依頼をした機関はどこのものだ。貴様が答えるのはこの二点についてのみ。よく考えろ、私はあまり気が長くない」
 感情を抑えた声だが、端々に殺しきれていない怒りがある。察した。彼が望む回答をしなかった場合、容赦なく、この身は滅ぼされるだろうと。想像した瞬間、キノスラの体を恐怖が支配した。何が神の住む星だ。こんなもの、軍事国家と変わりはない。
 そう、殺されると思った。神の目の前で、殺される。
 眉に痛み。椅子から転げ落ちた。思い切り、額を殴られたのだとわかった。怖くて、痛くて、冷たい。思わず、泣き出しそうになった。体が震える、声など出ない。
「――――殺してやる。誰一人、私のモノには触れさせない」
「お待ちください。アスワドがもう一人を知っているそうです。デルフィニア人です」
「……バテン・カイトスの?誰なの、それは」
「さあ。オクタウィア様に連絡をとってみないことには。ただオフェリア様の様子から言って、面識があるのかもしれません」
 声だけが聞こえた。そこで初めて、この額に銃口を押し付けている人物が女性なのだとわかった。二人はルーのことを話している。そしてルーは、オフェリアを知っていた。
「ルースィだ。名前は、ルースィ」
 思わず、口に出していた。協力をしなければ本当に殺される。知っていることがあれば何でも話さなければ。だから、言ってみた。それで後がどうなっても構わない。ただ、死にたくなかった。
「何ですって?」
「オフェリア様が名付けられた子だったような気がしますね。アデレード様、これは何らかの事情があるのでは」
 不意に視界が明るくなった。眩しい。そう思って強く目を閉じる。目隠しが外されたのだ。助かった。何故かわからないが、そう思った。
「キノスラ。貴方は、誰」
「アルフェラツの高校生だよ、ルーの友達で、アイツがオフェリア様に会いたいって言ったから、でも体調が悪くなって、オフェリア様に会えば何とかなんのかって思って、だから連れてきて、それで」
 一気に喋った。一刻も早く言わなければ、今度こそ殺されるような気がした。もういい、と声がかかって、キノスラは溢れ出る言葉を止めた。それから、ゆっくりと目を開いた。
 蒼い瞳。美しすぎる顔が目の前にあった。思わず、息を飲むような。呼吸が止まったような気がした。アデレード。見つめられ、気恥ずかしい思いを抱いた。オフェリアに似ている。しかし、芯の強さや可憐さを印象に受けて、決して気持ち悪くなどなかった。オフェリアも本当は、このような顔をしているはずだ。
「リエンツィやイザークとは関係がない?」
「名前くらいは知ってるけど、会ったこともない。ソフィアには知り合いが進学したくらいで」
「慌てないでいいわよ。そう、あの子に頼まれたから、来たのね。理由はそれだけね?」
 大きく首を縦に振る。まだ言葉に険しさは残っているが、先ほどよりはマシだった。怖がっているというのがわかったのか、アデレードは厚い唇を笑みに変えて、心を落ち着けてくれるような表情を見せてくれた。思わず、魅入る。顔を離したアデレードの全身像が視界に入って、心臓の鼓動が早くなった。
 顔は小さく、ポスターで見るよりややむっちりとしたボディラインは曲線美としか言いようがない。決して下品ではない。しかし、扇情的で妖艶だった。自然と顔が熱くなるのをキノスラは感じた。ネリーとは、あまりにも違いすぎる。桁も格も、全てがこの女性は限度を超えている。
 羨む、そして憧れる。故に欲して、求める。本能が、抱かれたいと思う。自分よりも小さな、しかし大きな胸に抱かれたいと思う。それは生物の記憶。母なる存在に抱かれていた記憶が、本能を生み出す。母胎へ還る。生命が抱く究極の帰巣本能を、この女性に感じてしまう。
 アデレード・フォーレ。それは、究極の女性。ずっと見ていたい、されど恥ずかしくて見られない、それでも見続けてしまう。隣にいる歌姫、アリア・ローゼンミュラーなど視界に入らなかった。
「でもまだ話はあるの。椅子に座りなさい。貴方はルースィの来たがった理由がわかるかしら?」
 いつの間にか、テーブルの上には茶が並べられ、着座を求められた。慌てて、座る。声さえ美しいアデレードから目線を逸らし、それでも欲望には勝てず、チラチラと眺めてしまう。顔を、胸を。目が追ってしまった。
「星が、見えなくなったんです。あ、ルースィは星に名前をつけたくて、天体観測が趣味だったんですが。とにかく星が見えなくなって、先生に訊ねたら遮蔽物があって隠れてしまっただけだろうってことになったんですけど」
 声が聞きたかったのかもしれない。言葉を、一度切った。それで、と。アデレードは声帯を震わせてくれた。きっと心の底から惚れてしまっている。ネリーに抱く感情とは全く違っている。これは憧れに似て、本能に近い。
「それで体調を悪くして、星のことはオフェリア様にしか伝えられないと」
「ふぅん。秘密基地が作られているとか、そういうことなのかもしれないわね。ソフィアが危ないとか。いえ、だったらルートヴィヒに言う必要は必ずしもあるわけじゃない」
「先生はサジタリウスのあたりだと言っていましたが」
 蒼い目が、眼光を増した。真っ直ぐにこちらを見る視線につられ、顔を上げてアデレードを見た。眉に険しさがある。強く、毅然とした顔だった。
「サジタリウスがアルフェラツから見えなくなった。その間に何かがあると言いたいのね。それ、世紀の発見だわ。もちろん理解出来るのは、私かルートヴィヒくらいでしょうケド」
「え?」
「現在のアルフェラツの位置は七年前のリューヴの位置に近いの。遮蔽物の位置を特定するヒントになったわ。リューヴ星系にブラックホールがあるはずよ。発生はおそらく九年前か八年前。もし見つけても、絶対に誰にも言ってはいけない」
 具体的な話をアデレードはした。それが何を意味するか、キノスラにはよくわからなかったが、アデレードの顔は少し嬉しそうにも見えた。
 遠い夏の日、見知らぬ星で。二人、出会った日。



 海が近いのか、波の音が聞こえていた。その日は、風が無かった。
 泊まらせてもらったキノスラは、庭に出てみた。上ではルーがまだ寝ていてやることがなかったのだ。居間にはアデレードとアリアがいて歓談をしている。
 ウッドデッキでアスワドに会った。彼の喉には切り裂いた傷痕のようなものがあり、喋れないのだとわかった。コミュニケーションをとろうと思い、声をかけてみる。耳は正常なのだ。言葉は通じる。オフェリアだけが見えなかったので、居場所を訊ねてみると、少し首を傾げてみせた。
 わからないということだろうと解釈し、会話が出来ないわけではなさそうだと思った。全くコミュニケーションがとれなければ一緒に生活するのは困難ではないか。やり方はあるものだ、と感心しながら草を踏む。
 広い庭だ。遠くには森が広がっていて、その向こうには何があるのか、少しだけ気になった。何故か聖堂に足は向かない。美しく荘厳な建築物だが、別段、思い入れは無かった。
 さく、さく、と。草を踏む音が妙に耳についた。自分の足音をうるさいと思ったのは初めてだ。少しだけ下を見る。草に雪が被ったように、少しだけ白い。色が抜けているとでも言うのか。顔を上げると、森の一部も白かった。
 白さが次第に増していく。ちょうど――――泉を中心にして白が広がっているのだ。まるで一部分にだけ雪が降ったように。ただ、昨日は初夏らしい緑に覆われていたような気もする。
「なあ、アスワドさん。どうしてあそこだけ白いんだ――――!」
 振り返り、ウッドデッキにいたアスワドに向かって叫んでみる。これだけ静かな世界なら、きっと家の中までも聞こえているに違いない。のそりと立ち上がったアスワドの頭が見えた。ああ、答えられないのか。先ほどは会話が成立したのですっかり忘れていた。
 泉。一本だけ生えた木。ブランコ。向かって歩いた。次第に、視界から色が無くなっていく。
 見えてきた。葉が散って、地面に落ちていた。泉の水が白く濁っている。昨日は透明で綺麗な水だったのが、これも白く、地面の泥のような灰色に。そして、見たのだ。にょきりと伸びている――――手を。
 手だ。手がある。一本は水面から出た手。一本は水面に横たわって――――胸に置かれている。キノスラは、自然と歩みを止める。泉の近くに立ち、それを見下ろした。
 首から下は完全に水の中。白い水の下にあって見ることが出来ない。持ち上げられた首は草地に頭を置き、長い金髪は水に濡れて美しく整えられている。その上に、落ちた木の葉がまるで冠のようにあった。顔は――――目を閉じ、少しだけ口を開いてあって、上を向いていた。
 一目でキノスラにはわかった。オフェリア。しかしその肌は、昨日見たものとはまるで違っている。土と同じ色をした肌は、灰色。一目でキノスラにはわかってしまった。

 その時、こう思った。生のない顔は、妹などよりもずっと、美しいと。

 美しい。本当に、そう思った。オフェリアの死体は、その顔は、死しかない表情。
 この世から解放された天使の顔。本当に、天から派遣された神だったのだ。この世界の混乱を鎮めるために、そして新たな時代へ導くために、天上から送られた英雄は、今、運命を果たして天へと帰っていってしまった。
 ここに遺されたのは、抜け殻。綺麗な、触れてはならないもの。キノスラは、近付けなかった。アデレードの美しさとはまるで違ったもの。男性も女性もない、善も悪も、何も無いからこそ、ただ、憧れて美しいと思った。理由はない。美しい。ただそれだけ。
 何かが崩れるような音がした。そこで初めて、この世界は色も、音も失っていたのだと気付いた。無色で、無音の世界。アスワドが崩れ落ちて、灰の地面に俯いた。奇妙な音がした。声帯を失ったアスワドの、最初で最後の鳴き声だった。呻くような、搾り出すような、そんな声だった。
「キノスラ、一緒に――――祈ってくれる?」
 それが誰の声だったのかはわからない。しばらく、立ち尽くしていて。隣にはアデレードが来ていた。時間が抜け落ちている。そして、その言葉で。キノスラは――――ルースィも海へ帰っていったのだと悟った。
「天国かあるのかどうかはわからない。だけど、いつまでもあそこから見ていてほしいから」
 アデレードは、オフェリアの前で胸を張ってみせた。大きな大きな胸を、大きな大きな不安で満たし。胸を張って顎を上げて、空を見ていた。
 強い人だ。キノスラは、涙を流さず胸を張ったアデレードにそんな感想を持った。女性としての美しさだけではなく、この人は心が、そして強い意志が美しいのだと。
 涙。目がうるんだ。思わず、キノスラは顔を上げた。雲のない空の景色は何も変わらない。見上げたまま、キノスラは涙を落とさないようにした。そして気付いた。アデレードも泣いているから――――ずっと空を見ているんだ、と。
 指で目を拭いて、隣を見る。大きな蒼い瞳に、いっぱいの涙をためて。それでも、笑って、笑顔で、アデレードはさようならと小声で言った。

 無色の世界が、消えてなくなる。空には、ただ、ただ、蒼だけが――――
 海のように広がる青空が、涙で輝いて見える。

 

 

[ op-era Back 33/Inner Intention Inheritance ]  [ Index ]  [ op-era Next 35/op-era Individual Is In ]