

ひとつの運命が、終わった。
日は暮れた。夜が来た。
それは新たな時代の幕開けを告げるもの。
黎明の前夜。
ここに、新たな旅が始まる。
1
身長はあまり伸びなかった。体重は、あまり他人と比べたくない。可愛らしいと言われることはあるが、それは自分を知らない者が投げかける言葉だった。
アマリア・“ヴァン”・レティツィア。二十五歳の早春である。二級貴族を示すミドルネームの授与と共に、禁錮の刑に恩赦が出た。両親は喜び勇んでいることだろうが、アマリアはあまり嬉しくなかった。家に戻ってすぐ、シャルンホルスト総統から出頭命令が出た。
両親は元気だった。家も傾いてはいない。二年間の禁固刑だったが、その間も政府は面倒を見てくれていたようだ。父の稼ぎだけでは、ここまでの暮らしは出来そうにないのだ。感謝はするが、媚を売るつもりはない。
軍事裁判により刑罰が下ったのは、四年前のノティオン戦が原因だった。機甲師団に属し、指揮専用艦に乗っていたアマリアが受けた命令は撤退だった。しかしノティオンには友軍が残されていて、ヴァルトラウトの命令を無視して降下し、救出作戦を実行した。
作戦は失敗した。ガヴォットが自決し、アマリアは近衛師団と共に捕虜となった。焦ったヴァルトラウトが降下しようとして、撃墜された。敗戦だった。それも、優秀な人材を何人も失った最悪の負け方だった。
ソフィア・ビュザンティオンの捕虜収容所に連れて行かれた。かつての主君に会えるかと期待したが、入れ違いになって会うことは叶わなかった。フルジアとソフィアで条約が結ばれて、外交官が派遣された。エーファ・ブリーゼマイスターである。彼女は捕虜の交換を申し出て、アマリアたちは本国に帰還した。
帰って来たアマリアを待っていたのは、独断で軍を動かし、しかも将兵を死なせた罪だった。すぐに裁判になった。ゼバスティアンは怒り心頭といった様子で、シャルンホルストは悲しそうな目を向けてくるだけだった。
重罪だった。しかし二年で釈放された。二年で、世界情勢が大きく変わったのかもしれない。そんなことを歩きながら考えた。
政庁の執務室。懐かしい気がした。入る。シャルンホルストがいる。やはり、懐かしい感じがする。
「久し振りだな、レティツィア」
彼も同じことを思ったのだろう、アマリアは頷きで返して着座した。
不在だった間の情報を仕入れる。戦線はレグルス。少し押し込まれたようだが、大差は無かった。最も変わったものが、フィルウィリミテア教の動向だった。
レアティーズ・カデンツァの失踪。そしてオフェリア・フォーレの隠棲。衝撃的な報告を受け、アマリアは少しだけ狼狽した。現在、フィルウィリミテア教はカイアファが神皇を継ぎ、ソフィア・ビュザンティオンはリゴレットが指揮を執っているようだ。
アンドロメダは明らかに変わっている。手強くなった。これに立ち向かうために、自分は呼ばれたのだとアマリアは思った。強敵に対抗するために、優れた軍人である自分を呼び戻す。シャルンホルストならやってのけるだろう。
「お前を、ソフィアに送る」
目の前の総帥は、何故かそんなことを口にした。
「意味がわかりません」
「お前は軍では使えん。もう軍属ではないのだ、不名誉除隊を受けているからな」
大尉ではなくなっていて、もう兵士でもなかった。軍が全て。そう思っていた。だからシャルンホルストの言い分は、全く理解が出来なかった。まさか政治家にでもなれと言うのだろうか。だとすれば、お笑いだ。
「では問うぞ。レティツィア、どうして降下した」
「友軍がいたからです。ガヴォット中佐を救出しようと」
「それは構わない。失敗したとしても、その勇敢さは軍にとって必要なものだ」
シャルンホルストの口調は、昔と随分変わっていた。言葉に威厳がある。総帥として、変わらざるを得ないのだろう。軍、政治、全てに責任を持っている。エーファがいない今、シャルンホルストが見るべき仕事は山のようにあるのだ。
しかし、どうしても好きになれそうにない。昔は良かった。二人でオフェリアの世話をした。アマリアは武で、ディリゲントは智謀で、役に立とうとしていた。あの頃は、親友のような情を抱いていた。今は間違いなく、主従に近い。立場が、彼を変えたのだ。
「お前は驕っているのだよ」
言われたくない、と思う。シャルンホルストこそ驕っているのではないか。それでも、反論はしなかった。立場。大きな壁が、今はある。
「自分の武勇に頼り、命令を無視して降下した。自分なら出来る、オフェリア様から教わった剣があれば助けられる。そう思ったのだな?」
「――――はい」
オフェリアの名を出され、つい神妙になった。彼の言葉は正しい。あの時は、そう思った。助けられると信じていた。自分を、信じていたのだ。
「それが驕慢だ。確かにお前は強いがね、レティツィア。その鼻は一度、叩き潰されるべきかな」
誰が勝てる。そう言おうとした。フルジアでは誰にも負けない。ガリアルドにも、ヴェルブングにもだ。この武勇だけが、自分の誇りであり、全てだった。負けるものか。誰にも傷つけることの出来ない誇りだ。オフェリアと作り上げたものを、汚させるわけにはいかない。
もしこれがシャルンホルストでも、きっとそう思う。政策や智謀を傷つけられれば、怒るだろう。他人に決して汚されてはならないもの。アマリアにとっては強さであり、シャルンホルストにとっては智慧なのだ。
「では命じるぞ。パトリツィア・ミュゼット法務官と共にソフィア・ビュザンティオンのフルジア大使館へ出向せよ」
護衛ということなのかもしれない。現在、特命全権大使はエーファが命じられているが、健康が優れていない。病と言われていた。本国に戻りたいと願っているようで、ミュゼットが交代するようだ。アマリアは、その護衛という役割だろう。
あるいは、諜報活動をしろということなのかもしれない。しかし深読みすることは止めた。心だけは、軍人でいたいのだ。命ぜられたことだけを、確実に、遂行する。
「行け、アマリア。――――殿に会って来い」
陛下ではなく、殿、と言った。
何を意味する言葉なのか。すぐにアマリアにはわかった。
厳しくも優しい、というのがシャルンホルストに対する国民の評価だった。
全く同意見である。全てに対して公平なのかもしれない。平等。シャルンホルストの政策には一貫して平等であるという背骨がある。増税をするならば、国民だけではなく政府にも課す。フルジアの軍事と政事を司る男が、未だに安いマンションで一人暮らしをしているのだ。
清貧を重んじ、睡眠と休息を削ってまで国家に尽力する男。彼がいなければフルジアという国は運営していくことが出来ない。それは彼自身が一番理解しているのだろう。だから我々、兵隊は命じられるがままに動けばいいのだ。
飛行場には小型の旅客機が用意されていた。一切、武装を持たない航宙艦だ。機甲師団の士官が数名、操縦のために乗船する。それ以外は全て政府関係者だった。飛行場でパトリツィア・ミュゼットと落ち合う。操縦士よりも多くの職員を連れていた。
「やっと出て来たのね、レティツィア。しっかり護衛なさい。貴女なら安心だわ」
肩を叩かれ、激励の言葉を賜る。頭を下げて見送り、後ろに続いて乗船した。国防省と法務省から集めた人間のようだ。軍人らしい軍人は、アマリアしかいなかった。余計な刺激を対象国に与えたくないのだろう。
あまり広くはない旅客機で、高速型だった。一ヶ月強の船旅だ。通常の軍船なら、二倍から三倍の時間がかかる。部屋は少なく全体的に狭いが、所要日数を考えると小型旅客機を選んだのは正解だろう。
情報が欲しくなり、アマリアはミュゼットの部屋を訪れた。
「エーファ様の容態は芳しくないのですか?」
「そのようですわね。元々、彼女は体が病弱なのよ」
ここ数年は、まさに寝食を忘れる働きだったことだろう。アマリアが本国に戻ることは少なかったが、それでも戻った時は痩せ細った体で迎えて、笑ってくれた。軍のことは何もわからないと言う人だったが、一握りの麦や米がどれほど大切なものかを一番理解していた。
軍にとっては、母なる人だ。彼女のおかげで、補給を気にせず、後ろを振り返らず、前に進むことが出来た。何をしているのか、アマリアには理解することが出来なかったが、それでも感謝の念だけは忘れたことが無い。
「この国は戦争にまっしぐら。そして軍ばかりが大きな顔をしている。文官は、あまり報われたものではないのよ」
軍を重視する。政治家よりも、軍人が意見を述べる。実際に軍人を押さえて、政治を進められる文人はシャルンホルストくらいしかいなかった。質も量も、軍部が優先されている。シャルンホルストに限らず、このミュゼットの苦労も相当なものだろうと簡単に推測することが出来た。
背負っている重荷。それは、我々軍人とは比較にならないはずだ。
「粗鉄生産量、航宙燃料などの生産量は全世界の何割を占めると思う?フルジアが締める割合はたった0.3パーセントに過ぎないのよ。そのくせ、軍需品の生産効率は群を抜いて高い。アンドロメダが三日かけて作る銃砲を、フルジアでは一日で仕上げることが出来る。物資の欠乏が加速する理由はそこにある」
「そこまで酷いのですか?」
「不足するものはどうやっても足りない。すると、購うしかないわね。ティールとの密貿易を中心に資金を垂れ流す。その資金は臣民から出ているものですから、今度は国内で金銭の流通量が減少する。金銭価値があがり、物価は急落。商品価値が下がり、利益が減り、経営は破綻し失業者が増える。国内経済の破綻を招けば、国家が物資を輸入することも難しくなる」
絶望的な言葉しかミュゼットは口にしなかった。それが、フルジアの現状。偉大なる皇帝二人が築き上げたものを使い果たした末期。やがて、必ず来る未来だ。防げるのはミュゼットやシャルンホルストのような優秀な政治家しかいない。
「物資の無い国家というのは得てして悲惨なものよ。先々帝の治世ではこちらも技術を輸出して利益を得た。先帝の治世では計画的に経済を立ち上げ、一年目は公益事業、二年目は市場経済の完全統制による活性化を推し進め、技術力を高めて資源の倹約を成功させた。今度の女王も何かしなければ、亡国の悲劇ね」
やはり、偉大だったのだ。オフェリア様。牢獄にいる時も、常に思っていた。欲している。あの人物を、心から欲している。いつも、いつでも、思っている。
会いたい。願わくば、帰ってきてほしい。オフェリアと、自分と、シャルンホルストがいればフルジアは安泰なのだ。アマリアはそう思ったが、そう思わせないためにオフェリアは去っていった。国民に禁忌を植え付けた。つまり、新帝ゲオルギーネに対する不信感、先帝が良かったと思うことのタブーである。
だから、ミュゼットもそれ以上は言わなかった。
2
アルゴナウティカ。空に浮かぶ巨大な船。管制塔から通信が入り、誘導を受ける。右舷Bデッキへの進入を許可され、大きく口を開ける右舷カタパルトへ旅客機を進めていく。
大きい。思わず、見上げるようにしてカタパルトの内部を進む。操縦士たちも同じように、周囲を眺めていた。広々としたカタパルト・デッキ。さらに通信が入る。進入するハンガーの番号を伝えられ、機はやや右斜め前方を向いた。大型艦が一隻収容してもなお余るスペースが確保されているドックが横に広がり、さらに何十段も見えた。この旅客機など、米粒のような大きさに過ぎない。
B42番ハンガーに船を収容する。ロックされたのを確認し、ハッチを開く。アマリアがミュゼットの後ろから船外に出ると、女性士官が数名、待っていた。紺色のジャケットにスカート。胸にあるリボンが可愛らしいデザインの制服だった。
「パトリツィア・ミュゼット大使ですね。大使館へご案内します」
「ええ、お願い。レティツィア、貴女はどうするのかしら?」
「お供いたします。構わないだろう?」
女性士官は軍人という感じはしなかった。外務省の人間なのだろうか。頷いて答えたので、アマリアは後ろの職員を連れて歩き出した。リフトのようなものに乗せられる。ふ、と体が浮いたような気がして、次には光が美しい場所に出た。青色の照明などが目に鮮やかで、明るいロビーだった。
そういえば、アルゴナウティカに乗艦するにはIDがいるのだと思い出す。ミュゼットがチェックを受け、IDを支給されている間にアマリアは自分のものを取り出して見せた。一度だけ、入ったことがある。受付嬢は微笑んで迎えて、覚えているのだろうか、名前を呼んで中に招き入れてくれた。
エレベーターには乗らず、そのまま建物から出た。アヤソフィアではない。右舷用に作られたロビーなのだろう。建物を出てすぐのところ、東区に大使館はあった。女性士官が手で場所を示し、しかし中に入ろうとはしなかった。
立派な建物だった。中に入ると、エーファがいた。彼女はアマリアの顔を見て喜び、飛びつくように手を握り締めた。痩せている。はっきりとわかった。あまり食べていないのだろう。痛々しいほどはっきりと、彼女の病を知る。
「ミュゼットさん、アマリアちゃんを借りてもいい?」
「ええ、構いません。ソフィア政府に挨拶に行かれるのでしょう?」
表に車を回し、すぐに大使館から出た。これで自分の役割は終わったのが、まだ護衛としてソフィアに赴任するのだろうか、とアマリアは自分の立場がよくわからなくなった。
車は空に浮き、空道を通って街の中心部に向かっているようだった。
「凄い都市ですね。装飾のある建築物もあれば、超近代的な建物も」
「ちょっとフルジアに似てるよね。ほら、あの時計塔とか」
どうしてか、健康のことについて訊ねることが出来なかった。聞いてはならない。そんな気がした。だから街並みを眺めながら、他愛も無い話をした。
「あれ、捕虜になってた時に見なかったの?」
「上からは眺めましたが。基本的にはルフト界面ホテルにいたので」
「へえ、何してたの?」
「何も。労働もありませんでした。ホテルは最高級でとても居心地は良かったですよ。ご飯を食べ、昼寝して、日記書いてました」
「贅沢だねえ。あのホテル、実は凄い高いんだよ。デケネイアの保養地並み」
リゾートホテルと同じだと言われる。確かに、部屋の調度などは似通っていた。フルジアにある財団のシューベルティアーデが出資して作り、運営しているホテルなのだそうだ。さすがに批判もあったそうだが、ソフィア政府が一蹴していた。
現在は普通の高級ホテルとして稼動しているらしい。高い人気を誇り、観光客がよく来るらしい。
「ソフィア軍にはフルジア兵も多いそうですが」
「軍じゃないよ。実戦をこなせる部隊は一千ちょっとだってさ。軍属は兵務局職員とか呼ばれていて、ハンガーの管理とかやってるらしいよ」
「あくまでも、中立。そういうことですか」
調停役の姿勢をとり続けている。アンドロメダ軍が駐留することもあるが、ソフィア市に軍隊と呼べるものは無い。あっても一千という規模で、自衛の軍でしかなかった。カティアがいた頃のシリウスに似ている。だが違うのは、政治的立場を確立しているということだ。政教条約で中立が保たれている。
仮にフルジア軍が攻め込み、駐留したとしても問題はない。位置的にアンドロメダにあるというだけで、アンドロメダに属している国ではないのだ。まさしく、宗教の在り方と同じだった。
「アヤソフィアの一階につけて。イザークさん呼ぶから」
エーファが指示を出し、車が停車した。アヤソフィア。黒いオベリスクの前である。入り口付近は人が多く、待ち合わせなどにも利用されているようだ。中に入っても、やはり人は多かった。行政窓口となっているためだろう。
受付で話を通すと、入り口の方向から声をかけられた。振り返ると、ティア・ヴァーグネルが数名の人間と共に立っていた。紺色の制服には少佐を示す徽章がある。
「危ないから出歩く時は声をかけてくださいと言っているでしょう、大使。反フルジア感情を逆撫でするような真似を」
「大丈夫だよティアくん。アマリアちゃんがいるもの」
困ったような表情をするティアと目が合う。おお、と口が開いた。
「久し振り、アマリア。本国に戻ったと聞いたが?」
「護衛の任務でこちらに派遣されました」
「いい時期に来たもんだな。フィアさんが結婚するって噂だ。相手はカルディアだっていうんだから、リューヴのゴシップ記事も侮れ無いよな」
ティアとは旧知の仲だ。フィアの結婚という信じられない話を聞き、目を丸くしていると、噂という部分を強調された。リューヴのゴシップ記事で報じられただけで、公式発表があったわけではないそうだ。
用件を伝えると、彼は案内をしてくれた。エレベーターに乗り、上階へ。応接間のような部屋に通され、少し待つと、リゴレット・リエンツィが顔を見せた。大柄な体は相変わらずだ。部屋に入り、対面のソファに声をあげて座った。
ソフィア市の最高責任者を呼び出し、彼が来た。やはりもう、オフェリアはいないのだろう。少しだけ失望する。リゴレットはそんなアマリアの表情を読み取り、代理だと伝えた。ソフィア・ビュザンティオンの責任者で国家元首はプロシア公爵である、と。
プロシア公爵は隠棲をした。故に、リエンツィ伯爵が代理で統治しているという形をとっているのだ。オフェリアは神皇位継承権がある王爵を保持し、アデレードは聖侯爵の爵位が与えられていた。どちらも世襲ではなく、次代には公爵に格下げされるだろう。栄典を受けるほどの功績を残したのは、彼らなのだから。
「カイアファ様は?」
「バテン・カイトスで子作りに励んでる。一応は神皇を名乗っているが、戻ってくるつもりはなさそうだな。そのうち退位して、継承権保持者に譲ると思うぜ」
神皇位継承権を持つのは第一位が長男のケナズ。第二位が兄弟のイサク。第三位がオフェリアだ。イサクは性別を偽っているだけなので、実質的にはオフェリアが神皇になる可能性が高い。しかし、彼はその栄誉を受けないような気がしていた。
「さて、今日はお別れに来ました、伯爵。本国に帰るんですよ」
「聞いている。代わりはミュゼット法務官だとか。シャルンホルストはこの同盟が長引くものではないと思っているな」
「ええ、同感です」
アンドロメダ勢は組織の改革に成功し、意気盛んである。いざ出陣と意気込む彼らは外交交渉に臨むことは無いだろう。ソフィア駐在大使に出来ることといえば、せいぜい捕虜の交換や人道的立場からの物資援助を望む程度でしかない。
「このまま朽ち果てていく国であれば、とっくの昔にフルジアは滅びてます。眠れる獅子を揺り起こしてしまったと考えてみればよろしい」
「いくらアンドロメダが変わったからと言って、そこまで楽観はしてねえよ。状況を逆転するには一押し足りん。その一押しをさせないのが、シャルンホルストという男さ。アンドロメダにとっては巨大な壁になる気がするな」
「よくわかってるじゃないですか。まあ、せいぜいミュゼットと仲良くしてやってください」
今まで無名だった男。ヴォルフガング・シャルンホルストが脅威になる。彼こそ唯一、オフェリアの期待に応えた男なのだから。
ハンガーで帰路につく旅客機を見送った後、アマリアは探検を始めることにした。
大使館に詰めている必要はないのだ。条約で大使の権利と保護が確約されている。ふらふらと歩きながらBデッキを散策してみる。軍用の施設なのか、武器庫や兵舎などが多かった。
アマリアが持っていた@IDアクセス・コントロールはBデッキを許可していたが、内部施設に立ち寄ることは出来なかった。さすがにアンドロメダ軍も駐留している可能性がある場所に入ることは難しい。散策はそのまま外殻通路の方へ向かって歩くことになった。
通路をかなり歩くと、Aデッキに出る。医療部や防疫部、PXやら購買部が割拠しており賑わいがあった。ふと、空腹であることに気付く。時間はすでに昼。敵情視察だ、と意気込んでアマリアは食堂に飛び込んでみた。フルジア禁衛府の食堂ほどではないが、広々としていて数百人が利用出来そうな施設だった。
利用者はほとんどが制服を着用していた。ハンガーで上陸時に見た士官の制服だ。アヤソフィアの職員と違って、兵務局の所属が多いのだろう。つまり軍属であるということだ。外殻部は飛行制御を行う管轄であって、財務やら司法はあまり関係がない。
レティツィア、と声をかけられた。声の方向を見ると、巡回の途中らしいイザークが立っていた。数名の部下を従えている。彼女は部下を任務に戻らせ、昼食を共にどうだ、と訊ねてきた。
断る理由はない。頷いて、見よう見まねで食事を注文してテーブルにつくことにした。
「オフェリアならここにいないぞ。訊ねてきたのではなかったのか?」
麺をつるつるとすすりながら、イザークはストレートに求めている情報を口にしてくれた。オフェリアはルテティア・パリシオールムにいる。会いに行けるのだろうか。可能であれば、今すぐにでも飛んでいきたい。久し振りに、心が騒いでいた。
「会えるのですか、オフェリア様にっ!」
「そう興奮するな。少し、難しい。現在ルテティアは一般開放がされているものの、フォーレ家邸宅や周辺自然区域、大聖堂の一部も保護の観点から一般人が入ることは出来無い」
以前と変わって、今はルテティアに一般人が行けるのだそうだ。実際に神官に会って、願い事をすることも可能らしい。さすがに結婚式を挙げる者はいないが、観光ツアーなども組まれている。そこそこの収入になっているそうで、完全にリューヴ政府の庇護下にあることをオフェリアは嫌ったのだろう。
「アデーレと会うことくらいは出来るだろうが、オフェリアとなるとな。まず彼女の許可が要る」
「意味がよくわかりません」
「面会には家族の許可が必要だということだ。今では、家族と呼べる者は妹一人だからな」
「では許可をとるまでです」
「それが困難なのだ。私やリゴレットも何度か面会を求めたが、アデーレに突っぱねられた。カティアも、門前払いだった。過保護になりすぎているというか、何かを隠しているようにも思える」
ここのところ、アデレードの面会拒否は露骨なものになっていた。中でも最も酷かったのが、カティア・フレーニに対するものだ。妻である。会う権利はあるはずだ。しかしアデレードは、公衆の面前で思い切り罵声を浴びせ、蹴散らすようにして追い返したという。
聖女が口汚く兄嫁を罵った。そんな一件から、ソフィア陣営からルテティアに干渉するものは減っていった。アデレードを批難することも出来ない。彼女は実の妹であり、唯一の肉親だ。
「絶対不可能ということではないが。アスワドが、今はオフェリアと共にいる」
「護衛役ですか?」
「そうだ。彼はアデーレに拒絶された後、その場で自分の声帯を引き千切った。見たことを口外せず、という誓いを体で表した」
そこまでしなければ、会えないのだ。命を賭して。当然だ。そんな覚悟は、出会った時からしている。オフェリアに一目でも会えるのなら、この命、惜しくはない。身命を賭してでも会いに行く価値が、あの人にはあるのだ。アスワドはそう思ったに違いない。
命を捧げるに値する人間。会えるのなら、喜んでアデレードに殺されよう。そんなアマリアの覚悟が伝わったのか、イザークは小さくため息をつき、ふっと笑った。
「伝えるだけ伝えてみよう。なに、アデーレとて鬼ではない。わざわざフルジアから来た者を追い返す真似はすまい」
黙って頭を下げた。ひょっとすると、イザークとアデレードは友人なのかもしれない。だから彼女の気持ちがわかって、やがて気軽に会えるようになると思っているのだろう。
この胸の高鳴りを、押さえられない。オフェリアに、会えるかもしれないのだ。
3
大使館にはメッセージだけを伝えた。何の返答もないところを見ると、シャルンホルストは最初からそのつもりだったのだろう。
ソフィア・ビュザンティオンからルテティア・パリシオールム行きの旅客機に乗る。手配はイザークがしてくれた。ここはアンドロメダ領で、フルジア人が暢気に旅を出来る場所ではなかった。イザークの手を借りなければ、船に乗るのも難しかった。
高速船は出発してから一週間。自室にて窓の外を眺める。リューヴ。敵の本拠地。あそこに乗り込んで、一刀の下に大統領を消すことも出来る。しかし、何の意味もないことだった。大統領には代わりが出来る。戦争が終わるというわけではない。
代わりがきかないものもある。それが、オフェリア。
思うと、心が鮮やかに色づいた。懐かしい記憶が蘇るたび、胸がときめいた。笑顔になれた。ずっと欲していた。ずっと再会を願っていた。優しい笑顔で話しかけられたい。頭を撫でてほしい。そして剣の勝負をして、強くなったと褒めてもらいたい。
主君とはまさにそういう存在のことを言うのだ。身命を捧げてもいい相手。自分にとって全てと言える存在。代わりなど生まれようがない、絶対なるもの。
艦内アナウンスが流れた。間もなく到着である。アマリアは小さな荷物一つだけを肩に提げ、ロビーへ向かった。到着を待つ人々が集っており、空いているベンチに座った。
「お嬢さん、観光かい?」
ふと、隣から声がかけられる。中年男性、見たところリューヴ系ニューレイス・ヒューマンだ。咄嗟に腕を組んで手を隠した。反応を示してしまった以上、無視も出来ない。軽く頷いて問いに答えた。
「ある人に会いに」
「そうか。実は私もなんだよ」
まじまじと相手の顔を見る。見覚えはない。
「戦争で死んでしまった息子に会いに、さ。カデンツァが手当たり次第にリューヴ系二世、三世を徴兵していっただろう?」
「ああ、ルテティア軍リューヴ義勇兵のことですね」
「私はたまたまレグルスに住んでいてね。フルジアだな。おかげで難を逃れた。フルジア軍も、噂のように荒っぽくはなかったし」
元々、レグルス星はマジェラニックに存在する移民国家だ。人口過多になった地球人や現住リューヴ人が移住して組織されていた。フルジア軍による占領からすでに何十年と経過し、帝国に編入されている。完全に交通が無いわけではなく、正当な理由がある者は軍部の許可を得てアンドロメダから訪れることは出来た。
遺骨の収容など止むを得ない事情であれば滞在は許可される。彼はそうやってレグルスに滞在していたのだろう。しかし悲劇は不在のアンドロメダで起きた。
「祈れば息子は幸せになるかと思って。それで、来たんだ」
「宗教は生ける者に心の安らぎをもたらすものでしょう。祈ることで救われるのは、貴方でしかありません」
だから、自分は祈らない。本当に救いたいのは自分ではないからだ。祈ることで他人が救われるのならば、いくらでも祈ろう。しかし、祈りで他人を救えるのは、神だけだ。
「良い言葉だ。けれど、少し厳しい。そう言い切るお嬢さんは強い人なのだろうね」
「どこかで、そう教わっただけよ」
視線を上げる。船が、着陸をした。アナウンスが再び流れ、ハッチが開く。ロビーに自然光が射し込み、楽園が口を開ける。立ち上がって、列に並ぶ。ぞろぞろとタラップを降りて地上へ。すぐ隣には先ほどの男性がいた。
腕を組んだまま歩いた。飛行場の売店に立ち寄る者、ツアーを始める者。様々に団体が組まれ、そして分かれていく。アマリアは真っ直ぐに大聖堂へ続く街道を歩き、隣の男性は時折、思い出したように話しかけてきた。
あまり聞こえなかった。心が、求めている。会える。そう思うと、気持ちは昂り、周囲の声など届かなくなっていた。
美しい。形容詞はそれしか浮かばない。外観。そして内装もだ。階段を上り、扉を開いてエントランスに入った。ベルベットの絨毯。階段。吹き抜け。広い空間には、どこからか聖歌が聞こえてきていた。
周囲の人間が息を飲むのもわかった。ユミルのシスターたちが数名、ロビーで業務をこなしていた。大聖堂の案内役のようなものだ。列を成して写真を撮っているものもいた。ユミルたちによるツアーもあるようで、受付のような場所にはかなりの人間が押し寄せていた。
そんな彼らが、一斉にこちらを向いた。おお、とどよめきが上がる。聖歌の中、空からやって来る天女。欄干に手を置き、見下ろしている。絶世の美女とはこのことか。同性ながら、アマリアはしばし、二階からこちらを見ている女性に見惚れた。
白い上着が目に鮮やかだ。オリヴィア。一瞬、そんな名前が浮かんだ。
「――――来なさい、アマリア。あまり人目を集めたくないのです」
体が硬直した。あの女性に声をかけられただけで、何故か、光栄と思ってしまって緊張する。威圧感、圧倒的なまでのカリスマ性とでも言うのか。言葉を聞くだけで体が震えた経験など、オフェリアのことしか思い出せなかった。
アデレード・フォーレ。口元には微笑がある。しかし、似ても似つかない。優しい癒しの笑みではない。どこか皮肉めいた、諦念の混じった笑みに見える。
衆目を浴びながら、階段を上ってアデレードに近付いた。一瞥をくれただけで歩き出してしまう。背中を追って、次の扉を開く。長い廊下だ。進み、階段を下り、礼拝堂の横から外に出た。ちょうど、大聖堂の裏側に当たる。
「よく来てくれたわね。本当ならすぐにでもあの子に会わせたいのだけれど、先に注意を伝えます」
悪い印象は全く無かった。清楚で、美しい天女のような神々しい人。微笑も近くで見てみると、今にも壊れそうな切なく儚い笑みにしか見えなかった。イザークの言葉から連想されるアデレードは、もっと攻撃的なイメージがあった。
面識も、少しの会話程度にはあった。六年前と比べ、体つきや表情などがより女性らしくなった。細い腰、しっかりした臀部、そして豊満な胸部。卑猥さと母性は紙一重だとアマリアは思った。男性の劣情を煽るような肉体は、生命の証そのものなのかもしれない。
率直にイメージと違うと伝えると、彼女は口に手を当てて笑った。仕草が、よく似ている。右手と左手の違いくらいしかない。双子なのだ。似ているのも、鏡面なのも当然だった。
「ルートヴィヒは病気なの。ソフィアでもティアくらいしか知らない情報よ。あまり知られたくないから、隠すために人を排除しているわけ」
「病とは、陛下はご無事なのですか?」
「ええ、とても。でも余計な心配はルーにもセリアたちにかけたくないの。今、忙しいだろうから」
聖女は挑発的なまでに前へ突き出た胸に手を当て、少し頷いて見せた。注意とは、口外をするなということ。そして、余計なことを言うな。理解して、アマリアも頷きを返す。
「その点、貴女なら問題ないでしょう。本国が許すなら、いつまでもここにいて構わないからね」
「ありがとうございます。今すぐにでもお会いしたいのですが」
「焦らないの。じゃあ、行きましょ」
同じ女性だというのに、くらくらするような色気を感じる。聖女。神聖にして不可侵の存在。神と等しい人。しかし、アデレードは魔性とも呼ぶべき魅惑の持ち主でもあるのか。神性と魔性。その二つが彼女の中で融合し、とてつもない美貌となって人々を魅了している。
歩く姿を見るだけで、目に焼きつく。完璧でいて、完全を超越した女性体。オフェリアとは正反対の存在。オフェリアが男性と女性を兼ね備えた神秘であるならば、アデレードは極限まで女性を高めた母性である。
歩くと、視界に白い家が見えた。森の中にあるちょっとした広場に作られた家は幻想的で、一目でフォーレ邸宅なのだとわかった。先導するアデレードのふくよかな尻に見惚れながら、ついていく。
花壇。美しい。全てが美しい。目に見えるもの、触れるもの、全てが綺麗だった。
大声でアデレードがオフェリアを呼んだ。何か作業をしていたのか、巨躯の男と小柄な人物が斧を持って出てくる。涙腺が緩むのを、アマリアは感じた。
「やあ、アマリア――――!」
手を振っている。近付く。もどかしい。走った。オフェリアはむき出しの上半身に、斧を担いで手を振っている。笑顔。会いたかった。本当に、会いたかったのだ。こうして会えるだけで、心が救われるような気がした。
鍛え上げられた上腕は細いが、密度の高い筋肉で覆われている。痩せた体は肋骨が浮かび、その中に薄らと割れた腹筋がある。そして小ぶりながら形のいい乳房。女性のような顔に、優しい男性の目。女性の美しさと、男性の逞しさを融合させた神のみに許された美貌。
何もかもが美しく。ここは神の住まう楽園なのだ。しかし、どこか、歪であった。
「ほら、アマリア。もうわかったから離れて、涙拭いて、鼻かんで」
抱きついていた体を離す。笑顔。自然と、アマリアも笑顔になった。後ろからアデレードがやって来て、家に入ろうと持ちかけた。
玄関。通り抜けて、居間へ。広い窓の外に庭が広がり、ウッドデッキなどが作られていた。自然に融和した神の楽園。ここの生活は、技術的に優れているものではなさそうだったが、恵まれているとアマリアは思った。豊かなのである。自然が、そして心が。
何となく、帰還を夢見たオフェリアの気持ちが理解出来る。疲れ果て、心も引き裂かれた時、こんな素敵な帰る家があれば望むのも当然なのだ。
「ん、リル。偉いね」
テーブルの横に、腰くらいまでしか背丈のない生物がやって来ていた。エンケラドゥス種に似ている。彼女は小さな指の無い掌でお盆を運び、一声かけてお茶を持って来たようだ。オフェリアが褒めて、嬉しそうに猫なで声をあげる。愛くるしい生物だった。
家には双子姉妹と従者のアスワド、そしてこのペットのリルだけが住んでいる。四人で座ってお茶を飲みつつ、アマリアは感傷に浸っていた。しかし夢は醒めるものだ。本題を切り出そう、と決心する。
「オフェリア様、再び師事させてほしいのです。私にまた、剣をお教えしていただけませんか?」
「ん、どうして。少なくともフルジアじゃヴェルくらいにはなれたんじゃない?」
「強くならなければ、戦争には勝てません。ガヴォット中佐を死なせることもありませんでした」
オフェリアに会いたかったという理由は山のようにある。その中でも大きな比重を占めるのが、再び修行を積むことだった。武芸をさらに研鑽し、誰も辿り着けない境地に達する。最強の二文字だけを追い求め、手に入った時こそ勝利の時だ。
フルジアではこれ以上強くならない。自分が一番強いのである。ならば鼻をへし折れる人、つまり師であるオフェリアの下で特訓を受け、奥義を修得したい。
「十万を相手にレオンを救出するのは不可能だよ。私ではね。ただ、サーシャなら出来る」
「どういう意味ですか?」
「刀より銃、銃より大砲と対複数戦の武器には相性、得意不得意があるから。サーシャはきっとお前に負けるだろう。けれど、百万を数秒で殲滅することは出来る。お前はどちらを求めるのかな?」
百万を殺せる力など、不要だ。誰にでも勝てる。それこそが最強という意味ではないか。
「ノティオンでお前は数万の兵士を救った。お前の武勇だから出来たことだね。でもそれ以上の数を、エヴィは本国へ帰した。交渉という武器でだよ」
「何を言いたいのか、私にはわかりかねます」
求めるは、力。交渉術でも砲術でもない。力だ。何者にも負けない力があれば、勝てないことなどありえない。勝利を積み重ねれば、やがてフルジアは戦勝の栄誉が降り注ぐことになる。
だから、本当にオフェリアが何を言っているのか、アマリアには理解出来なかった。
「現に、オフェリア様は剣でレアティーズを排除し、勝利を得て今を築いているのではありませんか」
「それは仕上げに過ぎない。仮にお前がゲオルギーネを殺してフルジア女王になるには、政治的な圧力やジーナを受けざるを得ない立場に立たせることが必要だ。あの戦いは仕上げだよ。それに、あれは負けだ」
言っていることはよくわからないが、こうして話せることが至福の時だった。美味しい茶を飲みながら、ゆったりと流れる時間に身を任せ、目の前には望み求めた人物がいる。それだけで満足だ。
「この子、とても頭がカタいのね。ルートヴィヒ、しっかり面倒見てやりなさい」
「そうだな――――どうやら私にはまだやるべきことがあるみたい」
自分のことを語られている。嫌な気分にはならなかった。喜びが、全身を貫いて、震えていた。
4
全身に黒い入墨を施した寡黙な男。アマリアがアスワドに抱いた印象はそんなものだった。無口ではなく、喋ることが出来ない。声帯が無いのだ。
だが不思議なもので、オフェリアはアスワドの意思を読み取れるらしい。オリヴィアと同じようなものなのだろう。喋ることが出来なくとも、意思の疎通は出来る。二人の主従を見ていると、痛いほどわかった。
そのアスワドと、木の棒を持って対峙した。
広い庭で向かい合う。ウッドデッキでは並んで座った双子姉妹がこちらを眺めている。一礼し、アマリアは棒を構えた。今こそ、鍛えた武技の腕を師匠に見せる時。そう考えただけで、体中に気力が満ちてくる。
打ち掛かる。防ぐアスワドの棒には、力が感じられる。見た目に違わず、膂力のある体だ。豪腕から放たれる棒を回避し、二撃目を打ち込んだ。力で押し負けるのなら、手数で勝負をする。回転数を上げ、攻撃に移ろうとするアスワドを三、四撃と連ねて打つ。
息が上がり始める。構わない。防御を上回る手数を出せ。脈打つ心臓に命じ、さらに加速した。アスワドはほとんど同時に放たれた二連撃を防ぎ、しかし三撃目で腹を打ち込まれていた。防御を破る。均衡が崩れる。
後は流れに任せ、勢いのまま打つ。側頭、肩、足を打ち、棒を跳ね上げ、徒手となったアスワドの眉間に棒を突きつけて、止めた。
「凄いものね。アスワドに武芸で勝るなんて、人の域とは思えないわ」
「自慢の弟子というところかな。リゴレットともいい勝負をするよきっと」
膝をついたアスワドを見下ろし、二人の会話を耳にした。棒を突きつけられたアスワドは、無表情でアマリアを見上げている。声がかかった。アスワド、と名を呼ばれ、彼は棒を掴んでみせた。
そのまま、宙を浮いた。気付いた時には遅かった。片手で掴んだ棒をアスワドは力任せに振り上げ、アマリアを投げ飛ばしたのだ。背中から芝に叩きつけられ、小さく呻く。棒は手から離れており、アスワドの方を見ると、ちょうど二つに折られている瞬間だった。
跳ね起き、飛び掛ろうとして止められた。体が突進しようとした寸前で、オフェリアが前に立ちふさがっていた。
「棒では勝ったが、体術では負けだ」
「剣であれば白刃を掴むことは出来ません」
「どうかな。アスワドなら掴んでしまうかもしれないよ」
棒で勝ったことを、褒めてはくれなかった。心のどこかで褒められ、頭を撫でられることを期待していたのかもしれない。だから、すんなりと負けを認めることが出来ずにいた。
何度か反論をすると、オフェリアは苦笑して棒を拾った。長いものをアマリアに渡し、オフェリアは折れた短い棒を手にしていた。もしや、稽古をつけてくれるのかもしれない。喜びが再び、アマリアの中で広がっていった。
「どこからでも」
折れた棒の中心を手に、オフェリアが笑いかけてくる。先ほどより深く、礼をしてからアマリアは踏み込んだ。力。短い棒では支えられないであろう力で打つ。速さ。長い棒では回転数に劣るため、意識して素早い攻撃を重ねる。技。回すように棒の全体を使って攻撃を繰り出す。
全力。オフェリアに打ち込む時、アマリアはいつも以上の力を発揮することが出来た。限界を突破したような感覚に、脳内が興奮を覚える。この感覚を味わいたくて、強い者と勝負をしたいと思うようになった。今のところ、オフェリア以外で高揚を覚えるような相手はいなかった。
力強く、素早く、なおかつ上手い。繰り出されるアマリアの強烈な連撃を、オフェリアは短い棒を回転させるようにして防いでいた。くるくると棒が回る。一種、美しいとも思える武技。顔の前で、胸の前で棒を回し、全ての攻撃を弾かれる。
横に横に回る棒。それが、急に止まり、縦に変わった。違う。直線。円を描く動きから、一直線にアマリアを打つ動きだ。目が点のような棒を捉えることが出来ず、打ちに行った体に深々と棒が入った。鳩尾に打ち込まれ、瞬間、呼吸が止まった。
膝をつく。体力は確かに衰えている。力強さも、昔と比べると無くなっていた。それでも、一瞬の攻防に関してオフェリアは最強である。瞬時に動いた。その動きを、捉えられなかった。受け流す動きが一瞬にして反撃に変わり、力のある打撃が放たれた。
アスワドが拍手をしていた。オフェリアが抱き起こしてくれる。体が密着し、少しだけ心臓の鼓動が早くになった。
「腕を上げた。強くなったな、アマリア」
髪を撫でられる。胸が、ほんわかと温かくなる。嬉しさ。全身に満ちて、頬が緩んだ。
「はあ、どうしてウチには武芸バカばかり集るのかしらね。不毛なことやってないで布団でも干せって」
遠くからアデレードの嘆きが聞こえた。それでも気にせず、アマリアは目を閉じて頭に置かれた手の温かさに浸ることにした。
夕方になると、アリアが家にやって来た。食事の準備に来るようで、アデレードと二人で台所に立った。非常に家庭的な風景を、わずかに羨んでみる。
干していた布団を取り込み、二階の寝室に運んだ。アスワドと二人で各部屋に布団を置いていく。家はそれほど広くないが、空き部屋くらいはあるのだろう。木造が強調されたような調度の部屋がアマリアには与えられた。家具は少なく、質素な部屋だ。客間なのかもしれない。綺麗に掃除がされた部屋だった。
肩を叩かれる。アスワドが何かを指差していた。クローゼットだ。開けてみると、洗濯された衣服とタオルが入っていた。使っていいということなのだろう。
「ありがとう、遠慮なく借りるわ」
小さく頷く。少しだけ微笑。黒鯨という名で知られる武人は微笑んで、歓迎の意思を見せてくれた。巨躯と入墨のせいで怖がれることが多いだろうが、本当は心優しい男なのかもしれない。
きっと自分と同じで、オフェリアを信奉してやまないのだ。そう考えると、途端に親近感が湧いた。武でしか自分を表現することが出来ないところも、自分と似ているのかもしれないとアマリアは思った。オルカ種は未開人だと言うが、きっとアスワドは高度な知能で自分と同じことを思っているだろう。
二人で階段を下りて、次は浴室の掃除をした。仕事は何も苦にならなかった。むしろ、従者として再びオフェリアのために働けることに喜びを感じる。どこかで荒んでしまった心が、ここでは癒されるようだった。シャルンホルストは、どこかでアマリアの心の闇を感じていたのかもしれない。
「ご飯が出来ましたよ。あらアマリアちゃん、お久し振りです」
脱衣所で足を拭いていると、アリアが入って来た。挨拶を返す。彼女とは一度だけだが会ったことがある。フルジアでアリアを逮捕した。少し気後れのようなものを感じていたが、アリアは何を気兼ねすることなく笑顔で夕食の支度が終わったことを告げてくれた。
「覚えていてくださいましたか」
「実はオペラ様から聞いちゃってました。アマリアちゃん、敬語で呼ばれるとこそばゆいんで普通に接してください」
「そういうわけには。アリア様は世界に名高い歌姫であり、また、年長者ですし」
「――――うふふ、嬉しいことを言ってくれますねえ」
悪寒。笑っているアリアを見て、何故か危機感を覚える。勘というやつだ。それは例えばオフェリアと稽古をしていて、あ、打たれるな、と思った時と似ている感覚。つまり、拙いと脳が警鐘を鳴らす時なのだ。
恐る恐る、彼女についていく。オフェリアたちを呼びに行くアリア。食卓にはすでに夕食が並べられていた。きちんと席が決まっているらしく、アスワドの示す椅子に腰掛ける。対面に双子姉妹、隣にアリア。アスワドは体が大きいためか、横に座るものはいない。
やがて、オフェリアがやって来て、しばらく経ってからアリアとアデレードが来た。思わず目を疑った。アデレードはどう見ても――――子供服のシャツを着ている。表情は怒りに満ち、対面に座ってギリギリと歯を鳴らしてこちらを睨みつけてきた。
何があったのかは考えたくない。視線を落として何とか耐える。可愛らしい子猫がプリントされたシャツは明らかにサイズが合っていなく、胸部がはちきれそうになって乳首が浮いていた。脱ぐのも大変そうだな、と感想を頭に浮かべたが、口にはしない。
台所に消えるアリアを見送った後、オフェリアが隣にやって来て座った。おそらく、避難である。
「アリアに年齢のことを言っちゃダメなんだ」
「――――はあ」
あまり言っている意味は理解出来なかったが、とりあえず頷いてみた。
「二度は言わないわよ。アリアに反抗的な態度をとったり、年齢のことを言ったら殺すわ」
鋭い言葉が正面から飛んでくる。本気だ。美貌の顔が怒りに彩られ、それでいて猫さんTシャツ。笑い出しそうになるのを必死でこらえた。ここは地獄か。可愛らしい唇をぷっと膨らませて、アデレードは物騒な言葉を口にする。愛でたくなるような聖女の素振りだが、口を開くと死ねる気がした。
裏の帝王が戻ってくる。談笑が始まった。それは奇妙でいて、とても白々しい。が、笑わずにはいられなかった。乾いた笑いと共に始まる夕食。栄華を極め、権威のある二人が家政婦に怯えるという状況は滑稽で、繕ったアマリアの笑いは次第に本物に変わっていた。
5
湯上り。用意された衣服に身を通し、居間に立つ。
あらかじめ、用意してくれていたのだ。オフェリアより大きな体では、アデレードやアリアの服は合わない。ぴたりと体に合ったサイズの婦人服は今日のためにあしらわれたもの。腕の長いフルジア人では七分丈の長袖になっているのだが、似合わないということはなかった。
腕。アンドロメダでは隠さなければならないもの。伸ばした腕は膝に達し、長い六本の指は大きな握り拳を作る。棍棒のような腕だと形容されるそれを、ここでは隠さなくてもいい。久し振りに開放的な気分になれた。
窓の外が目に入る。バルコニーに人影がある。背に達する金髪が夜風に流れている。声をかけていいものか。束の間、悩んだ。今ならアリアが風呂に入っていて、邪魔は入らない。そっと窓を開けて外に出る。少し、肌寒い夜だった。
浮かぶは二つの星。リューヴとサピリオが夜に浮かび、庭を背に、神の人が立っている。神秘的とも思える世界で、オフェリアが振り返った。ここは神が住まう楽園。美しいのも、神秘的なのも、幻想的なのも当然なのかもしれない。
だが心配もある。先ほど、夕食の席でオフェリアはほとんど食事に手をつけていなかった。オフェリアの前にはスープが入った器だけが置かれていたことから、普段からあまり食べないのだろう。いくら神聖な人間であると言っても、食が昔よりさらに細くなっているのは心配だった。
隣に立つ。ウッドデッキの欄干に背を預け、オフェリアは微笑んでいるだけだ。ほら、と。彼は着ている裾の長い上着を脱いでかけてくれる。上着には体温が感じられ、薄いのに不思議な暖かさがあった。
「アマリアの手は、綺麗だね」
欄干に置いていた手を褒められる。何度か褒められたことはあるのだが、意外だった。フルジアでは美しい手も、アンドロメダに住む人間にとっては異形でしかない。
「……でも、私、オフェリア様のような小さな手が可愛らしくて好きです」
「ふはは、可愛らしいときたか」
かけられた上着の中から伸びた手。嫌いではない。むしろ、少し誇らしかった。自分はフルジア人で、しかもちょっと綺麗なのだ。自慢に思いなさい、と我が師は言ってくれた。二つの星に翳してみる。
「シャルンホルストも、お前も、私にとっては誇りだよ」
強く肩を抱かれた。何かを、注がれるようなイメージ。例えば意思を、例えば気力を、励ますように肩越しに伝えてくる。来てよかった、会えてよかった。これで私は、未来を強く生きていける。そう思えた。
幸せ。ここにあるのは、失われた幸せ。取り戻すために、人々が訪れるのかもしれない。
「お前たちがいてくれる。とても、そう、幸せなことだ」
「そんな、こちらこそなのですオフェリア様。私にとって陛下は全てです、自分以上の存在です」
「ありがとう。けど、私は陛下ではないよ。陛下は、ジーナだ」
強い視線を感じる。隣にいるオフェリアが、鋭い眼光でこちらを見ていた。はっと思い出す。皇帝であった頃の真剣な眼差し。この目が人々を見通し、世界を見通してきた。蒼い光。確かに、淡く輝いているように見えた。
初めて出会った時。もう十年以上前、降りしきる雪の中で、この蒼い光に誘われたのだ。私を導く光。そして、勝利へ、栄光へと誘ってくれる光。
「フルジアと、妹を頼む。欲を言えば、お前も幸せに」
「私は充分すぎるほど、幸福を得ています。ディリゲントには申し訳ないですが、絶対に譲りません」
「もしここにディリがいても、きっとそう言うよ」
「ふふ、でしょうね」
小さく笑い合う。そろそろ入ろうか、とオフェリアは声をかけてくれた。

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