手は血と罪に濡れ、骸の野山に我は立てり。

 贖罪を知らず、罪悪も無く。

 ただ亡くした涙の声が聴こえた。

 それは、歌に似て。

 怨嗟の声は狂言が生んだ歌に似て。

 声を亡くした少年は、今日も歌劇の幕を開く。

 

 手は血と罪に濡れ、骸の野山に我は立てり。

 贖罪を求め、罪悪に溺れ。

 ただ亡くした涙が空から降った。

 それは、譜に似て。

 怨嗟の声は系統正しい譜に似て。

 自由を求めて少年は、今日も狂詩曲を奏でるだろう。

 

 手は誉と光を掴み、願いの野山に我は立てり。

 挫折を知らず、絶望も無く。

 ただ亡くした兄の声が聴こえた。

 それは、歌に似て。

 求めの声は悲哀が生んだ歌に似て。

 真実を手にした少女は、今日より歌劇の壇に立つ。

 

 求めよ。さすれば、叶わん。

 手にした願いの重さと、亡くした夢の重さの、その為に。

 

Act-1

 飛行場に数多の船がある。きちんとした設備に入れることが出来ず、敷地からはみ出している船もあった。それほどまでに、渡航者は多い。ルテティア・パリシオールムが歴史上初めて、一般に公開されたためだ。

 船の一つから降りて、フィデリス・ツェルニーは楽園の地を踏んだのが見える。数名の士官が誘導を始める。武器の所持を完全に禁じ、この日に邪魔をされないためだ。チェックを受け、保安主任であるセリア・イザーク中佐は足を運んだ。挨拶をする。イザークの隣には、グスターヴ・ギルデンスターンがいた。

 ソフィア、ルテティアの両方でチェックをすることで公平を期しているのだ。レアティーズ・スコア・カデンツァの側近と噂されていた男はこちらを一瞬だけ見て、それから仕事に戻った。

「オフェリア君の様子はどうだ?」

「リゴレットと話しています。終始、穏やかな様子で」

 その落ち着きように、妙な胸騒ぎを覚える。まさか負けるはずがない。心はそう思っている。しかし、頭のどこかで、今日という日が今生の別れとなってしまうのではないかと恐れていた。

 傍らにいたティア・ヴァーグネル少佐に後を任せ、イザークはフィデリスを連れて飛行場の建物から外に出た。夕焼け空。赤い。美しい風景が外には広がっていた。これが、神々が愛した故郷なのだ。その美しさに心を打たれる。

 遠い故郷だった。あまりにも、遠すぎた。オフェリア・ルートヴィヒ・ヴァン・フォーレの帰郷は、まだ果たされていない。今日を乗り越え明日になれば、ようやく心が故郷へ到達することが出来るのだ。

 大聖堂の前に設置された特設の広場。スクリーンが置かれ、中の様子が中継されることになっていた。すでにかなりの人が押しかけていて、チケットを持たない人間が腰を落ち着けていた。熱心な信者もいれば、若い恋人たち、家族、様々な人間がそこにはいた。

 シンフォニア・エロイカ。それが公演される歌劇の題目だった。聖堂の扉、その隣に看板がある。大書された文字。脚本家はその文字にどんな想いと意味を込めていたのか。イザークにはわからなかった。扉へと続く階段には、未だ長蛇の列が作られている。

「そういえば、アデレードはどうした?」

「すでに中かと。ベルベデーレとして、見守るつもりです」

「リーティア卿やハイネなども?」

 その名を聞いても、特別な感情は無かった。少なくとも頭はそう思っている。ガブリエル・ハイネの失踪を、イザークは自業自得だと捉えていた。おそらく、ディファイアンスの瓦礫の下に遺骸があるのだろう。焼け爛れたマルガレーテの死体は見つかったが、ハイネは行方不明扱いだった。

 養母の失踪。嘆くことも、悲しむことも、イザークは忘れた。リゴレットが崩れ、オフェリアが絶望にいる中、自分が支えなければならない。悲嘆は忘れ、強大な使命感だけがある。この身を貫く使命感だけが。

 嘆くまい。人の死に、心、動かすことはない。これから、どれほど多くの人命が、そしてどれほど貴重な人間が死んでいくのか、予想さえつかないのだ。

 階段の上にいると目立ったのか、誰かに大声で呼ばれた。並んでいる人がこちらを向く。イザークは押し入れるようにツェルニーを大聖堂へ入らせ、自身は階段を下りた。

 下には放送権を購入したテレビ局のディレクターがいた。礼拝堂は現在、締め切っている。しかし器材などはすでに運び入れ、放送を待つばかりだと思っていたのだが、問題でもあるのだろうか。

「無線電波なんですが、フルジア軍の電磁障壁でルテティア・パリシオールムを基地局にしてしまうとレグルスまでしか届かないんですよ。予定ではノティオンを中継して飛ばすつもりだったんですが、ノティオンの国営放送は素人同然の人間ばかりのようで、不備があるのか中継に失敗しています」

「放送エリアはどうなっている?」

「第一銀河団全域はカバー出来ます。フルジアまでは、届きません。そこで、この書類を」

 ラジオの電波と違い、テレビの電波は電磁障壁に影響を受けるのだという。フルジア側で受信設備を持っていれば別だが、そこまでしてアンドロメダのテレビ放送を傍受しようとするのは軍部の情報局くらいだろう。

 この放送は絶対にフルジアまで届かせなければならない。オフェリアの生き様を、オリヴィアに、ゲオルギーネに、そしてシャルンホルストに見せなければならない。

「ソフィア・ビュザンティオンのマスコミュニケーションは非常に優れていると思います。人材も設備も。アルゴナウティカの発信装置を利用させてもらえれば、電磁障壁による障害を乗り越える出力が生み出せるかも」

 ソフィア市における情報公開と発信方法は、オフェリアが苦心の末に作り出したものだ。マスメディアに対して客観性と中立性を固持させるために様々な方策を打ち出した。全てのマスメディアを国営化し、厳しい法律により縛った。同時に行政に対しての権限を付与し、報道機関は実質的に行政機関や立法機関と並び立つほどの権力を有していると言っていい。

 王都大学での人材育成。ジャーナリズムを育たせ、また受信側にもメディア・リテラシーを学ばせている。情報の取り扱いに関して、ソフィア市ほど熱を入れている国家は無い。先日のリューヴにおけるディファイアンス襲撃の報告も、オフェリアの名を出して報道し、イザークとレアティーズは化学テロに対する報復であると宣言をした。

 何も隠さない。それが真実だからだ。リューヴ国内では偏向的な報道がなされ、フルジア軍による陰謀説など様々な流言が飛び交った。しかしソフィア・ビュザンティオンではさほどの混乱は起きず、ただ事実だけが報道された。

「よかろう。司法統監の名前を使うといい」

「どうも。ソフィアには何度かウチのソニアちゃんが行ってるので、彼女が」

 彼女なら入国管理の手間が省ける。渡された書類にサインをしてやり、ディレクターに渡した。

 全ての準備が着々と整っていく。中継機具の近くでソニアと話し合うディレクター。検問を行うティアたちソフィア・レギオンとルテティア・パリシオールム軍。着陸して乗り付けたアルゴナウティカから来る人間、オフェリアとレアティーズの終幕を見に来た観客。そして全世界数百億の人間に向けてリアルタイムで流される壇上の決戦。

 陽が落ちる。時は満ちた。長蛇の列は徐々に解消され、予定されていた人数を礼拝堂へと流していく。日没である。今、ひとつの陽が堕ちようとしている――――

「イザーク中佐、武装解除が完了した」

 目を向ける。背の低い男。ギルデンスターンがティアと二人でやって来て、言った。ソフィア軍も二百余りに減ったルテティア軍も武装を解除し、一人の観客として明日を迎えるのだ。もう来訪者もいない。後は、最後の開幕を待つだけだ。

「明日になれば、すぐに殺してやる」

「こちらの台詞だ、アハト。貴様もヴィンターも生かしてはおかぬ」

 敵意も憎悪もあって然るべきもの。互いに、憎しみはある。武器を捨て、頂点に立つ二人の帰趨を見守る。許されているのはそれだけだ。勝負の果て。敗北者はただ淘汰されるのみ。

「馬鹿か貴様ら。さっさと中に入れ、ほら、邪魔だって」

 背後から突き飛ばされ、イザークはよろめいた。何をする。思って振り返る。腕を組んでふんぞり返る小柄な少女がいる。口には酷薄な笑み。まだ中に入っていなかったのか、武宮ナオミは自分を棚に上げて非難してくる。この女性こそ暴発する可能性が最も高いのだ。

 しかし、痛々しい姿ではあった。以前に聞いた罵声より、かなり小さく、そして弱い声音。魔王との前夜祭。リューヴでオフェリアを食い止めたのは他ならないナオミだったが、かなりの手傷を負っていた。圧倒的な破壊神に対抗することが出来る聖の神族は、この人しかいなかった。

 神の切り札。ワイルドカードのような武人に一礼し、イザークは気を静めた。ギルデンスターンはさっさと礼拝堂へ入っていき、ナオミに急がされ、ソフィア勢も続いて大聖堂の扉を押し開けた。

「生きていてくれて良かった。心配したのです、ナオミさん」

「けっ、素直な子に育てられたもんだね」

 悪態をつくナオミの横顔。オフェリアやハイネ、ロジーナ・アルマヴィーヴァらを教え、育てた人物。もう四十を軽く超えている年齢のはずだが、まだ十五、六歳に見える。それでも確実に、衰えはあるのだろう。

 出会いは八年前。オフェリア捜索で力を借りた。ナオミは共に今は無きシリウス星にまで連れて行ってくれて、そこで彼女は治療に尽力した。それ以来、窮地に立った時には助けてもらった。本当に困った時にしか現れないのだが、逆に言えば脱することの出来ないような危機には必ず助けてくれる。

 信頼。イザークはナオミを信頼していた。しかしどうして助けてくれるのか、と考えたこともある。実は、ハイネを一番よく知り、ハイネを一番好いていたのは、この武宮ナオミという人なのではないだろうか。そしてハイネの娘であるイザークを、それとなく見守っていてくれた。

 そう思うと、涙を禁じ得なかった。たとえ敵対しても、ナオミだけは、心の中で味方であり続けたのかもしれない。それを語ることは、ナオミはしないだろう。そういう女性だからだ。語られることのない想いもある。

「――――ありがとうございます」

 ただ、礼を言ってみた。何の理由も、何の根拠もなく、イザークは礼を言った。

「気持ちの悪い子だぜ。そら、さっさと入んな」

 彼女は笑って文句を言って、突き飛ばすようにイザークを礼拝堂へ押し込めた。

 

 廊下を歩いていた。礼拝堂へ続く廊下だ。

 開演まではまだ少し時間があるのか、観光客が規制の範囲内で大聖堂を見て回っている。リゴレット・リエンツィはそんな人々の流れに乗りながら、自分もまた、廊下の装飾や絵画などを無言で眺め、歩いていた。前を行く集団はツアーか何かなのか、ユミル種の女官によるガイドがついていた。

 ルテティア・パリシオールムの開放は、オフェリアが考えていたことの一つだった。ソフィア・ビュザンティオンと同様に、人々の観光を出来うる限り許可し、収入にしようという考えだ。庇護を受けながらも独立してあるべきだ、という分離主義のひとつと言える。

 フィルウィリミテア教国。目指しているのは、そこなのかもしれない。レアティーズも、オフェリアも、二人とも思いの根幹は同じだ。独立して、各国と歩調を合わせて協力し合う。その集大成が現在のアンドロメダ・クラスターであり、フルジア帝国でもある。

 独立。その響きが、リゴレットには甘美なものに感じられていた。

 地球からの従属関係を断ち切り、巨神は立ち上がる。そんな夢を、ずっと追い続けてきた。しかし未だ叶っていない。太陽系同盟は瓦解したとは言え、タイタンにはまだ一人で立つほどの体力はなく、またヴォルフラム・ヴァルトブルクも地球との関係を継続させている。政治家として、それが正しい判断なのだ。

 腹の立つことばかりだった。絶望しかこの世には無かった。希望など、見出すことが出来なかった。母国の分裂。友、妹、そして妻の死。そんな中で、オフェリアとここで再会をした。久し振りの再会だった。

 リゴレットは、泣いた。その顔があまりにも亡き人に似ているから。その優しさがとても辛かったから。その優しい声が愛した声と同じだったから。

 オフェリアは、こう言った。シャルパンティエにだけは、ならないでくれ。

 そうして気付いたのだ。あの少佐はこんな想いでいたのか、と。辛くて心が千切れてしまうような絶望の中、ルイ・シャルパンティエは何を思ったか。夫が死に、絶望に塗れたイレーネは何を選んだか。共に、死であった。

 イレーネはトリスタンへ貞節を守り、シャルパンティエはロジーナを弔うために戦に出向いた。もしここでリゴレット自身も彼らと同じ行動をすれば、第二、第三のリゴレット・リエンツィを生む。例えばイザークが、そしてオフェリアが、復讐のために生きるのだ。

 それだけはさせてはならない。リゴレットの頭にはそんなことが浮かんだ。強く思った。友を悲しませてはならない。悲しむのは自分一人でいい。だから、こうして無想の境地で廊下などを歩いている。

 ――――レアティーズは許さない。だが貴様を殺すのは、俺の役ではない。

 この憤怒より、もっと大きな感情をオフェリアは抱いているはずだ。この世界の誰よりも、レアティーズに対する想いは強くあるはずだ。家、妹、自分自身、全てだ。全てをレアティーズ・カデンツァという男に、それも親友に奪われた。もしも自分が彼の立場で、トリスタンに全てを奪われたら、と想像すると戦慄さえ走る。そんな絶望に、人が耐えられるはずがない。

 耐えた。涙も悲しみも、嘆きも絶望も、全てはこの時の為に。

 決して自分が邪魔をしていい戦いではないのだ。静かなオフェリアの言葉に、リゴレットは覚悟を決め、憎悪を捨てた。ただ願うのみである。親友の勝利を、神の帰還を。雨の中、階下で押し殺した涙を流す小さな背中が、報われることを。

 十年だ。あの雨の日から、十年。名も無きひとりの子供が、世界最大の権威と権力を持つ男を壇上へと追い詰めた。後は、自分を取り戻すだけ。

 周囲から人がいなくなっていた。廊下には、一人の女官がいるだけだ。ハーミア・リラ。その名と顔を、リゴレットは覚えていた。

「もう開幕ですよ」

 微笑。十年前、家に帰って来たオフェリアを拒絶した女官。ハーミアに限らず、誰もが拒絶した。オフェリアはひとり。この世にひとり。決して重複するはずがない。だから、弾き出された少年はオフェリアであってはならない。

「悪いな。道に迷ったんだ」

 嘘などついてみる。ハーミアは微笑を崩さず、先導を申し出た。少し話したい。そう思ったリゴレットの心情を汲み取ってくれたのかもしれない。

「なあ、アンタはレアティーズだと、わかっていたんだろ?」

「……ええ。わかっていましたよ。オフェリア様とはあまりにも違いますから」

 だったら、なぜ。そんな言葉が口をついて出た。わかっていたのなら、どうして迎えてやらなかったのだ。

「別に誰でもよいのです。アリアはそうは思わなかったようですが、我々は神々に仕える身。レアティーズ・カデンツァは人の上に立つべき器量を持っていましたし、オフェリア・フォーレとして存分の働きをしたと。そんな答えでは駄目ですかね?」

「アンタ、矛盾してるぜ。神に仕える身なら、人間であるレアティーズに従うのは道理ではない」

「そうですね。道理ではなくとも、あの子の味方であり続けたいと願いました」

 人の上に立つべき存在。まるで、オフェリアのようではないか。そこで気付いた。レアティーズは、オフェリアの代わりを務めていた。レアティーズにしか出来なかったことなのかもしれない。人の身でありながら、神に最も近い男。

 もしも、二人の運命が狂わなければ。そんな未来を一瞬、考えた。頂点にオフェリアがいて、その下にレアティーズがいる。親友の二人。万物に才を発揮する超世の英傑と、天才的な軍略と知略を持ち合わせた武勇の神将。時代を背負い、世界の上に立つ人間が二人。この組み合わせは、きっと世界を変えたはずだ。

 そこには自分がいて、シャルパンティエがいて、イザークがいて。英雄が集結した理想の未来。

「夢、ですね」

「ああ、夢だな」

「でも、そんな未来があったら――――良かったのに」

 最後の言葉は、涙声でよく聞き取れなかった。誰よりもその未来を望んでいたのが、他ならないレアティーズとオフェリアの二人だったのかもしれない。共に生きよう、共に夢を追おう。まるでリゴレットが、遠い昔に親友と交わした約束のように。

 全ては遠き、儚き、夢幻の理想郷。叶わないから美しく。泣き崩れるハーミアを残して、リゴレットは礼拝堂に入った。

 

 見事な装飾。巨大な礼拝堂は、アヤソフィアよりも華美に彩られ、見るものの心を奪う。アヤソフィアがその壮大さで見るものを圧倒するのに対し、こちらは、より貴族趣味の強い派手な装飾がある。

 最前列にイザークたちが待っていた。すでに陽は落ちている。この幕が上がれば、終わりが始まる。

 観客の数はおよそ一万程度か。しかし外にあるスクリーンの前にも人はいる。テレビの前で放送を待つ者もいるだろう。ひとつの戦争が終わりを迎える時が来た。

「おいおい、大丈夫なのかよ。こんなところで殺し合いしちゃって」

 冗談のように言葉を発してみる。それは、上手くいった。以前の自分は、このようにして場を和ませようとしていた。今の自分でも、そうだ。イザークは呆れたような顔をして、やはりいつもと同じように、正しいことを口にする。

「宣伝済みだ。礼拝堂が血に染まるというのは良くないとは思うが、二人のオフェリアが争いにより決着をつけることを観客は知っている」

「血みどろにはならないと思う。跡形もなく消し飛ばされるか、一撃死か。即死には違いない」

 戦闘員として、武芸者として、ティアの意見は正しいとリゴレットは思った。ただ、イスラフィルを放つ力がオフェリアに残されているか。衰弱している。体力もほとんど無いような状態だ。控え室にいたオフェリアは、リゴレットが片手で潰せると思えるほど小さかった。

 実力は伯仲している。剣技ではオフェリアがやや有利か。それでもレアティーズには体力と体格差がある。致命的な一撃が加わらなければ、膠着。長期戦となると、オフェリアの不利である。

「観衆は今のところ、レアティーズ派が多いな。まだオフェリアはフルジア帝と思われている節があり、フォーレと知っている人間は少ない。それに、リューヴでの一件もある」

「それでも声援を送るわけにもいかんだろうよ。格闘技の試合じゃねえんだ」

「劇の内容でどれだけオフェリア派が増えるか、だろう。僕はまだ内容を知らないんだけど?」

「始まれば、わかることさ」

 アナウンスのようなものが礼拝堂に、そして世界に流れた。アビゲイルの声。礼拝堂の照明が落ちた。夜。照らされるのは、正面にあるステンドグラスだけだ。ライトは幕へ。やがて光量を増し、壇を染めていく。

 観客が静まり返る。幕が上がる。壇上、立つは一人の歌姫。

 全ては彼女から始まった。運命に立ち向かうことを、彼女が教えた。歌姫、アリア・ローゼンミュラーは全世界からの注視を浴び、なお、凛と美しく舞台に映える。歌姫の復活。観客は目の色を変え、蘇る歌姫を見上げる。

 その世界観に、引き込まれる。リゴレットも気付けば無言で、一心にアリアだけを見ていた。

「手は血と罪に濡れ、骸の野山に我は立てり。贖罪を知らず、罪悪も無く。ただ亡くした涙の声が聴こえた。それは、歌に似て。怨嗟の声は狂言が生んだ歌に似て――――」

 悲しい旋律に乗せて、アリアは歌い始める。まさか。リゴレットは気付いた。この歌劇は、この脚本は、この物語は――――

「全てを敵に回してでも、救いたい。それが、オペラの誓い」

 歌劇が始まった。

 神に憎まれた英雄の物語が奏でられる。

 

Act-2

 誰もいない私室だった。かつては栄華を誇り、持て囃された男の部屋。それが何とも空虚であり、寂しくもあった。カルディア・ベル・シャル・ウツルはその部屋に入った時、まず最初にそんなことを思った。

 そして、少しだけ笑った。待ちくたびれたのだろうか。ソファの上に寝転がって、剣を傍らに、眠りこける友人の姿があった。度胸があるのか、やはり大物なのか。レアティーズは口を開けて本当に眠っているのだった。

 やはり訪れていて正解だった。今日という日は歴史に残るような一大事件になる。すでに幕が開いたというのに、主人公が寝坊してはどうにもならない。カルディアはソファに近付き、その頬を強めに叩いてやった。薄く目が開く。それにおはよう、と明るめの声を投げかけた。

「特別番組見てたら、つまらなくて眠ってしまった」

 点けっぱなしのテレビモニターからはアリアの歌声が流れていた。透き通るような高音。豊かな表現力に、思わず聞き入ってしまう。

 対面にあったソファにカルディアは座った。彼はすでに起き上がって、一度、大きく伸びをしてから盛大な欠伸を見せた。

「もうすぐ出番だっていうのに、君は相変わらずだね」

「言うな。お前こそ、席、無くなるぜ?」

「きちんと確保してますよ。貴方と違って」

 この私室に何度、足を運んだだろう。そしていつも、こんな他愛もない会話をした。思い悩んでいる時、何かに困った時、若いカルディアはルテティア・パリシオールムにやって来ては、レアティーズに茶化されたのだ。

 いつも言われた。悲観的すぎる、と。こうして窮地に立ったレアティーズを見ると、少し心配でもある。緊張感がないのだろうか。それとも、かつての自分のように、思い悩んだ末に楽観したのだろうか。

「開き直ったのさ。もう、どうにでもなれってな」

「貴方という人は……頭が痛いですね」

「周囲がとやかく言ってるだけなんだぜ。俺にとっちゃ単なるケンカみたいなもんだし、アイツにしても気負いは無いだろ」

 レアティーズの言葉には、いつも驚かされてきた。鋭いのだ。物事を芯でとらえ、率直に言う。それで気付かされることが多かった。頭の優れた男なのだと、その度に思ってしまう。

 確かに彼の言うとおり、これは二人の男が勝負をして、決着をつけるというだけのことなのかもしれない。もちろん、通常ではそんなことは起こり得ない。だから、こうして壇上へ追い詰められ、開き直ったレアティーズが勝負に乗った。

 彼は少しだけ考えるような素振りを見せた後、立ち上がって、珍しく礼の言葉などを口にしていた。それから立てかけてあった剣を手に、部屋を出ようとしていた。

「一緒に」

「何だよ、戻らなくていいのか?」

「……いいんだ」

 真実が解き明かされた時、世界の全てが彼を憎もうと、自分だけは味方でいたい。そう思った。誰からも憎まれるレアティーズになろうと、素晴らしい友人だったことに違いはない。そして、素晴らしい人間だった。それはこれからも続くのだと、信じている。

 信じているのだ。この歌劇、最後の幕まで。レアティーズは立ち上がっていることを。信じる。だから、救ってくれ。神ならば、この信仰に応えてくれ。あるだけの願いを手に込めて、思い切り肩を叩いた。

「勝てますよね。レア」

 逞しい背中だ。気迫に満ちた男の背。両手で肩を抱いて、祈りを彼に。

「――――当たり前だろ。俺を誰だと思っている」

 レアティーズ・スコア。知っている。世界を平定する覇者の名前だ。悪魔でもいい。何でもいい。どんな呼ばれ方をしようと、彼は必ず世界を救う。戦争を終わらせ、平和を皆に。狂った戦乱の世を元に糾すことが出来る人なのだ。

「そう簡単に死なせてくれないのさ。俺の背にいる亡者どもが苦しめと喚くんでな」

 横顔は、笑み。自信と、そして希望に満ちた男の容貌。

 悲運な男である。その生き様は不器用でいて、恵まれてなどいなかった。

 名前を奪ったと人は言う。オフェリアを奪ったのだと民は言うだろう。奪ったのではなく、きっと押し付けられた。レアティーズは、他人の名前を押し付けられて、他人の存在で覆い隠されて、満足して納得するような男ではない。

 叫びたかったはずだ。俺はレアティーズだ。あらん限りの声で、世界に叫びたかったはずだ。だから今日という日は、レアティーズにとってはある意味、待ち望んでいた日なのかもしれないとカルディアは思った。

 黙っていられる性格ではないことはよくわかっている。苛烈な正義感は真実の隠匿を嫌った。それでも黙っていたのは理由がある。正義、善意、あらゆる聖者の意志を超えて、レアティーズ・スコアは義務を果たそうとした。オフェリアが、この世から消えてしまわぬよう。

「君は――――不器用すぎる。損な生き方だよ」

 神よ、彼を赦してくれ。願わくば人の想いを受け取り、彼を世に返してくれ。

 

 演目は第一幕が終わり、すでに第二幕になっている。第一幕のクライマックス、女帝暗殺が演ぜられ、舞台は再び落ち着きを取り戻している。礼拝堂の横にあるアデレードの私室には、静かな祈りの歌しか聞こえてこなかった。

 ここに来るまで。十年間。様々な出来事があった。その想いを今、壇上へと解き放っている。

 十年前に始まったわけではない。葛藤は、運命の狂いは、いつからだったのだろう。フィアはふと、そんなことを考えた。オルフェオが死んだ時、ガートルードが死んだ時か。あるいは――――生まれる以前の死からなのか。

 何の罪も無く、罰だけが与えられた。いつからかその手は血の墨に汚れ、罪人に相応しい容貌になり。オフェリアが聖人君子ではないことを、フィアはよく知っていた。ツヴァイは何の罪もない子供を殺したし、ネブカドネツァルは何の罪もない兵士を殺した。

 哀れな罪人。その闇は、レアティーズなどとは比べ物にならないだろう。いつか下る神罰。それとも、神罰はすでに下っていたのかもしれない。その生涯は憎悪と敵意に囲まれて、ただひとつの栄光も許されず、神々に呪われて生きる。

「オフェリア、さま」

 身支度を終えたオフェリアが出てくる。顔色。青いを通り越して、白かった。まるで死体のように、されど、それはこの世のものとは思えない美しさで。フィアは一瞬だけ、見惚れた。

「言わないで。フィア、その口を開くことを禁じる」

 白い肌。透き通るような瞳の青さと、小ぶりながらも厚めの唇は赤い。青と赤が際立って見える。赤、それは血の色。化粧などをするような人ではない。ならば、どうしてそんなに唇が赤い。血だ。血を吸う鬼。

 気付いた。だが言えなかった。オフェリアは、言うことを禁じた。

「何か、拭くものを。それと水があると嬉しい」

「すぐに」

 勝てるのか。部屋を出たフィアの脳裏に、初めて勝利を疑う思考が生まれた。五年前、いや、三年前なら必ず勝てた。わずかそれだけの間に、ここまで衰弱してしまったのか。水の入った容器と布を用意し、部屋に戻る。その間もずっと、心配は尽きなかった。

 口に手を当てるオフェリアの姿。それはいつもの、考える時の癖に似ている。しかしフィアにはわかった。指ではなく、手の平で口を押さえている。それはいつもの癖ではない。急いでフィアは布を手にしてオフェリアの口に当てた。

 拭う。目は虚ろ。青く美しい瞳に、力は無かった。澱んでいる。濁っている。前が、未来が、見えているのだろうか。映るのは過去ばかりで、懐かしい思い出ばかりで、夢を見続ける。

 手が伸びる。白く細い腕がフィアへと伸び、唇に触れた。

「――――取れました」

 口についていた血を拭い取り、手を離した。見上げたオフェリアの目は、まだ虚空を迷っている。

「……ありがとう、ゲルダさん」

 視線が、会話が、合わない。ぞっとした。背中に、嫌な冷たい汗が流れた。

 目の前にいるオフェリアは、間違いなく、今日という日にはいなかった。過去を見て、記憶と語らう。フィアの頭より随分と上を見ながら、本気で、ゲルトラウデ・ネブカドネツァルと会話をしていた。その非現実的な光景に、偉大な主君の崩壊に、フィアは恐怖に似た感情を覚えた。

「オフェリア、さま?」

「何だ、フィアか。いきなり目の前に来るなよ、驚くから」

 何事もなかったかのように、オフェリアは背を向け、ベッドの上にあった剣を手に取った。

 いいのだろうか。このまま、舞台に上げてしまって。今まで何を心配することはなかった。必ず、レアティーズを打倒する。そう信じてやまなかった。しかし、今。その自信は何の根拠もなく、理由は消え、不安しか生み出さない。

 水の入ったグラスを渡そうとすると、拒否された。いらない。どうして、水を。その視線が、怖かった。

「ずっとお傍におります、オフェリア様」

「ん?」

「オフェリア様は駄目な大人ですから、誰かがついて見てやらなければなりません」

 本当なら、その背に抱きつきたかった。離したくなどない。しっかりと押さえつけて、どこか遠くで暮らせばいい。義務も責務も運命からも逃れて、生きることを選べばいい。

「いや――――もう、いいんだよ」

 答えは拒絶。知っていた。この選択をすることを、知っていた。だから、嘆かなかった。ずっと隣にいた。ずっと傍にいた。だから、誰よりも理解している。双子の妹よりも、親友よりも、誰よりも共に過ごした時間は長い。だから、わかるのだ。

「フィラーナ。望むがままに、自由に、生きなさい」

 父なる人。母なる人。自分にとって、絶対の存在だった。

「はい、オフェリア様。それでも、お傍にいたいと思います。それが、願いなのです」

「困った子だね」

 優しく、笑う。穏やかな微笑が、好きだった。この笑顔が見たくて、いつも困らせたくなるのだ。オフェリアは軽くフィアの体を抱きしめてから、部屋を出る。その背に、ついていく。

 後ろにいるから。だから、何をも気にせず、先へと進んでくれ。

 力尽きて、斃れた時には、受け止めるから。

 

 時代は流れ行く。第二次反攻作戦、ノティオンの戦い、戦争の帰趨は神にさえわからなくなり。駆け足で流れる時代の脚本。高らかに歌い上げる調べの詩。夜は、深まる。

 この夜を越えた明日は、新たな年。そして、新たな時代が幕を開ける。

 歌姫は時代を奏で、俳優たちが時代を演じる。この一大叙事詩を、世界が見ている。誰もが知る事実と、誰もが知らなかった真実を解き明かす。

 両雄、同じ天を戴かず。

 舞台袖に立つ二人を、アリアは見た。全ての舞台は整ったのだ。これから開く幕は、悲劇か、喜劇か。どちらにしても、終劇には違いない。時代の担い手を決める戦い。勝者が、未来を牽引する。勝者が、この世界を明日へと引っ張り、新世界へと導いていく。

 新たな星には願いを。滅びの星には祈りを。

 終曲が奏でられる。それは、フィナーレ。そして、ファイナル。

 アリアは壇を上がっていった。オーケストラが待つ上段で、二人を見下ろす。まるで神になった気分。

 審判の時は今。決めるのは、二人が持つ強き意志のみ。そこには他者が入る余地などない。最も近く、最も遠い二人だけが決めること。

 聖魔決戦の幕が開く。第三幕にして、終幕。新たな世界に行くのは一人だけだ。観衆が声を上げた。鳴り響く音楽を、アリアは目を閉じて迎え入れた。二人が舞台に姿を現す。それは満を持して。

 ここから先は、脚本にない。まだ拓かれていない未来。決めるのは、二人。

 幕が、開いた。

 

 

Act-3

 遠かった。遥か遠くに見えていた夢に、自分が立っていることに、感慨を得る。

 剣を抜いた。友も同じように、フォーレの双子剣を抜いた。青い刀身が、鮮やかに照明に照らされて輝く。オフェリアの神装も、同じように青く光を発するように舞台に現れた。

 進む。前へ歩く。レアティーズも歩いてきた。周りなど見えなかった。ここには、二人だけしかいない。どんな音も、どんな姿も、この身には届かない。ただ一人。ただ一人しか、存在しない。

「きちんと会うのなんか、何年ぶりだろうな」

「うん」

「元気でやってたか。すっかり有名になったもんだ」

「うん」

「……色々、あったなあ」

「――――うん」

 頷くしか、出来なかった。何も言えない。口を開くことの出来るレアティーズを、凄いと思った。感情は複雑で、それでいて多量で、今にも零れ落ちそうだ。どんな心情なのかはわからない。それでも、心を強く、強く揺さぶっている。

 剣と剣が触れ合う位置にまで近付いた。レアティーズは、少し緊張した笑みを見せていた。オフェリアも、何とか笑ってみせた。多分、ぎこちない笑みだ。それでもいい。脳裏に焼きつく最後の姿は、笑顔がいい。

 

「それじゃあ、始めるか」

「うん」

 

 全身に力を籠める。最後の力。レアティーズが、吼えた。気合。オフェリアは無言で力み、最初の一刀を全力で振り抜いた。両手で握る柄。技も術もない。ただ力任せに、友へぶつけるだけ。

 顔のすぐ前で剣が交差する。火花。振り切れない。ぎぎ、と少し傾いだ。均衡。オフェリアは手首を入れ、巻き込むようにして剣を除けようとした。レアティーズも同じなのか。頚動脈を狙って手首を前に倒そうとした。

 均衡が崩れる。一気に刃が流れ、体の左側へとズレた。

 自分の剣は、内。レアティーズの剣が外れ、弾かれた。巻き上げる。敵の右下腹部から左肩へと切り上げる。戻る敵の剣。真横からぶつかった。首。手首を返し、レアティーズの剣を受ける。

 右手を外す。もう一度、と構えたレアティーズの襟を掴む。ぐ、と引き寄せ。超接近戦になる。そのまま、オフェリアは思い切り頭をレアティーズの鼻へぶつけてやった。右手を放す。左。剣を真横に振る。敵の剣が戻るより早く、柄尻で首を打った。

 小さく短い悲鳴が耳に届く。痛がり、距離をとる。追撃をしようとするオフェリアに、剣が突きつけられた。一息をつき、同じく構える。

 互いに、両手剣。レアティーズはゆっくりと剣を持ち上げ、顔の横に構えた。オフェリアは剣を引き、刃を寝かせた。最強の切り下ろしか、最速の刺突か。力、技術、速さ。あらゆる要素が絡み合い、一撃で勝負を決する。

 長く。息を吐く。短く息を吸う。心音が高まる。血流が早く、鼓動が力強く打つ。

「――――勝負」

 小さく呟き、地を蹴った。左、顔の横に引いた剣。真っ直ぐに寝かせた刃を突き出した。速度に加え、体重を乗せる。狙いは、敵左胸部、その心臓を、貫く。交差するように腕を右側へ捻りこむ。

 剣が振ってくる。刺突もろとも、剣ごと、この身を砕く一撃。速度はなお速く、腕力で上回る豪快な技。オフェリアの剣を叩き落し、目の前を掠めた。胸が開く。共に、一瞬だけ、全く同じ姿勢となった。

 第二。勢いはそのまま、否、なお速く。落とされた剣、下がった切っ先を巻き上げた。先ほどと同じ軌道。腕を回し、再び顔の左側に構え、そのまま突き出す。第二撃は初太刀に速さを加え、より重い突きに変わる。

 レアティーズが、叫んだ。慌てて剣を真横に構え、心臓の前に。構わない。オフェリアは第二撃をレアティーズの心臓へと放った。衝撃。ピンポイントでレアティーズの剣が抑える。一瞬、刃がしなった。

 距離は無い。オフェリアは、右手を放した。左は利き手。第一、第二と力を溜め、勢いを残し、なお加速させた第三撃が待つ。思い切り引いた左手。至近距離。体を捻りながら、三度、放つ突きには遠心力を加え、まさに乾坤一擲、押し出す刺突は神速の槍となり。

 勢い、威力、速度、全てを兼ね備えた究極の一撃。

 飛ぶ。レアティーズが、空を舞った。双子剣を弾き飛ばし、必死の思いで回避する敵の左肩を抉るだけに終わる。再び、距離が開いた。

「上手く逃げた。串刺しにしてやろうと思ったのに」

「こっちはそう簡単に死ねないんだよ、馬鹿が」

 左肩を押さえ、レアティーズは距離を保ったままこちらを見すえた。オフェリアもまた、傷ついた胸部に手を当てる。血。斜めに切り裂かれたフェルト・クライダーの中から出血をしている。縛っていた紐が切れたのか、はだけた胸と傷口が露出している。軽い傷だ。そう判断した。

 裾で手についた血を拭き取り、再び剣を握った。互いに、軽傷。いや、レアティーズの傷の方が重いだろう。

「――――もういいから、さっさと消えて。そこはお前がいて許される場所じゃない」

 走った。体勢は、低く。一瞬で距離を詰め、突き。弾かれる。弾かれた剣を引き戻し、乱暴にぶつけた。

「不幸ぶるなよ、弱虫。泣いて謝れば置いてやってもいい」

 両手で握る。思い切り、構えた敵の剣にぶつけてやった。一度、二度、三度と繰り返してぶつける。

「オフェリアは私だ。お前じゃない」

「誰がオフェリアでいてやったと思ってる。怨むんならゲルトラウデにしろ――――!」

 手が伸びる。弾かれた剣。ぐい、と伸びてきたレアティーズの左手が、オフェリアの胸に触れた。割れた傷口を抉り出し、掴む。痛み。激甚の痛みが全身に走った。思わず、顔が歪む。闇雲に剣を振り上げ、下ろした剣は、しかし敵の剣に防がれる。左手を右手で掴む。引き剥がそうと、力を入れる。

 ふ、と。敵の姿が消えたと思った。地面が見える。強烈な膝蹴りが、傷ついた胸に入っていた。腰が折れる。口から、涎とも吐瀉物ともとれる不快な汁が漏れた。

 死ぬ。思った。体が反応する。剣を持ったまま、肩口から敵にぶつかる。そのまま抱きしめ、転がす。倒れる。馬乗りに。

「怨んだ。ゲルダも、お前も、世界も神さえも私は怨んだ――――」

 首を掴み、言い聞かせるように怒鳴った。

「過去にしがみつき、失われたものを取り戻そうとする、お前が、馬鹿だろ」

「何を」

「俺だって過去は無いがな、オフェリア。お前と違って後ろは見てないんだよ馬鹿が――――!」

 振り解かれる。力では、レアティーズが上。組み伏せられる前に立ち上がり、剣を振り下ろす。必死の形相で弾いたレアティーズは転がり、距離をとって立ち上がった。

 一足では届かない間合い。息を、思考を落ち着け、冷静さを求める。剣。持ち上げる。構える。痛む胸は、体のものか、それとも心の痛みか。よくわからない。しかし、この闘いの決着をつけるのは、言葉のような気がオフェリアにはしていた。

 今のところ、武芸では互角だ。腕力をカバーする技量。体力が尽きたほうが、負ける。そして心が折れたほうが、負ける。

 

「俺はレアティーズ・カデンツァだ。そう言えなかった俺の悲哀が、お前の悲哀に負けるものか」

 

 群集が、少し、ざわついた。初めて名前を叫ぶ男。その顔はどこか晴れ晴れしく、充足を感じさせる表情だった。毅然と剣を構え、オフェリアに抗する姿。

 折れそうな心を、奮起させる。負けられないのは、こちらも同じ。

 

 名を叫ぶ。ようやく、名を言えた。

 痛む左肩を庇うように、剣を構えた。オフェリアの剣には、力があった。積年の想い。重い一撃に乗せられている感情が、力を凌駕しているのだ。しかしどこか、暴れるような、暴走するような攻撃だった。

 確かに強い。だが、隙も見える。

 徐々に距離を詰める。敵の構えは、上段。剣術の技量は敵が上かもしれない。あの刺突攻撃は決して自分には真似の出来ない芸当だ。先の三段を避けられたのも偶然だろう。避けきれず、被弾した。もう一度、螺旋のように巻き込む三段の刺突が来れば、おそらく避けられない。

 肩を開き、威圧するように上段に構えるオフェリアの姿。胸がはだけ、完全に乳房が露出している。その姿に卑猥さは無く、まるで女神の如き神々しさだけがある。

 近付く。斬撃か、刺突か。束の間、悩んだ。敵は動かない。微動だにしない。気力が満ちているのだけがわかった。踏み込めば、剣は届く距離。神速の突撃が来る。突き。見える。

 振り下ろす。フェイント。オフェリアは切り下げた剣を胸の前で止め、そのまま猛烈な突進に変えた。突き出してくる。弾けば、第二撃に間に合わない。防ぐにはどうする。左右のステップも間に合わない。レアティーズは構えた剣で、叩き落した。力を籠める。勢いに乗せた剣を、強引に押さえ込む。

 下がった剣先が、震える。双方、共に渾身の力で。持ち上げようとするオフェリアの剣を上から押さえる。ずい、と体を寄せる。肩と肩がぶつかる位置。しかし両手はふさがり、少しでも力を緩めれば切り上げる斬撃が来るだろう。

 加減を加え、徐々に剣が持ち上がってくる。顔の横まで達する。引き抜いても、この距離では突きは出来ない。

 スライド。刃を滑らせ、刀身が削れて火花が散った。前に押し付けるように滑らせ、そのまま敵の左肩に叩きつける。鍔で止まる。手首を入れる。前に倒す。オフェリアの体が横へズレた。こちらも動く。ステップで左へ、左へと移動しながら、二人で円を描いた。

 攻防、共に成熟し。完璧な均衡の上に、勝敗は見えず。

「帰りたい。でもお前がいた。だから、帰る家など無くなっていた」

 剣が、抜けた。オフェリアが大きく後退し、勢いをつける。来る。

 刺突。防ぐ手立てが、無い。レアティーズは手を離し、左手を前に突き出した。手の平。突き刺さり、抜ける。眼前で止まる。剣を、掴んだ。血がぼとぼとと零れ落ちる。呻き声を出しながら、左肩を開いてオフェリアの剣を左へ退かした。

 敵の涙は、わかる。その悲しみ、感じられる、理解できる。それでも、死にたくなどない。負けるわけにはいかない。勝利。望むのは、このいつも上を行く親友に、勝つことのみ。

 右手を、振った。鮮血。神装を切り裂き、大きく胸を割る一撃。先の傷を上書きするような一閃。しかし先ほどより深く、強く、オフェリアの体を捉えていた。返り血が、レアティーズの顔を濡らした。

 膝が折れる。左手から、剣が抜けた。それでも、敵は未だ不屈。倒れながらも剣が真横に振られた。防ぐ。鋼の音。火花が見えた。

 右肩に痛み。オフェリアの剣が、高音と共に、折れた。半分に折れ、飛んだ破片がレアティーズの右肩に深く突き刺さっていた。後退する。右肩に傷ついて血まみれの左手を添え、折れた剣を引き抜いた。血が飛び出る。

 鮮血に濡れた女神。両膝を折り、祈るような姿勢で。しかし見上げる蒼い瞳には力がある。

 祈りの手。折れた剣を逆手に持ち、手首を合わせる仕草。気付いた時には、遅かった。目の前を蒼い極光が埋め尽くす。光が、体に触れてくる。宙。飛んでいた。舞台の端まで飛ばされ、背中から柱にぶつかった。

 焼け付くような胸の痛み。全身が、軋む。仰向け。立ち上がれない。動けない。生命が、活動を停止していく。倒れていた。視界。同じように舞台に倒れ伏したオフェリアが見える。

 立ち上がらなければ。この勝負に、決着を。先に立ち上がり、勝たなければ。必死に体を動かした。横に転がる。敵も同じだ。うつ伏せに倒れた体を、必死に動かし、腕を立てて起き上がろうとしている。

 腕が動かなかった。痛みが、動きを止めている。仰向けに戻る。腹筋の力だけで、気力を奮い立たせて起き上がる。足はオフェリアの方向。起き上がったレアティーズが見たものは、胸に手を当て、すでに立ち上がって幽鬼の如く歩み寄る敵の姿。

 初めて、敗北を感じた。膝を立てる。オフェリアが来る。折れた剣を手に、乱れた長い金髪を垂らし、表情を隠した鬼が来る。

 思わず、後ろに重心が移動した。恐怖が、後退しようとしたのだ。背に柱。後頭部を柱に押し付け、立つことを体が諦めた。逃げる。不可能だ。ここで、負けて、死ぬのか。

 折れた敵の剣を見た。銀色。ヴァイゼル・トレーネではなかった。あれは、見覚えがある。確かオルフェオ・フォーレが使っていた――――ああ、俺を殺した剣か。どこであんなものを、手に入れたのだろう。父から奪い取ったのか。ならば、勝てないのも頷けた。

 死が運命。二十年前と同じ運命だ。

 目を閉じた時、歌曲が最高潮に達し――――観客のざわめきが聞こえた。

 

 最初は息を飲むような美しさがあった。呼吸を忘れ、見惚れてしまうような剣の舞い。力と力のぶつかり。磨き上げられた技量。レアティーズの豪快な斬撃、オフェリアの迅速な刺突。勝負の行方は、全くわからなかった。

 武芸を志した者ならば、凄さがわかったはずだ。強さだけを追い求めた技術。それは時に凄惨な場面を作り出し、使用者を鬼と変える。だが、対峙する両者、共に完璧とまで思えるほどに昇華させた技術ならば。衝突は危うい均衡の上、究極の技量が美しくさえ見える。

 頂上決戦とはまさにこのこと。誰もついていくことが出来ない。武術で勇名を馳せた男たち。リゴレット・リエンツィ、ティア・ヴァーグネルといった猛者たちでさえ、感嘆の息を漏らした。異次元の闘いだ。止めに入るどころか、目で追うことが精一杯なのだ。

 観客はアリアの歌声に酔い、その音楽に熱くなり、頂上決戦に興奮する。誰一人、歓声をあげなかった。呑まれているのだ。舞台が作り出す空気。二人が作る異次元に飲み込まれて、声はおろか、呼吸さえ忘れてしまう。

 悲しく、愚かな、闘い。されど、誰も笑えなかった。

 闘いは次第に苛烈さを増し、荒々しいものに変わっていった。均衡は疲弊によって減算され、手傷を負ってバランスは崩れる。拳、膝、肉体を使ったラフ・ファイト。極めた美しさから、必殺の意志へ。血が飛び、肉が割れ、怒声が飛び交う舞台になる。

 痛々しい光景が繰り広げられる、血煙の果て。遂に――――決着の時が訪れる。

 二人が倒れ、そして起き上がる。立ち上がったのは、やはり、オフェリア・ルートヴィヒ・ガートルード・ヴァン・フォーレだった。

 当然の帰結。これは、本物が偽物を打倒する物語。ルートヴィヒがオフェリアを取り戻すストーリー。ならば、レアティーズは敵役でしかなく、敵は滅ぼされる運命にある。つまり、この決着は当然のことで、心のどこかで理解し、納得する。

 納得出来なかったのは、ただ一人。

 飛び出した。座席を蹴り、観客を割り、舞台へ飛び込む。上半身の前面を血に染め、ゆらり、と歩くオフェリア。目を閉じ、柱にもたれて呼吸を整えるレアティーズ。その中央に――――アデレードは乗り込んだ。

 どくん、と。心臓が軋むように鼓動を打つ。少し、痛い。張り詰めた緊張感。舞台の下と上では、あまりにも空気が違っていた。ここは、まるで別世界だ。死命の境界。背後から沸き起こる喚声を受けながら、アデレードは左右を交互に見る。

 ――――決断の時は今。遠回しにしてきた答え。どちらが、兄なのか。

「ルートヴィヒ」

 名前を呼ぶ。向かい合った。視界に映る顔。金色のカーテンの裏にある、蒼い光。自分と同じ顔。鏡面の運命。オフェリアの顔が上がり、真っ直ぐにこちらを見すえてくる。

「アーリャ、頼むわよ」

 覚悟は決まった。アデレードは右腕を持ち上げ、胸の前に構えてみた。さらさら、と。風など無いのに髪が靡く。七色。観客が息を飲むのがはっきりとわかった。長い金髪が揺れながら、虹色に染まっていく。

 運命を決める役割。選択を委ねられた。答えは、決まった。オフェリア・ルートヴィヒを――――止められるのは自分しかいない。

「サーシャ」

 向けられる視線が、痛かった。

 それでも負けなかった。しっかりと目を見て、口を開く。運命など壊してやる。神など知ったことか。この私に、恐れはない。

 

「兄さんは殺させない。ルートヴィヒ、たとえ貴方が本物でも」

 

 第二ラウンドが始まる。それは予期せぬ運命。歯車を完全に狂わせる、血よりも濃い絆。時間。瞬間を繋ぎ合わせて作られる人生に、運命などというものはなく、意志だけが時間を繋ぎ、神に叛旗を翻す。

「私の目の前で、失われる命などない。だから、ルートヴィヒ。貴方の敵になる」

 小さく、ごめんなさいと呟いてみた。それが、少しでも、救いになればいいと思って。二十年の時は、レアティーズを兄と思わせるに充分だった。記憶を上塗りするのは、兄の笑顔だ。そして、寂しげな兄の姿だ。それはオフェリアではなく、レアティーズだった。

 二人とも兄ではいけないのか。甘えた答えだとわかっている。それでも、自分は甘えていたい。

「それで……いいよ。サーシャ」

 微笑む顔。諦めたような、それでいて、希望に満ちた表情。どうしてそんな顔が出来るのか。知っている。少しでも、この胸の痛みを和らげようと、罪悪感を消そうとして、どんなに悲しい答えでも、笑って受け止めてくれる、強さ。

 一万粒の涙と、一握りの希望。ああ、この人は本当に、報われることがない。

 空を切り裂き、地を這わせ。天地二段、神の焔が聖者へと牙を剥いた。

 

「……アデレードの兄は、この俺だ。ルテティアにいるのも、世界を引っ張るのも俺がやる」

 肩を借り、仰向けに倒れたオフェリアを見下ろす。足元に立った時、レアティーズはアデレードに離れるように言った。最後は、一人でいい。少しでも、この義妹が責任を感じないように。

 だらり、と腕が伸びていた。左腕が完全に死んでいる。右手で剣を持ち、構えようとした。痛み。右肩から発せられる痛みが、限界を伝える。意志。たとえ壊れてもいい。今。この瞬間だけ動けばいい。

「違う」

「血など繋がってなくていい。この二十年、アデーレを見てきたのは俺だ」

 誰にも渡さない。血縁など無くても、妹だ。血よりも濃い絆。ただ血縁であるというだけで、二十年間何もしてこなかったオフェリアが兄になるなど、許せなかった。それほどまでに、過去が要るのか。人生に過去は要らない。未来だけがあればいい。そう、信じている。

 

「――――私は、お前にならサーシャを任せられると思っていたんだ」

 

 視界が、思考が白くなる。何を言われたのか、わからない。オフェリアは――――何を願っているのだ。レアティーズに、アデレードを任せる。それはきっと、兄妹としてではなく。生涯の伴侶として。自らの妹を、親友に託したかった。

「嘘だ。そんなこと、思うはずがない――――!」

「私がお前に、嘘を言ったことがある?」

 何を求めていたのだろう。何を欲していたのだろう。オフェリアは、どうして。心のどこかで、オフェリアは自分を認めていたのではないか。ルテティアに帰りたいのなら、いくらでも手はあったはずだ。それをしなかった。理由は様々だろう。しかし、手は打たなかった。

 ひとつの答えがレアティーズには浮かんだ。

 この闘いは、オフェリアを決めるためでも、アデレードの兄を決めるものでもないのではないか。

「俺とお前は親友だ。もし意見が違ったら、ブン殴って言うことを聞かせるしかないだろ?」

「同感。世界も何も関係がない。私と、お前。二人で覇権を争おうじゃないか」

 足払い。体が崩れた。オフェリアが圧し掛かってくる。

 そうだ。これは、単なるケンカだ。相手は友達。意見が合わなかった。だから、ケンカになる。負けたほうは勝ったほうの言うことを聞く。これは、そんな子供のケンカと同じだ。途方も無くスケールが大きくて、背負うものが重過ぎるだけで。

 思わず、笑った。幾つになっても変わらない。ルテティア・パリシオールムでオルフェオに怒られていた時と、何も変わらないではないか。三十歳を手前にして、こんな盛大な大喧嘩をやる。どこか滑稽で、そして痛快だ。

 馬乗りになってオフェリアの綺麗な顔面を殴りつけてやる。投げ飛ばされる。背中から舞台に叩きつけられる。骨が軋んだ。素早く立ち上がる。体がふらついた。しっかりしろ。自分に言い聞かせ、震える大腿を殴りつける。

 痛みを、忘れた。全てを忘れた。わかるのは、襲い掛かってくる大馬鹿者が友達だということだけ。負けたくない。力任せに剣を振るう。肩の痛みなど感じない。素早く、そして力強く体は動く。回避するオフェリアの肩を斬り、しかし頭部に強い衝撃があった。折れた剣の腹で、がつんと殴られたらしい。

 体勢を崩していたオフェリアの横っ腹に蹴りをくれる。倒れた。飛び掛ろうとして、滑って転んだ。床が血まみれだ。気付けば、レアティーズも傷を負っていない箇所などなかった。頭の裂傷。血が視界に入り、目が痛む。ごしごしと目を擦った。

 どうしてこんなことになったのだろう。今、どこにいるのだろう。何もかもがわからなくなった。意思は一つ。負けたくない。それだけだ。

 

 大きく、息を吐いた。オーバーヒートする心臓。落ち着かせることは出来ない。鼓動は速く、少しでも多くの血を全身へ流せ。この体を、一秒でも長く動かせ。

 全ての感覚が遮断されている。痛みなど興奮に消えて、疲労など高揚に消えて、体は戦いのための機械となっている。握った拳。絶対に剣だけは手放さない。踏みつけようとする足を回避し、転がって立ち上がる。距離が、開いていた。

 胸部の出血が特に酷かった。眩暈がする。きちんと立っていられない。視界が、歪んだ。レアティーズ。アデレード。アリア。何だ、皆いるんじゃないか。父と母はどこだ、とオフェリアは周囲を見渡した。いた。最前列に座ってこちらを見ている。

 休んでしまった。立ち止まると、もう二度と動けなくなりそうだった。だが、このまま破裂してしまうよりは、少しでも力を溜めるべきだ。おそらく、次が最後の一撃。それで決める。次で、決着とする。覚悟。伝わったのか。レアティーズは距離を保ったまま、頷いた。

 前髪を流す。息が、少しずつ整う。全てが整う前に、決着を。

「逝った後は任せる。好きにやるといい、レア」

「面倒を押し付けるなよ。俺は言うことないかな。お前に任せれば全て安泰だ、オペラ」

 一瞬だけ、笑った。

 最後の力。折れた父の剣を持つ左腕に、全力を注ぐ。レアティーズも同じだ。動かない左腕を捨てて、片手で剣を構えた。ここにきて、不利。フォーレの想いが乗った双子の剣。こちらは、折れてしまっている。届くだろうか、折れたままで。

 倒れる。前足を、踏み出した。それが最初の一歩。加速。倒れないよう、倒れないよう、足を前に出していく。それはまるで、走っているようにも見えることだろう。

 どこに向かって走っていくのか。ここは、もう終着点だ。ここに立ちたくて、走ってきた。ならばもう、走る必要などないのに。ゴールは、もうしているのではないか。ルテティア・パリシオールム。故郷。そして、我が家。帰って来た。

 妹がいる。手をあげて応えようとする。何かが、すれ違った。終着点についた。すれ違ったのは、きっと、ゴール。今、やっと、ゴールに達した。だからすれ違っていった。

 ああ。なら、もう。頑張らなくていいのか。

 膝をついた。家にずっと帰りたかった。休める家。心落ち着く家。自分の、家。帰って、そして、眠りにつく。故郷に帰って、家に帰って、自分のベッドで眠りにつきたかった。体は疲れ果てて、心は引き裂かれていて、何も考えず、何もせず、ただ、眠りたかった。

 もう、ここは自分の家なのだ。前に倒れる。暖かな歌声。アリアの声。そう、家ではいつもアリアが歌っている。気持ちの優しい声。目を閉じて、音に体を委ねる。眠たくなってきて、体から力が抜けていく。この安らぎが、ずっと欲しかった。ずっとずっと、欲しかった。

 首が持ち上がった。頭の後ろに柔らかい感触。枕だ。誰かが枕を当ててくれた。目を開ける。誰が世話をしてくれたのか、不思議だった。

「――――サーシャ」

 妹。私の双子の妹。可愛い妹。愛している。だから、守らなければ。そう思った。

 でも、少し、疲れたから休んでもいいかな。

 

「ただいま」

 

 目を閉じる。言えなかった言葉。ここで、この場所で、この人に、言えなかった言葉。ただいま。ようやく帰って来られた故郷に。胸いっぱいの感謝と、希望を。

 雨が降っている。

 顔を濡らす雨の雫は、前と違って暖かかった。

 

 

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