手は誉と光を掴み、願いの野山に我は立てり。
挫折を知らず、絶望も無く。
ただ亡くした兄の声が聴こえた。
それは、歌に似て。
求めの声は悲哀が生んだ歌に似て。
真実を手にした少女は、今日より歌劇の壇に立つ。 求めよ。さすれば、叶わん。
手にした願いの重さと、亡くした夢の重さの、その為に。
それを、止めた。
ならば。私も同じく、全てを失ってしまえばいいと。
1
薄暗い路地で、私は目を覚ます。
どこか見覚えのある路地だ。リューヴ西部にある場所だ。ここを、何故か私は知っている。この匂いも、この風景も見たことがあるのだろう。それは、いつか。誰かの助けを得て、泣き叫んだ日のこと。
頭痛がした。頭が割れる、というより頭の芯を収縮するような痛み。立っていることが、辛い。どこかの民家の壁に手をつき、膝を折って地面に座り込んだ。視界が歪むように霞む。はっきりと前が見えなくなる。痛みは、治まらない。
路地の先に、公園らしきモノが見える。陽光は民家と民家の屋根に遮られ、暗い。公園も同様に暗く、その入り口に初老の男がいるのを視認した。男は笑っているようだ。苦しみもがく私を、笑っているようだ。不快。
彼は言った。どこか痛いのかい、病気なのかいと問う。答える言葉は無く、私は痛みに屈するように、頭を垂れた。地面が見える。かすかに濡れた、汚れた大地。普段なら触れようとさえ思わない場所。だが、耐えられないのだから仕方がない。
視界に。にょき、と皺のある手のひらが見えた。差し出された手のひらには、小さな試験管。何か理解出来なかったが、それが私を救うものだと思った。顔を上げ、男の顔を見る。彼は先ほどと同じく、表情を和らげたままだった。
どうやら、薬をくれるらしい。鎮痛剤か何かだ。だが、私はわからない。試験管の薬剤をどうすればいいのかわからない。救いを求めるように男の顔を見続けていると、彼は薄汚れたズボンのポケットから小さなスポイトを取り出した。スポイト、と呼んでいいものか。よくわからない。
試験管の中にスポイトの細い先端を突っ込み、少しだけ中身を搾り取る。量にして、二、三滴だろう。どうやらそれを、直接眼球に落とすらしい。それで眼の神経を伝い、鎮痛剤となる。システムを理解し、私は顎をさらに上げ、屋根しかない空を見上げた。
「オルフェオさん――――お父さんも使っていた薬ですよ」
名を呼ばれ、父を思い出そうとする。よく、わからない。父親がどんな顔で、どんな人だったのか。私は知らない。ただ早死にしたから、病気だったのだろう。母もそうだったのだという。私は安心して、落ちる滴を見た。
――――刹那。世界が爆発した。
燃えている。全てが燃えている。屋根なんか 吹き飛び、赤く火照っている。炎だ。灯せ、炎だ。目の前の男 も燃えている。もちろ ん、自分 さ え 燃えている。まず腕。それ
から胸を伝
い、体内を巡り、炎は眼球から脳髄 を 焼き尽くす。息苦しい。そ れ も当然だ 。体が 燃 えてる のだから、熱さ で息 が苦しくなる。頭痛などどこ
かへ消 えた。燃え
る世界で、ただ、高揚感だけが 萌えた。走 り 出 しそうな気 分。フルマラ ソン を走り きったの に も関わらず、まだ走れる。充 実 感だけが妙に残って、もう一度走 りそう。ああ、何というシアワ セ。私はただ地べたに座っているだけで、こん なにも――――――幸 福 だ 。
「ならテスト。君のお父さんはここで射殺されて捨てられたワケですけど、どう思う?」
「アハ、羨ましい。ヘ、エヘ。きっと笑顔で死んだことでしょうネ」
「合格というコトで。じゃあ、そこに行ってみますか」
私は立ち上がり、真っ直ぐ公園に向かう。途中、何度も壁にぶつかった。壁がぶつかってくるとは、何とも素敵な人である。それそれ、求愛行動。本気でベタベタしてくるのだ。まァ悪い気はしないっちゅーの?マジ世界は私を大好き。モテモテってきっとこういうのでありまして、そりゃあ、仕方がない。どう考えたって世界一シアワセだし。やっぱりそこんとこ重視で。よろしく。公園は廃棄場。黒いゴミ袋に豪快にダイヴ。やはり人間、横になるのが楽ちん姿勢。多分、お隣のヤマダさん家の昨夜の夕飯に頭から突っ込んだ。凄まじくいい匂いは芳醇。めいっぱい空気吸い込んで深呼吸。やべえ。
「……何してるの、サーシャ。早く帰ろうって、またカペラさんに怒られるじゃない」
「黙りなさい。兄しゃまに言われずとも、わかってます」
オフィリア・ルッツ・フォーレが耳元で怒る。アイツはいつもそうだ。ビビりすぎ。たまには大胆に行動してみろ。そうか、家はルテティアだった。暗くなるまでに帰らないと怒られるかもしれない。ああ、ここはリューヴか。そうだ。何をしているのか。ルテティアに戻らなければ、心配する者もいるだろう。家族はまず不安になる。
何故、こんな場所にいるのか。ゴミに囲まれた場所にいる必要など無い。早く帰ろう。そして体を洗い流し、この臭気を落とそう。
「――――貴方、誰ですか。目的は?」
目の前の男性に問う。彼は少し驚いた様子を見せ、そして首を横に振った。立ち上がる。こんな場所にいる意味など無い。無言でいる男の脇をすり抜け、去り際、手にした試験管が垣間見えた。
欲しているわけではない。先ほどの頭痛がまた起きるのではないか、という恐怖があるだけだ。欲しているわけではない。幸せを得るのは自身の行いによって昇華するものだ。欲しているわけではない。欲してない。欲するわけがない。欲してなどいない。欲しいと思わない。欲しくはない。欲しいと思っていない。欲しくない。欲していない。欲しいと思えない。欲しいと考えていない。欲しくてない。欲しくてない。欲しくて――――たまらない。
また先ほどの気分になるのなら、それは得がたい幸福だ。
「欲しいのかい?なら、あげますよ」
彼は気軽に、物欲しそうに見つめている先の試験管を振りながら、答えた。今度は試験管ごと渡される。ついでスポイトもくれた。早速、見よう見まねで水滴を拾い、点眼してみようと試みる。再び、屋根しかない空が。見えた。
気分が、やや落ち着く。それから、再び世界が燃えた。アツい。熱い。高揚感が強すぎて、胸が燃えるようだ。かきむしるように衣服を破り捨て――――そこで意識がオーバーヒートした。
オーケストラ。痛みで私は目を覚ます。
騒々しい公園。髄膜から交響楽が鳴り響く。コーラスが下品でうるさい。頭痛は無くなっている。ただ痛むのは、体内。否、胎内。
荒い息が漏れる。喉の奥から絞り出されるような声が出る。知覚する痛みが臨界に到達し、耐え切れず、唾液やら涙やらを噴出しながら掠れた声を撒き散らす。両手をゴミの大地に。四つん這いの姿勢で、まるで嘔吐するように。
息は四方からも漏れている。どうやら自分一人ではないようだ。体が重い。起き上がることが出来ない。そもそも、痛みで立ち上がることが出来ない。同調のリズムが刻まれる度、激痛が走る。どうやら、打楽器は私自身らしい。
混濁する思考で、汚濁の世界を見る。涙は止まらない。その涙が、点眼されたものか、あるいは自身から生まれたものか。おそらくは、前者。何より、この激痛を快楽と感じる、おかしな肉体に違和感を覚える。気付けば、私は笑ってしまってさえいる。
おかしな話だ。
浮浪者の溜まり場で、生ゴミに囲まれながら強姦されて、泣き笑っているとは狂人ではないか。
「いや、せめて逃げようってば。俺まで痛いのは理不尽じゃん」
「アハハ、だーめ。イヤならその髪の毛、切ればいい」
観客がうるさい。周りはうるさい。股から零れ落ちる血を見ながら、そういえば髪はもう切ったのだと思い出す。背中に抱きついているのは、きっと顔も知らない誰かだ。それで少し、嫌悪感も取り戻した。パーカッションのようにエンドレスで打ちつけられる尻も、そろそろ痛みを覚える頃。
ああ、何だかもう。
どうでもいいと思ったさ。
「ほら、じゃあ目、覚めろ。お前の寝起きの悪さ、サイアクだし」
歌劇の真っ最中に、私は目を覚ます。
どうやらパーティに出遅れたらしい。アリアの歌が下から聞こえる。ああ、そうか。今日は兄の神皇就任の日か。すっかり寝坊してしまったようだ。誰も起こしてくれないのは、日頃の寝起きが悪すぎるせいか。それも、今日は特別。酷い悪夢を見せられたからだ。
今でも。はっきりと恥部に残る、異物の触感。くそ、サイテー。
「……まだ、頭がボケてる――――」
疼くように痛む。ゆっくりと歩きながら、何となくテラスに出た。真昼。上から物音が聞こえる。霞む視界の中で、煙る二人の影。私は胸ポケットからスポイトを取り出し、点眼した。
重い体を引きずり、隣の部屋からテラスに出て、階段を上る。ねっちょねっちょと股間をこねくり回されるものの、気にしない。おそらく、どこかの聖女フェチが背後霊の一人にいるのだろうよ。
「血ぃ垂れるから止めて欲しいんですケドね」
二人分の重さで、階段の上へ。オリュンペイオン大聖堂の屋上。そこに二人の男性が立って待っていた。二人とも血みどろだ。相変わらず、この二人は仲が悪いらしい。
もう何だか面倒くさくなる。倒れる、というか押し倒される。物音で二人が振り返るのが見えた。シャツ一枚でレイパー背後霊を引き連れた妹がぶっ倒れれば注目もするだろう。
んぐぅ、と息が漏れる。二人はのこのこ歩いてきて、観賞することもせず、その手に握る剣を振り上げる。ぬふぅ、と絶頂迎えて射精する背後霊さんに向け、二本の剣が突き立つ。背を抜き、腹から飛び出し。二人の兄貴は犠牲者のことなど考えず、まして妹の身の安全さえ思わず、小腸に到達した刃の痛みを快楽と知る。
胎内に溢れる汁。体内から漏れる汁。もうそこらじゅうピンクの汁で溢れまくり。
「よしゃ、昼飯にしよーぜ、オフェリア」
「……ん、了解」
オフェリアとオフェリアは折り重なった二つの死体の上に腰掛け、パンなどを取り出しランチを開始した。
2
「――――我慢だ、俺。オペラの妹、オペラの妹、オペラの妹」
手を出せばブチ殺される。恐怖をかみ締めるように、その名前を口にする。
眠りこけるアデレードを見ながら、ため息を漏らす。艶っぽい嬌声を上げたかと思えば、絶叫をする。さらに股間を手で押さえたり、兄貴の名前を呼び続けたりと寝ぼけレベルは比較にならないのだ。これで寝ていることに、別段、驚きはしない。
半分は目覚めているだろう。寝ぼけているだけだ。後もう一押しで覚醒するのだが、起きたら起きたで面倒になるのは目に見えている。アデレードは変態でした、と記憶するだけで見捨ててやろう。この寝ぼけっぷりは、話に聞く伝説の寝起き悪さに匹敵する。
微笑ながら、最後に一つ、嬌声を漏らしてアデレードは覚醒する。ゆっくりと半開きの目。それは青く、やはり兄妹なのだと思い知るには充分。何より、顔の作りが似すぎている。
「起きたか、変態」
「ふ。にしても、君のズボンはキツいのではないかね?先ほどから股間の辺りがやけに膨らんでいるぞ」
隣に立つ嫌味を放置し、むくりと体を起こすアデレードに注視する。寝ぼけというか、これだけの痴態を披露されれば、致し方の無い反応だ、と心の中で反論する。そもそも。この妹君は世界最高峰の美人だということを忘れてないのか、隣。
アデレード・フォーレと初めて正対する。呼び名はアレクサンドラ。愛称がサーシャ。それは隠している名前らしく、一般人には知られていない。だからこちらも、アデレードと呼ぶしかない。寝乱れ美女はそろそろ覚醒してきたようで、胸のあたりをまさぐりながら顔を上げた。結局、そんな仕草も目に焼きついて離れないのだが。
「――――お早う御座います。次はどこで、どんな夢でしょう」
「残念、変態サン。お望みの夢ではなく、現実だよ。お姫様」
彼女は顔をしかめ、体中の匂いを嗅ぎ始め、それからまた股間に手をやり、縮こまるように背を丸め、さらに震え始めた。この寝ぼけ具合は完全に兄を超えた。
見れば、彼女はいつぞやの少年のように。静かに音もなく、泣いていた。
白い衣装は誇り。代々、天使の称号を継承する「ヴァン・フォーレ」の次女。容姿は神性を帯び美しく、幻想そのもの。受け継がれる大海の瞳、特徴的な唇は艶やかに、膨らみ微笑を絶やさない。母性を表す大きな胸、驚くほど細い腰。細身だが女性らしい肉付き。おそらく、見惚れるなと言うのは無理だ。
地に堕ちた天界の聖女。衣装は黒んで汚れ、口は固く結ばれ、瞳は虚ろに、細められ。美しく長い黒髪は乱れ、かなりの本数が抜け落ち、見るに耐えない。汗まみれの体はやや異臭を発し、数日間を独房で過ごしていたことを伝えていた。
ここは監獄。氷雪の星、その地下に設置された監獄。
「お尋ねする。貴女が、アデレード・“アレクサンドラ”・ガートルード・フォーレか?」
オペラから聞かされた妹君の本名を呼ぶ。このフルネームを知るのは、数少ない要人だけだそうだ。家族、並びにファンダメンタリストのうち数名だけが知る。名を呼ばれ、虚ろな聖女はわずかに顎を上げ、そして頷いた。
「オフェリア・“ヴァン”・ガートルード・フォーレの遺言に従い、ここからアデレード・フォーレを救出する。フィンラル脱出後は、リゴレット・リエンツィと合流する。それからは、自由だ。我々としては、助力を願いたいものだが」
オペラは、消えた。世界から消失した。残されたのは、オフェリア・ヴァン・ガートルード・フォーレだけだ。無論、偽物だとわかりきっているあの男を放置しようとは思っていない。戦力が結集しつつあるシリウス近郊で、衝突は間近。オフェリアはそこに何かを狙っている。
アデーレ・サーシャは全てを失い、オペラ・ルッツは消えた。皮肉なことに、本物だけがいなくなってしまった虚偽の楽園。我々だけでは、取り戻せない。今こそオペラがいれば、と思う。ならば彼女なら、どうだ。アデレードならオペラの代理になるのではないか。何せ、同じ存在だ。
「……よく、思い出せない。何故、私はここに?何故、こうなった?」
「リエル・ハイネの裏切りだ。彼は君とレーヴェを誘拐した。結果は先のとおりだ」
ようやく。アデレードが正常な認識をする。ベッドから立ち上がり、周囲をぐるぐると見回す。ここは監獄、そして独房。だが訪問客の二人にとっては、そこは美しく見える。
セリア・ウェーベルン・イザークは手短に説明を開始する。ここで隣に立つ青年が、一切口を開かなかったのは行き届いた配慮からだ。アデレードとイザークの相性は良好なものだろう、とあらかじめ念押ししていたオペラのおかげか。アデレードはすんなりと自身の立場と状況を理解した。
リューヴ星系のさらに、深奥。フルジアから最も遠い場所に位置する惑星がある。そこは無人の惑星で、万年雪の世界が広がる。環境は最悪。およそ生命が住むには相応しくない気候の星だった。名をフィンラル。氷雪の星は禁固刑に処せられる、比較的重罪の囚人を置く刑務所がある。
刑務所、とは相応しくない。大深度地下に展開される居住区が、ここだ。上は雪と氷の大地。気温は氷点下200度に匹敵する。特殊な防寒具が無ければ、即座に凍死する。この劣悪な環境こそが刑務所であり、脱獄はそのまま死に繋がる。
故に。ここでは自由がある。外に出られない禁固刑の囚人にとっては、限られた自由を謳歌するしかない。下層は雑居、中層にはここのような独居房と看守、関係者の部屋など施設の設備が置かれている。通信施設はまた別にあるようで、ここからは行けない。上層は航空機の格納庫と通信装置があり、囚人は入れない。
「出入りは自由。だからティアが来たのだ。タイタン人並みに、体は頑丈だからな」
隣の青年が頷く。ティア・ヴァーグネルはあらかじめ言われていたとおり、オフェリアの消滅を知りティールから駆けつけた。セキュアの艦艇を拝借し、おそらく近くに停泊してあるのだろう。出入り自由な刑務所。逃げようと思えば、いつでも逃げられるのだ。行き着く先は死のみ、ではあるが。
「待って、少し時間をください。仮に私が誘拐され、ここにいるとしても。聖女を囚人にする馬鹿がいますか?」
「……参った。どうする、ティア。彼女とレーヴェを同じと考えた我々が間抜けだったようだ」
質問に答えず、イザークは本気で失望した。ティアも同様に、厳しい視線でアデレードを見ている。
「だったら。アンタの兄貴はどうするんだよ。オペラは聖人だというのに拉致されて消されてる」
彼は、一言でも。立場を取り戻したいと言うだろうか。
違う。それは、オペラではない。オペラ・レーヴェは現状を受け入れ、認め、なお聖人であろうとした強き人だ。だからこそ、そこに神を見た。誰にも媚びず、誰にも弱さを見せず、孤高に立つ強さを見た。故に頼る。人は頼ろうとし、願いを託し、それに応え続けてきたのだ。
オペラとアデレードは違う。むしろ、彼女はオフェリアに近い。
「いいから来いよ。アンタに、『現実』を見せてやる」
少年は、彼の「誇り」と同時に「絶望」であった眼鏡を上げ、素顔を消す。
ゴーグルを通せば。彼のように強くなれるのではないか、という憧れと共に。
「THE PHANTOM OF THE OPERA、地球にある、ガストン・ルルーが発表した古典ミュージカルだ。まぁお前の場合、THE
PHANTOM OF THE “OPELA”、なのだろうが」
目の前に立つ青年を見る。怪人。あるいはファントム。幻影のごとく世界から消えた青年。青い瞳がわずかに上下し、落ち着き払った様子で椅子に座る。背後には彼が討ち取った死体が三体ほど、折り重なっている。数は合っている。
「文学の話などどうでもいいさ、博士。で、次は何を?」
「ラスト・ワン。アルティメットにしてオリジナルの欠片を監視すること」
アデレード・フォーレの脱獄を耳にした。無駄なことを、と思う。彼女を助けるために、あのような自由な施設に入れたのだ。無駄に他者と接する軽犯罪者の監獄では苦労もあろうと思ってのことだった。フィンラルにいる限り、生命と自由の保障はあったのだ。
兄妹決戦、というのも悪くない演出ではある。ただ、余興に過ぎない。オフェリア・フォーレが頂点に立った今、全てを解決に導くのはオフェリアだ。それを全力でサポートすれば、よかった。
ふと、オペラの背後で物音が聞こえた。見れば、まだ一人は生きているらしい。医師は立ち上がり、近寄ってみた。三体のうち、一体は寝巻き姿で腹部に二箇所の創傷。外傷性のショック死。もう一体は右腕の完全切断から来る出血死。三体目は全裸で酷く損傷しているが、まだ息はあるようだった。
瞳孔は散大。何か膜のようなものが張っている。麻薬だろう。鎮痛効果を生み出し、キチガイのまま生き続けるらしい。
「臭い。捨てておいで、ファントム」
聖女陵辱。
全身、特に恥部にこびり付いた大量の精液が異臭を発している。触れる気など起きない。ただ、ビジュアルとしては面白い。この映像を兄に見せれば、それはそれで面白いことになるだろう。しばし、考え。しかしやはり汚らしい聖女は捨てることにした。
「ああ、そうだ。その前に」
試したいことがある。医師は部屋の前で控えていた男性を呼びつけ、服を脱ぐよう指示する。聖女の汚れた手を握るよう伝え、従った直後、拳銃でその頭を撃ち抜いた。血と脳漿と精液が見事なグラデーションを織り成す。重なり倒れる死体を除け、効果を見る。
「……所詮、贋作か。額を拭いてくれる?」
オペラがアデレードの額に手を当てる。血痕がついていた。だが拭った後に、傷痕は無い。
聖女は、痛みを受ける者。痛みを共有する者。アデレードが陵辱されたという事実はとても面白い。今頃、脱獄後のアデレードはさぞかし悶えていることだろう。想像妊娠くらいは起きるかもしれない。
彼女は二度犯され、二度殺され、額を撃ち抜かれて三度目となった。記憶は確実に彼女を蝕むことだろう。そして反動でいつか、きっと壊れる。聖女には護り手が必要だが――――
目の前。護り手であるオペラ・レーヴェは薄く、笑っていた。
「――――あ。手が、汚れた」
3
箱庭から飛び出した人形は、自由を得て、同時に全てを失っていた。
結局。第三者、神様という傍観者がいたということ。運命と名付けるならそれもいい。他者に決定付けられる人生。オペラ・レーヴェもアデーレ・フォーレも同じだ。そこにあるのは、九年という年月の差しかない。
「――――よし、全員揃ったか。すでに我らは犯罪者だ。テロリストとでも呼ばれるのだろう。君らは自由、どこに行くも、ここに残るも、自由だ。ただし、残るのならば覚悟せよ」
合流地点で、イザークが周囲を見渡し一言、口にした。フィンラルからの脱獄チームと、サピリオからの脱獄チーム。さらに数名を加え、オペラが指定していた場所で会合する。そこは、シェルター。オペラがアンドロメダ領内で危機に陥った際に逃げ込むセーフ・ハウスだ。
アルフェラツ星系第一惑星。帰還の旅では寄らなかったが、中程度の文化水準を保つ小さな惑星だった。観光客は少ないが、他からの進出者が多い。顔馴染みでなくとも、怪しまれない街をオペラはリストアップしていたのだろう。
「合流はしないが、オペレッタがちょろちょろしてる。サポートにゼクスが入っているから、緊急時には頼れるはずだ。ヴェルクのレギュラー・メンバーはゼクスを除く序列五位以下がルテティアに待機中」
「歌姫がルテティアを出奔し、ニコラ=ミシェルを頼ってる。デルフィオーレの動きは全くわからんが、オフェリアはシリウス決戦を目論んでやがるな。四大天使のうち、健在なのはノア・リーティア一人か」
ティアとカントの二人が情報を出し合い、イザークがまとめる。フィアが注釈のように鋭く切り込む。無関係の人間から見れば、四人は実に息が合っている。また能力的にも相互作用が働いているのか、素晴らしい分析と推論を立てる。そんなハイレベルなミーティングを、アデレードは無言で流していた。
視線は、リビングに設置されたテレビモニターに向かっている。兄、オフェリアの神皇即位の式典。映っているのは、歳月を共に過ごした兄と、自分。戻るべき場所には、他の誰かがすでに座っていた。――――そう、何故か。今この瞬間も、アデレード・フォーレはルテティアにいるのだ。
目深にかぶった帽子で、視線を隠す。アレは、誰だ。私以外の誰でもない。ならば。ここにいるのは、何だ。
「……アイツが、初めて言った言葉を思い出す。神は死んだ、か。ずっと引っかかっていた。権威と権力は分離すべきもの。オフェリアは神政でも始めるつもりか」
「わからん。だが権威を一手に集中させ、決戦に挑むということは、覚悟したな。歴史の表舞台に上がる気だろう。リューヴ政府軍を投入したとして――――勝算があると思うか、フィア?」
「いえ、難しいでしょう。帝国軍はカメリア撤退後、全戦力を二分、ヴァルトラウト機甲師団長を太陽系、ヴェルブング外征軍団長をネアポリス星系に当てており、前線を太陽系で膠着、援軍、補給を遮断し、ネアポリスにて決戦をと考えています。二面作戦を展開する帝国軍に対し、現在SSU軍は防衛戦を基準に考え、攻め込むほどの馬力は残されていません。リューヴ軍がシリウスに投入され、ようやくネアポリスの前線を膠着させる程度でしょう」
簡単な数の計算だ。二つの軍団を持つ帝国に対し、一の軍団を二分して太陽系同盟は対抗している。ずるずると防衛戦を突破されるのは当然である。そこにリューヴ軍を投入したところで、二対二になるだけ。敗北が引き分けに変わる程度の変化しかない。
「……勝つ気が無いのでしょうね。私なら太陽系を突破しようと考えるわ」
テレビ画面を見上げながら、ぼそりとアデレードが言う。現実を目の当たりにし、帰れる場所など無いと知った少女の声。それは居場所を求めるように、助けを求める孤独な声だ。
彼女の分析は、実に正しい。攻めてくるのはネアポリス、引き分けにしているのは太陽系。勝とうとする敵に真っ向勝負を挑むのではなく、引き分けでいいと考えてる敵軍に全力で当たる。士気や勢いがまず違ってくる。精鋭で数も多い軍にぶつかっていくのは下策だろう。
「オフェリアが間抜けなのか、ツェルニーが阿呆なのか。ま、おそらくどちらでもねぇんだろ」
「最初から敗北を狙っている、とすれば。リューヴ政府軍がシリウスで敗北したならば、それは崩壊。アンドロメダの決定的敗北を招くことになりかねない。そこまで派手に負けないでしょう。と、すれば。トップが責任を追及されて退陣、とか」
行く場所など、どこにも無かった。もう一人の自分がすでに、家に帰っているなど。すでに疑念は消えている。今はただ、諦念と理解があるだけだ。頼れる人も、知らない。今までずっと、箱庭に住んでいた人形に。頼るべきものは、無い。
「推論だけではどうにもならん。では、一息入れよう。お姫様の処遇について、だ」
「アデレード。君に選択肢はある。まずアルエ家に保護されること。こちらはアリアもいる、ニコラ=ミシェルとも知り合いだろう?次にレプリカ・セイクリッドか。ただハイネの動向によっては、ノア氏は使えん。お勧めはしない。手段としては、レーヴェになりすましフルジアへ行くことも可能か。フィアがいれば何とかなるだろう」
「お断りします。私が信頼を寄せるのはオフェリア様であって、このような人ではございませんから」
冷たい視線と、言葉。怜悧なフィアの態度が、胸に刺さる。世の中は、勝手だとアデレードは思った。眠りから覚めてみれば、世界は一変した。誰も助けてなどくれない。だが、私が何をしたというのだ。罪も無いのに罰を与えられ、さらに蔑視を受ける。
フィアを見返し、こちらからお断りする。傲慢な亜人種だ。
「仕方ないだろ、お嬢様だぞコイツ。ま、ここはおとなしくアルエを頼っておけってな」
ニコラ=ミシェル・アルエ。リューヴ=レイスで四大天使の一人。その名を――――アデレードは知らなかった。
ディアスポラ。亡国の遺児たちは、星を出て流浪をする。利用されることを恐れ、星の民は世界に散り、名を消し顔を隠した。さもなくば、今のフォーレのように。時の権力者に利用されるか、あるいはその権威を利用する魔王となる。
一般人レベルの知識しかアデレードには無い。他にいるはずの星の民。その存在は知りつつ、どこにいるかは知らなかった。英雄オベロン、そして悪鬼オルフェオの後継者は。神となるか悪魔となるか。いずれにしても、普通ではいられない。
「おかしいぜ、ソレ。オペラには知識があった。それはアルエやハイネよりも劣るらしいが、少なくともアンタよかマシだ。オペラがルテティアでオフェリア・フォーレだったのは九歳まで、だったよな」
「……『サーシャ』は妹、と聞いています。それは双子の出生時の差ではなく、第二子が畸形により知恵遅れだったためだそうです。尤も。リューヴ人の知能は一般人を遥かに凌駕しますから、第一子に比べ発育が遅れている、ということでしょう。オフェリア様がフルジアに拉致された時点では、アデレードに知識が無かったとするのも理解がいきます」
理解出来ないのは、その後だ。十八年をルテティアで過ごし、情報操作を受けているとしか思えない。まさに箱庭。虚偽の楽園とはこのことか。そしてオペラ・レーヴェの知識量から考え、情報操作が始まったのはそれ以後、つまりゲルトラウデによるフォーレ家襲撃後、ということになる。
ここに来て、オペラがオフェリアであることに間違いはないと確信する。アデレード、オフェリアの両者に対する情報操作は、本物を隠蔽し、事件から逸らせるためでしかない。
アデレードは、事件当時は五歳児程度の知能しかなかった。覚えが無いのも、当然か。
「チ――――オフェリアの尻尾を掴める、と思ったが」
「前にも言いましたが、私の兄は私の知るオフェリア兄様でしかありません」
舌打ちするイザークが、初めてこちらを直視した。それだけではない。場にいた全員の視線を、確かに感じた。
「仮にオペラ・レーヴェが本物だとしても――――今更……どうでも、いいや」
笑うがいい。全てを失った汚らしいこの身を。
抜け落ち始めた黒髪、意志の無い澱んだ瞳、囚人服に身を窶すこの身を。
ああ、あの栄華に戻りたい。
4
「最低だな、あの女。あの顔でフザけたことを言われた日にゃ、蹴り上げたくなる」
眉間に皺を寄せ、不快感をあらわにした表情でカントが吐き捨てる。その意見には、同感だ。あえて何も言い返さず、イザークは歩調を合わせて屋上に停泊した彼の個人艇に乗り込む。スカラはフィアが乗ることになる。となると、このボロ船が今後の移動手段だ。
「フン、だが。オペラ亡き今はフォーレを担ぐしかないだろう。仮にも、双子なのだからな」
「どうだかな。お前はあの馬鹿女が成長するとでも?」
正直、期待は出来ない。状況はオペラと似ている。ある日、起きると全てを失い、世界が一変していた。おそらく絶望しかないのだろう。そして帰る家を嘱望するだろう。そこまでは理解も出来た。だが彼女は九歳の少年でも、敵国に誘拐されたわけでもないのだ。
置かれた立場を理解し、どう動けばいいか。行動を選択することが出来ない。そういう部分は、オペラと似ている。ただオペラに関しては、立場を理解し最善の行動を採る。もし今、ここにいるのがオペラならば。彼は我々の手を取り、同じ道を進めるだろう。
「……彼女とレーヴェは別人だ。そう割り切るしかない」
「期待しすぎた、ってコトか。それより――――」
髪の毛が抜ける、とは尋常ではない。だがオペラが前もって帽子をプレゼントに用意していたということは、予測はしていたのだろう。用意周到な彼のことだ。予防手段は無く、また治療法も無いという意味だ。
「とにかく、明確な目的と沿った計画を立てよう。オフェリアがアンドロメダを率いてシリウス決戦は間違いない。それが太陽系との二面展開なら陽動もあるが、戦線を二つにするのは無理だ。オフェリアの目的を阻止し、かつアンドロメダを優位にするにはやはり太陽系しかない」
深く、カントがため息を吐く。考えていることは同じなのだろう。太陽系の軍を引き連れ、オフェリアに加勢する。この作戦に「勝利」が含まれないのなら、勝てばいいだけだ。そして太陽系最強の軍は、タイタンにある。
リゴレット・リエンツィならあるいは。太陽系同盟の意向を無視し、独断でタイタン軍を動かせるコネクションがある。親友であるトリスタンを説得し、かつてのカリスマが再び決起する。そんなシナリオを、二人とも頭に描いているのだ。
「ま――――行くだけ行くのは構わんが。その前にお姫様の処遇だよ」
「知ったことか。一晩眠って、これ以上ウダウダ言うようならば拉致でも監禁でもしてやろう」
珍しく怒気を孕んだ口調でイザークは吐き捨てた。どうやら。彼女についての感想も、二人は同じのようだ。
セーフハウスで一夜を明かし、今後の方針を告げるとおもむろに一人が立ち上がった。自動で出来上がった朝食の席。フィアは早々と食事を終え、立ち上がってただイザークだけを見ている。
「では、これより私は本隊に合流します。一つ、好意として密告することは置いておきます。なおスカラは軍よりオフェリア様に委譲されたものですから、引き揚げさせていただきます」
忘れていたことがある。フィアはあくまで、オペラの部下だった。そのオペラがいなく、また目的が違った以上、フィアが本来の敵であるアンドロメダに助力するのは契約違反だ。厳密に言えば彼女はどちらにも属さないフリーランスのエージェントではあるが、彼女を味方につけるには高額の料金がいる。
引き止める理由は無い。ただ失念していただけ。カントとイザークはティアと三人で、どこぞの姫サマを連れてタイタンに向かわねばならない。それも比較にならないボロ船で。
「出世払いで味方してくれよぉ。オペラとお前を失って、代わりがコレじゃどうにも」
「好意としてそれも考慮しましたが、ヴェルクのレギュラーの大半がアンドロメダに買われた現状では不可能です。少し、ネタばらしをします。序列二位は消え、序列一位はアンドロメダに。序列三位はそこにいます」
フィアがティアを指差す。クンスト・ヴェルクは十人のレギュラー・メンバーがいる。序列の無い首領を除き、序列一位から九位までだ。四位のフィア、二位のオペラ、六位のゼクスを除く他のメンバーは全て、オフェリアが集めている。そのオフェリアこそが第一位、アインス。
七位のズィーベン、五位のフュンフ、九位のノインとはカントもイザークも会っている。これで出ていないのは八位のアハト、三位のドライの二名。そしてそのドリット――――第三位はティア・ヴァーグネルという事実。
「あ、うん。他の面子は知らないが、そういうことらしい。そのボスとやらもさっぱりだ」
「こういう馬鹿の子だったため、ドライは工作員ではないのですが」
一つだけ、組織の内面を明かしてフィアは去る。だがきっと彼女は戻るだろう。ここにいるもう一人の護るべき存在が、その価値を発揮すれば。今はこうして、内部に潜む戦力を作り上げていく方法しかないのだ。最初にイザークが口にしたとおり、我らはテロリストなのだから。
だが期待してもいられない。敵か味方か、その判別は立場の違いにしかない。今まで味方だったフィアが敵になる。ほんの些細な違いから、友情は敵意に変わる。それは政治か、あるいは情痴でもある。
「……アタマに、クる」
フィアが去り、ぼそりと隣から呟く声が聞こえた。俯いた坊主頭が拳骨で握ったフォークをキュウリに刺し、ぶつぶつと呟いている。アデレード・フォーレの奇行など今に始まったことではない。別段、驚くことも無く、イザークがフォローに入るのだ。
「どうした、まだ寝ぼけているのか。君の好きな貴族チックな食卓ではないか
「悪ぃ悪ぃ、左利き用の並びじゃなかったのかい、お姫様。って、テメェ右利きじゃないか」
馬鹿にしたような二人のフォローに、震える坊主が顔を上げた。思わず、カントの息が止まる。見れば見るほど眉毛の無い女性だ。それが憤怒の形相でキュウリ刺したフォークを握っているのだから、異様でしかない。
怖ぇ。とかそんな声が聞こえる朝食の席。
だん、と左拳で白いテーブルクロスのかけられた食卓を殴りつけ、キュウリ付きフォークを突きつけて。
ついにアデレード姫様はブチ切れになりあそばせた。
「さっきからヒトを無能扱いして、どういうつもりか。納得いく説明願いたいワケ。アンタらは知ってるかもしれないけどねェ、私はオペラなんか知らないワケ。わかるかしら、そこの男女に筋肉馬鹿――――っ!」
「これが地か。脳内変換でレーヴェと思うと滑稽で笑える」
「いや。そもそも。キレる前提がおかしくないか?オペラの代理扱いでキレてるんだろ、コイツ。馬鹿じゃないのか、誰も『同じ』だなんて思ってねーってのに。何度も言ってるだろ。アンタはオペラ『以下』で『無能』って。ちゃぁんと認めてるじゃないか、オレたち。アンタが間抜けってさ」
ついに耐え切れず、ティアが爆笑。ついで二人が笑い出し、キュウリは無残にもテーブルに叩きつけられた。
5
「おーい。マジ、いつまでもふくれてイジけてると置いてくから」
「うるさい。他に行くところ無いって知ってての仕打ちでしょ、それ。帰ったら速攻でアンタ潰す」
悪態をつきながら、年下の少年の背を必死で追う。セーフハウスの前には、今まで見たことも無いほど旧式な舟艇。荷物は衣類が少々、他に何も持たず、かつての聖女はこれからの苦難にまず絶望し、そして受け入れることを拒絶して、思考を停止させた。
代わりに思い浮かべるは、日々。朝を起き、誰もいない部屋でのんびりとお茶を。そして読書を。そんな変わらない日々を思い浮かべた。失われてしまったもの。けれど高望みとは思えないもの。文化的で人より少しだけ高い水準の生活を望んで、何が悪いのか。
「早く乗れって。とろくさいなぁ」
「私に指図なんかしないで。理解してるわよこの小僧が」
夢から引き戻す少年の声に苛つきながら、高らかに船底の床を鳴らす。酷く古く、狭い船。まさかこんな船に乗ることになるとは、夢にも思わなかったというのに。おまけ程度につけられたシャワールーム。個室など無く、汚い大部屋とデッキ、それとコックピットだけしかない。
現実はかくも厳しいのか。不満は旅の始めより頂点。しかし行かなければならない。ずっとここに留まることは出来ない。それは時間のように。戻れず、進むしかないのだ。絶望しかなかろうと。
「早く出して頂戴。さっさと私を家に帰して」
帰還への旅。それは誰かに似て。しかし全く違ったスタートだ。
「……いつか。絶対。泣かす」
「筋肉、うるさい。口を慎むことを覚えることね。沈黙は美徳よ」
「君の無知は恥だがな」
ふと、黒い衣服の者を思い出す。似たようなことを言った。無知であるとは赦し難い、と。この彼らと同様、腹の立つ態度で、全てを終わらせる一言を告げた。
聖女は思う。
帰還の前。私は私を知らなくてはならないでは、ないかと。
今にも壊れそうな駆動音と共に。帰還という名の回帰が始まる。
それはいつでも着飾った、美しい女性とはまるで正反対の船出だ。
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