立ち上がる。体が、少しだけ軋んだ。

 肩を支えてくれるカティアを退けて、アスワドにしがみついた。屈強な体に身を委ねる。しばらくそうしていると、自然と一人で立つことが出来た。礼を言って、そのまま部屋を出る。もう振り向くことはしなかった。後ろからついて来る気配だけを背に感じ、足は階下へと向かっていく。

 時を惜しむ。展望室に数名の仲間を集めていた。どこに行くにもアスワドはついてくる。護衛ということだ。彼は寡黙で、任務だけを果たそうとする人間のようで、特に邪魔になることはなかった。最初は怖い印象があったが、近頃は慕ってくる気配もある。

「待って、待ってオフェリア」

 展望室。アビーに言って、カティアを閉め出した。

 中にいるのはイザークとティアとアリア、そしてハイネの四人だった。二人げ厳重に見張っているためか、ハイネは身動きがとれない。それでも逃げないのは、何か理由があるからだ。彼女の能力を持ってすれば、空間を跳躍して逃げるのは容易い。

「おお、オフェリア、待っていた。元気になったのだな」

 イザークの言葉を無視して、ハイネに近寄る。椅子に座り見上げる目。忌々しい。この女は何を企んでいるのだ。睨みつけるように、その目を見た。

「答えろ。フリューリングが言ったことだ」

 目。黒い目。凝視して心の中まで見ようと試みる。

「真実さ」

「――――嘘だ」

 掴みかかりそうになる心を、静める。イザークたちは普段のオフェリアとは違う姿に困惑している様子だった。季節は、もう秋。三ヶ月の療養は体を元に戻し、疲弊しきっていた肉体を回復させることに成功していた。

「アリア、これを渡しておく。頼む」

 この場にいないリゴレットのためにも、刻一刻と迫る最期の時の前に、レアティーズと決着をつけなければならない。本に書かれているのは、その手筈。アリアにしか出来ない手筈だ。

 もう誰も信用など出来ない。アリアだけは、きっと味方だ。最初から最後まで。アリアだけが味方だ。他の誰も信じられない。他の誰も、信じられない。

「真実だよ、オフェリア。フリューリングが言ったことは、事実だ」

「嘘だ、貴様の言葉など信じるか――――!」

 掴んだ。胸倉を掴み、押し上げて首を絞める。嘲笑うかのようなハイネの顔。潰してやる。そう思った。アスワドが止めに入る。後ろから羽交い絞めにされた、瞬間。体が浮いた。

 フリューリングは、死の間際、こう言った。

 

 ――――ヴィオレッタは、生きている。

 

 着地。同時に、ハイネを押し倒した。背後から圧し掛かるアスワドなど気にせず、ハイネの首だけを絞める。

「はははは、本当だと言っているだろう。ヴィオレッタ・レーヴェは存命している。生きている。生きてここにいるのさ」

 力が、抜けるような気がした。その言葉を聞いた瞬間、頭の中は複雑に絡んで、絡んで、正常な思考が出来なくなる。気付けば、膝をついて。オフェリアはただうな垂れることしか出来なかった。隣で立ち上がったハイネが服の汚れを叩いている。

 周囲を見渡す。ここは、どこだ。見覚えのある看板。路地裏。リューヴか。

 見上げ、ハイネの影が消えていく。また消える。アスワドが捕えようとしたが、腕は虚空をすり抜けていた。息を大きくつき、立ち上がる。アスワドは丁寧に、立ち上がるのに手を貸してくれた。

「――――ありがと、アスワド。それとごめん」

「お気になさらず。オフェリア様、これからどうされますか?」

 とりあえず、と。歩き出して路地裏から出る。大通り。人の往来が激しい。一瞬、その人の多さに目が眩みそうになった。リューヴだ。人が多いのは、どこも当たり前だった。とにかくソフィア・ビュザンティオンに戻らなくてはならない。

 連絡くらいは入れておこうか。そう思って、歩き出す。

「アスワドはでっかいねえ」

「211センチメートルです。オフェリア様より、50センチも大きいですな」

「うるさいよ」

 笑ってみる。笑える。大丈夫だ。アスワドも、普段はあまり見せない笑顔をしてくれた。少し気を遣わせてしまっているのかもしれない。

 彼の背後を歩いている限り、人波に飲まれることはない。とことことアスワドの後ろをついて歩いた。周囲を眺めながら、歩く。左側にはショーウインドウ。服などが並んでいる。女物ばかりだな、と辟易して反対も見てみる。

 通行人たちをぼうっと眺めながら進んだ。

「落ち着ける場所を探しています。喫茶店など」

「私とお茶するか、アスワド」

「光栄です」

 少しくらいは照れてくれてもいいのではないか。そんな冗談を口にしようか迷う。ふと、青く短い髪型の女性が目に入った。そのまま通り過ぎる。心に残る。立ち止まって、振り返る。後ろ姿。髪は、肩にも届かない。

 どうしてそう思ったのか、理由なんて、きっと無かった。

 

「――――カティア」

 

 名を、口にしてみる。振り返らない。人波。それでもはっきりと、その後ろ姿がオフェリアには見えていた。いや、他の何もが、他の誰もが、目に入らなかった。視界にあるのは、ただ一つだけ。君の背中だけしか見えない。

「待って、カティア――――!」

 叫んだ。あらん限り、叫んだ。周りの人は、きっとこちらを見ている。その中に、青い髪。目指す、声は、届く。背が振り返った。目が合う。顔つきは違う、髪型も、あの頃とは何もかもが違う。

 オフェリアは、笑ってみせた。途惑う君に、笑ってみせた。

 

 そして、気付いた。

 どうしてカティアが二人いるのだろう。

 

 今、あの頃と違うと思った。あの頃とはいつのことだろう。カティアは一人だ。いつも側についていてくれた彼女だけだ。あの頃。あの頃。ユーロパで、初めて出会った。あの頃からカティアは何も変わっていない。

 では、目の前にいる彼女は誰なのだろう。決まっている。カティアだ。

 そうして混乱する。計算が合わない。カティア・フレーニは一人だ。二人ではないし、双子でもない。似ているという女性はいる。死んでいるのだけれど。ヴィオレッタ・レーヴェだ。生きているのか。誰かが、そう言った気がする。

 あの頃のカティアはここにいて、ずっと会っていなかった。今のカティアはずっと側にいて、何も変わっていない。両方とも本物ならば、一人増えたか、入れ替わったか。よく思い出せ。あの頃だ。最初に出会ったカティアだけが、本物だ。

 ユーロパ。湖畔。冬。赤いマフラーと白い帽子。ルートヴィヒとカティア。

 ふと、思い出す。自分が何と呼ばれていたのか。自分の名前を知っているのは、カティアだけだ。今では増えているが、前はカティアくらいだった。その名は、ルートヴィヒ。カティアはそんなオフェリアのことを、「ルーちゃん」と呼んでいた。

 ルーちゃん。その声を思い出す。今のカティアは、フルジアで、結婚式で、何て呼んでいたのだろうか。それはすごく、アリアの声に似ている。名前を知らない、通称でしか呼べない間柄の愛称。確か――――「 ーちゃん」だったような気がする。

 ――――問題。では、二人のカティアはいつどこで、入れ替わった。

「オフェリア様、オフェリア様」

 カティアと再会したのは、シリウスでだった。助けに行った。

 オフェリア。それは通称だ。誰もがそう呼ぶ名前だ。だが――――カティアは呼ばなかった。なんて、余所余所しい呼び方なのだろう。仲良くなってから、どう呼んでいたか。

 仲良くなってから、だって――――?

「………………………………………………………あれ」

 何か、間違えているような気がする。

 

 間違えた。間違えた。間違えた。

 そんなことが、あるのか。カティアと誰かを間違えた。いや、カティアと■■■■■■を間違えた。間違えるように仕掛けられていた罠。決して誰かと結ばれることのない運命、それがオフィーリアの遺した双子の命運。

 気付いた、気付いてしまった。近くにいる誰かを、遠くで途惑った表情をする誰かと、間違えた。なんて、なんて、なんて、なんて。そんな、ことが、起きるのだろうか。どうして。わからない。何が、何で、わからない。

「かてぃあ、待って、まって」

 そのまま行こうとする彼女を、止める。走る。走っているつもりだった。それでも、追いつけるはずなどなくて。追いかけているのはまるで幻。体が動かない。何か巨大な力が、行く手を塞ぐ。運命。

 運命は神が決めるか、人が決めるか。人の力は、大きなものだ。それを信じている。だから、この世界は神の威光などではなく、人の力で動かすべきだ。ならばこの運命さえも、誰かの手で操られているものなのか。

 ならば誰だ。誰だ。誰がこんなことをした。誰が       を。彼女は死んだ。死んだのだ、確かにこの腕の中で、死んだ。埋葬もした。全て、この手でやった。だから言える。彼女は死んだ。それなのに、生きてそこらを歩いている。

 死んだはずなのに、生きている。その運命を狂わせる、人の力。

 皆、死んでいく。それは無かったことにしたい。生きていてほしい。心からそう願う。しかし、それでもし死が無かったことにされれば、その時の悲しみや、悔しさや、立ち直ろうとする気持ちや、立ち直った時の希望は、どうすればいい?

 死が無くなった時、生はどうすればいいのだ。

 だからこの手は人を救えないのだ。その無力さに嘆いた。フィリスを救えなかった時、嘆いた。悲しんだ。力が欲しいと思った。この悲しみから逃れられるのなら、力が欲しいと思った。

 けれど、手に入ることはない。たとえ神様でも、死を無かったことにするのは不可能なのだと知った。だから、死命には誰も触れてはならないのだ。神も人も、誰も触れてはいけないのだ。

 ソレ、を。破った、ヤツ、が――――この、世界、に、いるらしい。

「マルガレーテ。マルガレーテ。マルガレーテエエエェェェッッ!!!!」

 神に抗う、罪悪の人に裁きを。裁きを。裁きを。神に叛く、罪悪の砦に裁きを。裁きを。裁きを。誰がやる。どの神が下す。決まっている。それは、ウリエル・フォーレ。その名は神の焔。断罪の剣を持ちしこの手で、神に叛く蛆虫を潰す。生かしておかない。生かしてはおかない。生かしておく理由がない。生かしていく必要がない。生かしていく価値がない。生かしていくには罪深すぎる。罰を。ただ、罰を。反逆者どもに罰を。与えるのは誰だ。私だ。神の焔が、断罪する。殺す。殺していい。殺してやる。殺してしまう。殺してしまえ。引き千切る。その野心ごと、罪業の夢ごと、引き裂いて燃やす。裁くのは誰だ。私だ。金髪の朱い目だ。燃やす。全てを、業火で焼き尽くす。灼熱の焔に焼かれて死ぬがいい。

 殺すのは私だ。私だ。

 

 ようこそ。

 ここは魔なる楽園、地獄らしいよ?

 

「オフェリア様ッ!」

 背中にまとわりつく黒鯨。屑が触れてきた。腹立たしい。体に焔。弾かれたように吹き飛ばされる鯨を、見ようとも思わない。

 歩いた。周囲から人が消えていく。遠ざかって私を見ている。邪魔をしない子羊たちは、慈悲を与える。歩くのも億劫だ。少しだけ体を浮かせて、飛空する。

 そういえば、敵の砦は二つある。それぞれが反対方向だ。それならば、先に一つを壊しておこうと思った。手を方向に向ける。邪魔な建物がたくさんあってウザい。

 だから、全て焼き払ってみた。左手から伸びる焔が、一直線に破壊する。出力は高め。悪い、子羊たちよ。ただ邪魔でした。

 振り返り、もう一つの砦へ向かう。少し進むと、全く人気が無くなり、警官隊が行く手を塞いでくれた。邪魔。何事か叫んでいる。盾。それから銃口と敵意。私は左手を無造作にくるんってさせた。そしたら皆さん死にました。

 燃え盛る炎の壁をすり抜け、真っ直ぐにディファイアンスへ。

「待ってろ、叛逆者ども。すぐに皆殺しにしてやりますからよォ――――」

 この世は全て、幻。

 ならば全て燃やしてしまって構うまい。

 

「はははー、死ネ死ネー」

 人工子宮を片っ端からブチ壊していく。羊水が漏れ出し裸に浴びる。未熟児どもを皆殺し。

 そして深遠にそびえる、もう一人の私。

 オフィーリア・フォーレ。これがオリジナル。すでに死して、遺伝情報だけを残留させるのみの存在。この女から全てが始まった。全てが狂っていった。少なくとも、自分の人生はそうだ。生まれる前からこの女に狂わされていた。

「可哀想に。今、消すから」

 両手に力を込める。目を閉じる。その姿が、消えてしまうのは。見たくはなかった。

 ――――何かが、音を立てて壊れた。それは輪廻だったのか、それとも運命だったのか。

 燃え盛る。崩れ落ちる。建物。瓦礫のシャワーを一身に浴びながら、目を閉じる。痛みが欲しかった。痛みが。あの人が受けた心の痛みは、こんなものではなかった。

 頼むから。お願いだから。

 もう、生きていられない。

 死なせてくれ。誰か私を、止めてくれ。

 こんな世界に生きていたくなどない。こんな場所で、生きていたって、仕方がない。

 何かが頬を濡らす。血だ。泣き叫び、真っ赤な目から流れる――――血のなみだ。

 

 だから、誰か。

 どうかお願いです。

 私を殺してください。

 

 外。瓦礫の山を背後に、魔王が立つ。迎え撃つは幾百の兵。向けられるは敵意、銃口、戦車、全ての意志がこの身を滅ぼすためだけに。

 赤い裸体。赤い髪。赤い瞳。流れる涙の筋さえ赤く。

 禍々しく、美しく。きっと世界が見惚れた。誰もが動きを止めた。誰もが、一点を凝視していた。力の無い濁った瞳。血を吸う唇は厚く小さく。わずかに口の端を上げて微笑むように。

 生きた人形を抱え、楽しそうな笑顔から、絶え間なく、血涙が。

「わかった。その願い、叶えてくれるわ」

 参上。

 魔の神がただ一つ願う、それさえ叶えようとする聖の神が視界に飛び込んでくる。

「その言葉、私のモノなのに。願いが一致しているなら、叶うは容易いかもね、先生」

 影。それはかつての友を、弟子を、そして名付けた娘を世界から隠すように立った。

 最後の聖者。武宮ナオミが魔神に挑む。

 

 死者八十一名。負傷者はその倍以上。倒壊した家屋三十六。

 凄まじい怒りだ。報告書を見たフィアは、壮絶な主の暴走を落胆でも失望でもなく、悲哀で迎えた。あのオフェリアをここまで暴走させるには、相当な理由があったに違いない。その絶望の中、行き着く先がディファイアンスであったというだけだ。

 意識を失ったオフェリアを運び入れたアスワドを、フィアは叱責した。

「何故、何故だアスワド。どうしてお前がついていながら、こうなった――――!」

 彼はオクタウィアに言われて、こうなることを予見して、側に控えていたのではなかったのか。こんなことなら、やはり自分が側についていればよかったのだ。オフェリアの強さと弱さを、フィアは理解しているつもりだった。

 アスワドは、責任を感じているようで、ただ俯いているだけだった。

「どんな困難でも悲しみでも、オフェリア様は絶望なさらない。でも傷はつくのだ。何度も、何度も傷つけられて今に至って、なお傷つき絶望の底に至った。どうして」

「……カティア・フレーニが二人います」

「何だと?」

 カティアが二人。ディファイアンス。それで話は読めてくる。今更、調べる必要はあまり無さそうだが、フィアは人を送ることにした。大方、ヴィオレッタ・レーヴェでも蘇らせてカティアと交代させたのだろう。そこが、オフェリアの弱点だった。

 もしオフェリアがあと少しでも薄情ならば、ヴィオレッタを引きずることなく今の生活に甘んじていられた。そこに罪を感じてしまう、優しさ。美徳である。その人としての美徳に付け入るやり方に、怒りを覚える。

 同時に、カルディアへ連絡を入れた。いつまでもオフェリアを庇いきれるものではない。実際に、テレビからはオフェリアの姿がニュースとして報道され、虐殺の様子を映している。リューヴに住む人にとっては、これ以上ない衝撃的な事件だった。まるで、戦争のようでさえあった。

 引渡しの要請があった場合、拒絶する。現在オフェリアは眠っており、仮に目覚めた時、また虐殺を起こしてほしいのなら預ける。そんな内容の文面だ。事実、まだ引渡しを求める正式な要請は無い。あの姿を目の当たりにすれば、誰もが恐怖する。誰も、近付こうとは思わない。

 魔神。シャルツァネミテア。神と対をなす魔王の名前がニュースでは流れている。確かに金髪の女性であると聖典には書かれている。符号する部分が、いくつかある。光の槍だとか、焼き尽くす光だとかだ。伝説や神話だと思っていたが、ひょっとすると、フォーレそのものが魔王なのではないか。

 だから、どうした。オフェリアが魔王だろうと獣だろうと、尊敬して畏怖を抱く主であることに変わりはない。

「オフェリア様の様子を見てくる。貴様は誰のせいでこうなったのか、自分に問いかけていろ」

 扉を閉め、濡らした布を持ってオフェリアのいる部屋に入った。毛布が巻きつけられた体。その毛布をはがし、丁寧に体を拭いて、血と絶望を落とす。

 傷つき。傷つき。まだ、傷つき。いくら強い心でも、もう襤褸の如くある。

 オフェリアは眠っているのに、まだ泣いていた。時折、鼻を鳴らす音が聞こえる。目覚めているのかと思ったが、問いかけに反応することも、目を開くこともなかった。意識があってもなくても同じことだ。今、オフェリアは自分の中に閉じこもっている。

 えぐえぐ、と。泣き続けて。

 二十八年間。羽を休めた時はあったのだろうか。仮にあったとしても、それも、嘘に変えられた。

 聞き続けるには、辛い嗚咽だった。

 

 カティアの一件は、すぐに調査がついた。ディファイアンスの生き残りが、簡単に口を割った。

 第二次シリウス戦の時だ。オフェリアはカティアを救うために出兵したが、実際に救出したのはヴィオレッタのクローンだった。一足早く、ユドン市で逃げずに指揮を執り続けたカティアは捕まっている。指輪などはレプリカを用意し、記憶はカティアのものを移植したらしい。

 最初から、再会の最初から嘘だったということになる。悲痛な面持ちで、フィアは続きを読んだ。

 提案はガブリエル・ハイネ。その行方は掴めなくなっていた。マルガレーテの焼死体は見つかったが、ハイネはまだ捜索中である。目的はオフェリアを絶望の底に叩き落とすこととしか思えない。彼らにとって、オフェリアは敵である分離派の首魁とも言えた。

 一方、逮捕されたカティア・フレーニはハイネと取引をしている。十年前にハイネが捕まえた時のオフェリアから摂取された精子を提供する代わりに、二度と会わないというものだ。オフェリアの実子というのは、ディファイアンスの手を借りなければ実現不可能な夢である。オフェリアがそれを望まないことは予想できる。ある意味、後世にとっては非常に貴重なものとも言える。

 この取引にはもう一つ、裏が見える。オフェリアの子を生む権利を与える。それで引き下がらなければ、死ぬ。すでにカティア・フレーニがこの世に存在している以上、本物だろうが偽物だろうが、一人死んでも何も問題は生じない。カティアにとっては、非常に不利な取引だっただろう。

 とにかく、その取引の結果、生まれたのがアエラということだ。

「実子だったのか。それで、フィア。私はどうする?」

「リゴレットが死んでいる以上、ソフィアには貴女が必要です、イザーク。はっきり言って、今そちらはボロボロなのではありませんか?」

「正直、そうだな。頭領が二人も崩れた。上層部はかなり混乱していると言っていい」

「アリアはもう動いているのでしたね。ならば、アエラをください。他に増員は不要です。アスワドと二人でオフェリア様をお守りします」

 秋から冬に変わる季節。依然としてリゴレットは自室で死んだままであり、今ここにきて、オフェリアも死んだ。イザークとティア。この二人で何とかソフィア・ビュザンティオンは動く。アエラを条件に、カミラと話をして、オフェリアを今年中に蘇らせなければならない。

 もうカティアを消す勢力は存在しない。オフェリアが一人で、叩き潰した。あの虐殺は、意味を持つ。これでカティアは解放されたのだ。

 しかし、オフェリアはまだ臥せったままだった。意識もない。眠ったまま、時折、思い出したように涙を零す。

「わかった。よろしく頼むぞ」

 イザークとの通信を切る。カルディアが奔走し、報道に対する規制などをこなして、必死に庇ってくれている。この調子で隠し続け、早くオフェリアをルテティア・パリシオールムへ入れたい。レアティーズさえ殺せば、オフェリアはもう休んでいいのだ。

 神様に嫌われてしまった、小さく儚い少女。もしも天に神がいるなら、この仕打ちはあんまりだと天を呪うだろう。あなたの末裔だというのに、ここまで痛めつけるのは何故なのだ。もしそれが運命だというならば、神様というサディスティックな男など嫌いになりそうだった。

 どうしてレアティーズだけが報われる。どうしてオフェリアだけが嫌われる。世界はあまりにも不公平で、不平等で。もし自分がオフェリアなら途中で止めずに世界全てを滅ぼしかねない。

 神の与える試練を、何度も、何度も屈せずに、乗り越えてきた。これで終わりならいい。だが、まだ試練は続くのだ。最愛の親友との死闘が残されている。傷つき疲れ果てた心で、王であり続けた男に挑むのか。自身を裏切った、親友にだ。

 もう全ては動き出して、止められない。神様とかいうサド野郎のおかげで。

 

 ある日、来客があった。秋も深まり、季節の変わり目を感じるような日。

「ハロー、フィア。取材に来た、って言ったら怒る?」

「記事にしない、という約束なら怒りません」

 ソニア・ヴァレリーだった。どうやってフィアの家を見つけたのかは疑問だが、記者をなめていると痛い目を見ることがある。大したものだな、と感心しながら、家に入れた。アスワドの姿を見て驚いたので、彼を別室に控えさせるようにする。

「約束は出来ないね。それが義兄さんのためになるなら、私は放送もするよ」

「貴女を信じます。では経緯からご説明しましょう。この事件、貴女も無関係ではありませんから」

 彼女はヴィオレッタの妹なのだ。関係者の一人といっていい。

 包み隠さず、全ての事情を説明した。さすがにソニアは驚いているようで、神妙な面持ちでオフェリアのいる寝室のドアを見つめていた。そこにいることがわかるのだろうか。違う。目線を合わせたくないだけだ。

 説明を終えてから、そのドアを開けた。最後にこの二人がきちんと会ったのは、六年前だ。皮肉にも、オフェリアとカティアの結婚式でだった。

「……義兄さん、泣いてる。それに、何だか見ていられない感じ」

 ドアを閉めて、居間に戻った。

「率直に言うと、私は義兄さんと同じ意見だわ。姉さんの死には自分なりに決着をつけたつもりだったし、だからこそ義兄さんに協力しようと思ったんだし。それを全部チャラにして、ってのは違う気がする」

「そのとおりです。皮肉な話ですが、ヴィオレッタ様の死によりお二人は理解し合うことも出来たのです。死とは悲しいものですが、それが全てではないと思います。前に進むための試練でもあると、私は思います」

 珍しく、意見が一致した。ヴァレリー姉妹とは昔から相性が悪い、とフィアは感じていたが、ここにきてそんなくだらない感情は消え去った。

 成長したのだ。自分も、ソニアも。その中には、やはり。死というものを乗り越えてきた、というのが大きな比重を占めているのかもしれないと思えた。

「それで、警察とかはどうなの?」

「逮捕しようとは思っているようですが、何せシャルツァネミテア様が相手です。足踏みしているのでしょう。実力で逮捕しようとするなら、軍隊、二個師団は投入しなければ可能性さえありません」

「魔王、ね。ちょっと調べたんだけど、魔王って名前ほど悪い人じゃなかったっぽいね。アラディア、という女性の人らしいんだけど、千年を生きたとか。それで『もう殺してくれ』的な感じでフィルウィリミテア神サマとやらに戦いを挑んだ、とか何とか。自分が強すぎて神様にしか殺せなかった可哀想な人ね」

 妙に、それがオフェリアの涙と合致した。イメージの中だけの話だが、その悲劇は異様にオフェリアと合う。

 赤い瞳。血の涙を流しながら、殺してと叫ぶオフェリアがいる。

「だから、最初から魔王ちゃんは勝つつもりが無かったのよ。こう見ると悪いのは神様みたいだけどね」

「嫌なことを言わないで。その話、凄く、怖い」

 もしかすると、オフェリアはレアティーズに勝つつもりなど無くしているのではないか。お前になら、託すことが出来る。そんなことを言って、自ら、死にに行く。いかにもありそうな話だ。決戦をすれば、必ず勝つ。そう思っていたが、揺らぎ始めている。

 窓の外。気まぐれに見た外の風景。

 初雪が降っている。もう冬になるのか。時が、無い。決戦は刻一刻と近付いている。

 

 シンフォニック・エロイカ。

 送られてきた本を、レアティーズは読んだ。時に口語にて激しく、時に文語にて美しく。文章がまるで踊るように生き生きとしている。一気に、読み終えた。それでも数週間は要していた。

 何とも激しい文であった。そして、人生であった。この本は、オフェリアという一人の人間そのものだ。その人生を綴っている、そしてこの時代を描く歴史書。古い、紙による書籍を、レアティーズはそっと机に上に置いた。表題しかないシンプルな表紙。どんな思いで、オフェリアはこの題をつけたのか。

 ――――英雄。

 思考を中止するノックの音が耳に入った。アハトだ。どうやら会見の準備が整ったらしい。頷くと、その横から黒髪の美青年が出て来た。どこか、シャルパンティエに似ている。

「初めましてヴァン様、エヴィル=メロダックです」

「ああ、そうか。ベルテシャツァルの名は継がないのだったな」

「まあ、併用という形でやっていきます」

 ユージーン・エヴィル=メロダック大統領の横に並んで歩く。カルディアの後継であるが、彼よりもずっと年上だった。レアティーズの六才上なので、今年で三十六だ。対立候補のアリク・デン・イリに比べ、随分と若い。若ければ操りやすいとカルディアは思っているのだろうか。

 目には不敵な笑み。カルディアよりも、ずっと老獪な手腕の持ち主だろうと直感した。

「一応、聞いておきたいのですが。今日は何を言うつもりですか?」

「シャルツァネミテアの処遇は、ルテティアがやるということだ。きちっとわかりやすく説明をすれば理解もされるだろう。アレは、ソフィアもアイツも黙っているから話が進んでいないだけだからな」

「確かに、理解しかねます。前代未聞、というか。どうしていいのか誰にもわからない」

 突如、リューヴのフラリス市に魔神が現れた。街を焼き、刃向かう者、邪魔する者を殺した。器物損壊、殺人罪といった犯罪に当たるのなら、警察により逮捕される。しかし、銃弾も刃も通さず、現行技術では殺害することが不可能な対象を、無力化して逮捕することが出来るとは思えない。

 すると、これはテロリズムや破壊活動の一種ともとれる。犯罪ではなく、国家の存亡を左右する破壊力を有した国家保障上の問題である。軍隊が出動し、武力の脅威を取り除こうとするのだが、十万の兵隊を送っても魔王を葬れるとは思えない。

「あらゆる物理的な攻撃が無効化されてしまう。銃弾、刀剣、槍、何でもいい。砲撃もレーザーも意味が無い。そんな相手をだ、どうやって殺す?」

「――――不可能ではありませんか」

「つまり、その人物は人間、この世界では無力化することが出来ない。この世界の尺度で計ることは出来無い。それを人は神と呼ぶ。救いの手を差し伸べるソレを良い神だと尊敬して信じ、殺戮の手を向けるソレを悪い神だと畏怖して信じる。別に善悪、どちらにしたって神様には違いない」

 そして暴走には理由がある。

 夏にソフィア・ビュザンティオンで起きた化学兵器によるテロリズム。この報復攻撃として、ディファイアンスを壊滅させた。そう考えると。魔王シャルツァネミテアに罪は無いような気がする。この部分を上手く伝えれば、世論は操れる。オフェリアは単なる悪役ではなく、畏怖と尊敬を集める神になればいい。

「なるほど、なるほど。虐殺というより、目的だった。政治的にも、意味があったと」

「シャルツァネミテアを戦闘機に置き換えてみろ。テロを受けたソフィアという国家が、戦闘機をリューヴに送り込み、犯人たちの根城を爆撃した。それと同じことだ」

「しかしそれでは、我がリューヴ政府が自国に攻撃を受けたようなものでは。やはり見過ごすというのは」

「馬鹿だな。お前がきちんと自国のテロリストを捕まえておかないから、神様がブチギレたんじゃないか」

 まるでオフェリアを弁護しているようではないか。そう、自分の発言を振り返った。苦笑を漏らし、記者会見の会場に入る。

 魔王征伐は、神の王が。ナオミが命を賭して挑んだ。次は誰だ。カイアファか。それとも、俺か。

 廊下の向こうから、こちらに近付いてくる人影。神妙な面持ちのアハトが来る。緊急で知らせておきたい情報があるのだろう。

 他人には聞かれたくない、という素振りを見せた。首を傾げると、気持ちのいい話ではないとアハトは言う。エヴィル=メロダックから離れ、顔を近付けた。

「カティア・フレーニが……自宅で首を吊りました」

 終幕は近い。世界が、崩れ始めている。

 

 愛する資格は無く、許されることでもない。それでも、ここあるのは純然とした、愛。

 終幕のその時まで見る淡い夢。どちらも言わなかったが、レアティーズにははっきりとルーシャの覚悟が伝わってきた。最期。せめて今だけは、この夢に身を委ねていたい。

 この温もりは、決して手に入れられるはずのないもの。幻。すぐに消え去る。きっと認めなければ、口にしなければ消えることはなかった。生まれることもまた、無かった。だから、これでいいのだ。

「オフェリアとは、どんな人なのですか?」

 二人、寄り添って。精神も肉体も近い場所から、ルーシャが訪ねた。答えられる。今なら、オフェリアのことを言える。

「優しい男だった。気持ちが、優しいのだな。弱虫のくせに芯は強くて、それが生意気に見えたもんだ」

「貴方とは正反対ですね」

「馬鹿言うな、俺は意外と優しい男なんだぜ」

 あまり実感が湧かない。あのオフェリアと、決闘か。一体、どんな顛末を迎えるのか。

「……知っていますよ。貴方の愛は、とても深くて」

 どうして、と問うことをレアティーズはしなかった。ルーシャもまた、言わなかった。過去は、過去だ。それはやり直せるものではないし、取り戻すことなど出来ない。ただ口を噤み、後悔を忘れて、今という瞬間に生きる。

 最後の夢。醒めると分かっている。夢だとわかっていても、どうか醒めないようにと沈黙を守った。過去を言えば、未来を願えば、きっと夢は醒めてしまう。今。この瞬間だけを、生きよう。

 やり直すには、遅すぎる。レアティーズはそう思った。きっと自分は、彼女にとって枷でしかない。愛に嘘などない。しかしルーシャには過去がある。この想いも、そして彼女が昔に抱いた想いも、どちらも比べることの出来ない高潔なものだ。

 触れてはいけないもの。忘れてやりなおそう、とレアティーズは思ったが、きっとルーシャは望まない。それが、レアティーズの愛した女性だった。愚直である。愚かなほど、純粋だ。

「俺は今、すごく幸せなんだ」

 それでも、一縷の望みに縋る。彼女を思い留まらせることだけを願った。たとえ未来は無くとも、一秒でも長く隣にいてほしい。

「ずっと夢を見ていられるなら、オフェリアだって殺してみせる」

「欲望のために倒せる相手でしょうか、怒りで倒せる相手でしょうか。多分、違いましょう?」

「何でもする、という意味だ」

「嬉しいですけど、止めてください。オフェリアに倒すには、無心であることが必要です。それこそが、貴方の生き残る道なのです」

 おそらく、ここに到達したオフェリアは何人も寄せ付けない強さでいる。師であったナオミを倒し、オルフェオを倒し、魔王と呼ばれるに足る力を身につけている。到底、人間が敵う相手ではなくなっている。

 憤怒。その形相で、やって来る。怒れる魔神に、希望や欲望、憤激で立ち向かえば飲み込まれる。全てを受け流してしまうような透明な心。今まで持ち得なかったそんな心で、大敵に挑めとルーシャは言った。

 勝つのではない。負けるのではない。オフェリアを倒すこと。それは魔王を鎮めること。腕が千切れ、体が吹き飛ばされても、オフェリアの意志を砕けばいいのだ。決して砕けない強い心の持ち主だった。それが今、崩壊の兆しを見せている。

 心を砕く。決闘に破れても、気持ちでは負けない。倒れても倒れても、何度でも立ち上がって挑んでみせる。決して折れない意志で、決して砕けない心に打ち勝つのだ。その意志を持つには、無心でなければならないのかもしれない。

 希望を持てば絶望が生まれるだろう。勝ちたいと願えば敗北を恐れるだろう。

「せめて、一度だけでも。貴方の愛に応えたいから」

 間違っている。そう言おうとしたが、正しいことなど何も無かった。出会いから、間違い。その間違いがなければ、出会うことさえなかったのだ。

 全てを捨てて逃げることも、きっと出来た。しかし、逃げることは自分に禁じた。逃げ出すのならば、最初からだ。一度、始めてしまったことは、最後までやり抜く。それで、オフェリアへの裏切りも、この手が奪った命にも、嘘をつかずに済む。

 愛か、使命か。きっと自分は後者を選ぶ。ルーシャも、それを願ってくれるはずだと信じている。

 だから、レアティーズは何も言わなかった。

 

 リタが信用したのは、ティア・ヴァーグネルだけだった。

 少しずつ、少しずつ、何かが狂い始めている。絶望という予定調和。きっと自分もそのピースに過ぎない。それでも、精一杯、足掻いてみせるのだ。

 崩壊から逃れ、ティアと二人でリューヴに入ったのは、十二月の二十七日だった。イザークとリゴレットがソフィアには残っていたが、リゴレットはカティアを責め立て、縊死させるまでに至っている。皆、どこかが、荒んできている。

 オフェリアが、目の色を変えたのは、アエラが来ているということを知った時だった。

 そそくさと着替え始め、居間に現れたオフェリアは、待っていたアエラを見るなり手を伸ばして抱きしめていた。やはりこの人にとって必要なのは、後を託すことの出来る後継者なのかもしれない。実の娘。運命から逃れた最愛の子。アエラ。

「アエラ、お母さんのところに帰ろうか。きっと心配してるよ」

 声に、芯のようなものを感じられる。絶食状態に近かった体が、娘を見るなり生き返った。気力。オフェリアを支えているのは、もう気力しかないのかもしれない。それは時に人智を超え、人の理解を超越するもの。

 親子が共に暮らせたのは、半年も無かったのかもしれない。それでも、分かり合えるものはきっとある。そう信じたかった。

「認められんわ。街中でぶっ倒れても知らんぞ」

「じゃあ、リタも、ティアも一緒に行こう。皆一緒に」

 腫れ物に触れるようだ。誰もが笑顔で、誰もが気を遣って、徹底的に一つの話題を避けていた。ティアが盛り上がるような声を出す。空元気。一度、狂った運命は。もう元に戻ることなど、ない。

 切れた絆。深い傷痕。空の都を覆う、巨大な絶望の雲。

 引き裂いて陽光を見つけられるのは、やはりこのオフェリアしかいない。そして再生の鍵を握るのがアエラという少女にあった。

 誰もが死んでいく、終わりに向けて。もう誰も蘇ることはない。生まれるだけだ、始まりに向けて。

 さらさらと――――流れていく。

 記憶にはあの日の残影。懐古をする時ではない。思い出すことでもない。ただ、さらさらと。風化した記憶が砂となって流れるだけ。

 風に靡くあの日の、写真。吹き荒れる惨絶の風が、心に貼られた写真を剥がして、空に飛ばした。

 

「……さようなら」

 

 不意にオフェリアが呟いた。きっと気付いてしまったのだ。もうあの日には戻れないことを。そして、最愛の人がこの世から消えたことを。

 言葉は失われた記憶への送辞であったが、周囲にいた者は葬送の言葉にしか聞こえなかった。

 

 手を繋いで歩く親子。それだけが変わらないもの。二人は笑顔を見せながら街の中を歩いていた。瞳の色が違っていて、穏やかな表情をしているオフェリアをシャルツァネミテアと思う人間は少なく、騒ぎは起きていない。

 それでも、顔は割れている。元々、人目を惹くような美貌の青年である。加えて、前フルジア帝とソフィア・ビュザンティオンの総責任者、フィルウィリミテア教四大天使などと様々な肩書きと業績で注目を浴びている人物だった。街を歩けば衆目を集めるのは当然だ。

 畏怖と敬慕。二つの感情を集めながら、オフェリアは歩いていた。アスワドとティアは周囲を警戒しながら、リタは親子の隣に立って進む。二人は時折、立ち止まっては街を眺めていた。

 観光客が多数来るという商店街に立ち寄る。遠い惑星から集った物産展のようなものだ。露店のようなものがいくつも並び、特産品を販売していた。地元の人間も多いため、人の数は歩行が困難なほどである。アスワドが警戒の色を強めた。

 みぃ、と。か細い声がした。オフェリアはもう声の方向を見ている。リタも視線を向けると、鎖に繋がれた不思議な生物がいた。アエラが可愛い、と声をあげて近寄っていく。

 仕方なく追いかける。鎖に繋がれた生物は、確かにとても愛くるしかった。大きな目は少し釣りあがっているが、くりくりとして愛嬌がある。瞳孔は細長く、大きく美しい青色の虹彩。小さな鼻、常に口の端が上がって微笑んでいるように見える口。

 頭は小さく、丸い。耳がぴょこりと立っていて、全身が毛で覆われていた。背丈は人の腰ほどしかなく、抱きついてしまったアエラよりも小さい。手足は丸く、指など無さそうだ。典型的な亜人種だが、突然変異種なのかもしれない。知能も、高くはないようだ。

 抱きつかれたその生物は、途惑っているようだった。ふみい、と鳴きながら細かく体を動かしていた。シッポがふるふると震えている。

「ほう、珍しい」

 親であるオフェリアがアエラを嗜めながら、感嘆の声をあげた。

「猫人か」

「ねこにん?」

「エンケラドゥスやフィンラルなどに生息している生物で、多種多様だが数はさほど多くない。ネコの進化型で、ユーロパ人の先祖とも言われている。ほとんどが進化したか、あるいはそこまで達していないかで中間にいる彼らは珍しいんだ。何らかの原因で原住ユーロパ人になりきれなかった者、ということかな」

 さすがに博識である。リタは初めて見る生物に興味を抱いた。体毛は灰色で、腹部と顔面は毛が少ない。

「アビーがこっそり飼っている。ミケという白と茶と黒の三色の毛で、オスだ。船が沈まないという迷信があって、それで重要な船には乗せていたんだ」

「お客さん詳しいねえ。こんな珍しいペットはなかなか手に入らないよ。安くしておくから、娘さんにどうです?」

 値段を提示される。その金額にアスワドがわずかに顔を紅潮させた。ティアは情けない声を出し、リタは詐欺だと思った。車か、あるいは格安の船艇が購入出来る金額だ。珍しいだけが取柄であるが、生命には変わりない。まるで奴隷商人のようだった。

 だが、アエラは猫の少女から離れようとしていない。その体を撫でると、猫人は嬉しそうに目を細めた。まるでアエラが二人いるようで、小さな少女が少女を愛でている光景には頬が緩んだ。親馬鹿。オフェリアなら買ってしまうかもしれない。

「――――可哀想です」

 不意に、アエラが呟いた。猫の少女を愛でるその目が、愛玩とも同情とも違う感情に染まっていた。それはおそらく、優しさというものなのかもしれない。

「ねこにんさん、怯えてます。目が泣いています」

 口がデルフィ族のように笑ってみえる。笑いながら、されど、心中では泣いている。笑顔しか出来ない種族の涙を、アエラは感じ取っていた。オフェリアはそんな聡明な娘の頭を撫でてやり、IDカードを取り出していた。

「買おう。この子の目は、私たち家族と同じだから、この子も今日から家族だ」

 大金を簡単に支払い、オフェリアは店主に近付いた。

「しかし、保護条約に抵触している。無理に保護動物を連れてくるのは犯罪だよ、君」

「アンタ、何様のつもりだよ。単なる金持ちが商売に口を出すな」

「ヴァーグネル少佐、逮捕してやって。金は出所してから使うこと。ちなみに私は、オフェリアという。ソフィア・ビュザンティオンにいるのでいつでも訊ねてくるといい」

 店主の顔が凍りつくのが、はっきりとわかった。なかなかオフェリアでもやるではないか、とリタは感心してしまった。優しい顔をして、やる時はやるものだ。ティアが店主を逮捕し、そのまま連れて行ってしまった。

「大丈夫。君を怖がらせる者はいなくなった。私たちと来るといい。世話を、してはくれない?」

「オフェリア、まさか話せるのか?」

「アビーから教わった。会話とまではいかないけど、意志の疎通くらいは出来る。ロイヤルブルー種は結構かしこいから」

 にゃ、と丸い手を出してくる子猫にオフェリアは土産にと購入したワインの瓶を渡した。それで何故か喜ぶような仕草を見せる猫。人の世話をするのが好きなようだ。確かに、先ほどと様子が違うのがよくわかった。怖がっていた。それが、無くなった。小さな体にワインを抱え、ふにゃ、ふにゃと歩く。

 誰だって笑顔に変えることが、オフェリアには出来るのかもしれない。

 

10

 短かった。それでも、きっと長い旅路だった。

 カミーユ人自治区に到着し、中でも一際大きな邸宅の前。すっかりと歳をとったカミラ・フレーニが待っている。アエラが家の中へ入っていき、リタたちもまた、遠慮をして去っていった。

 二人きり。どうしてカミラがオフェリアを憎んでいたのか、今ならはっきりとわかる。

「全てが、遅かった。もう遅い」

「人の世に手遅れなどというものがあってたまるものか。オフェリア、貴方は言いました。私に、言いました――――妹を必ず幸せにすると!」

 悲痛な叫びが、心に突き刺さった。もう誰も、気を遣う者などいない。それは、わかっていた。

 場所を変える。少し歩き、公園に入った。高層ビルの上に作られた人工的すぎる公園とは違って、どこか素朴で、どこか古めかしい公園だった。子供たちが遊んでいる。遊び場などというものは、子供にとって近代的も古代的も関係ないものだ。

 ベンチに腰掛けても、カミラは何も言わなかった。

「アエラは、とても良い子ですね」

 本心だ。人の感情の機微をよく読み取れる。嫌がることはしない。優しく思いやりを持って人に接することが出来る。それは人として、とても大切なこと。大人でも難しいことを、アエラはすることが出来ていた。

「……当然です。カティアと、貴方の娘なんですから」

「運命から逃れた子、ですか」

「何ですそれ」

「姉がかけた呪縛です。彼女は持てる力の全てを使い、私とアデレードを呪った」

 どうか、離れられなくなってしまえ。自分とオクタウィアが受けた痛みを知らぬまま、生きろと。愛情によく似た呪いの言霊を吐いた。それは見事に、オフェリアの人生を狂わしている。

 フォーレが末期に願う夢。それは必ず叶うもの。オフィーリアの願いは、呪縛の輪廻で築かれた砂上の楼閣を破壊することだ。フォーレを滅ぼし、悲しみを砕く。だから、双子はもう生まれない。オフェリアとアデレードで最後だ。

 最後の双子は離れられなく。二人で閉じこもって愛を育め。親も子も無く、二人だけで。

 だが、そんな運命はマルガレーテによって回避された。それがアエラという少女だ。生まれるはずの無かったフォーレの子。オフィーリアの願いとは裏腹に、フォーレはまだ生き続けることになる。

「フォーレの子は、絶対に双子しか生まれないのです。祖父オベロンも、父オルフェオも双子でした」

「――――そんなことが、あるのですか?」

「呪術的なものです。陰と陽の二極を生み、一人を間引くことで陰陽揃った完璧な一人を作り出す。双子は、十歳の誕生日に決闘をするそうです。それで一人になる」

 その悲しみから逃れる。アエラは、双子ではなかった。それはもうフォーレの呪縛が解かれたことを意味している。オフェリアは、アデレードを殺さなかった。その前に、九歳でフルジアに行った。思えば、ゲルトラウデは双子の両方を救ったのかもしれない。

「貴方は運を操るのでしたね。それで、妹は命を救われたのかもしれません」

「結局は、運です。それは誰にもわからない。神にだって、わからない」

「報われませんね、貴方も」

「救いに報いは求めず。誰かを助けることに、見返りを求めるものではないと思っています」

 レアティーズは、見返りを求めてしまった。特別な力を持つ特別な人間は、人と違うのだ。差別ということをしなければならない。それを、あの男は嫌がった。

 だがそうしなければ、人と神は違わなければ、誰しもを笑顔には出来ない。そこがこのフィルウィリミテア教の持つ致命的な矛盾だった。人は神になった。しかし神も人である。人には感情がある。好悪もある。だから、救いに偏りが生じてしまう。

 アンドロメダだけを救い、フルジアを叩きのめす。それが神のすることだと、オフェリアには思えなかった。両方を救えないのならば、手を出すべきではないのだ。だから時に、神は人を見捨ててしまう。

 アデレードはそれが嫌だと言った。どちらかしか選べないのなら、諦めるのではなく、どちらも救ってみせると言った。

「――――やはり貴方は、素晴らしい人。嫌うのは、ちょっと難しいですね」

 微笑む。カミラの微笑は、弱々しく見えた。

 それから彼女は、カティアのこれまでを語った。母子家庭で、苦しい生活をしていたこと。カミラの援助を断り、自立することを選んだこと。かつての有名モデルで、カメリア王国の王女は、母になることを選んで生きている。

 誰の力も頼らない、その生き方はとても彼女らしかった。再婚の話を何度持ちかけても、聞く耳さえ持たなかったようだ。

 オフェリアの思考は、いつになく冴えていた。それは、壊れる直前。最後の煌きを放って、終幕を迎えるまで、限界まで回り続ける。

「髪も切って、貴方が会った八年前に別れたカティアとは、老けてしまっていて顔も違うのに。どうしてバレてしまったのかな」

「私がカティアを見失うはずがない」

 今となってはその言葉も、虚しいだけ。

「お願いします、どうか。カティアに会わせてください」

「どうして」

「私に八年は取り戻せませんが、八年を埋めて新たな時は刻めます」

 人の世に手遅れなどというものはない。カミラの言葉が、胸に残る。取り戻すことは出来ずとも、やり直すことは出来るのではないか。空白の時を埋め、同じスタートラインに立つことは出来るのではないか。

 思わず、頭を下げていた。座ったまま、両手を合わせて祈るように。カミラに、頼む。天に、願う。

「私が愛していたのは、幻想だったのです。私自身が、幻想だった。全てこの世は夢幻。だから私は、まだ、カティアに愛していると伝えていない――――」

 それだけが、心に重く、残っている。たとえ散り逝く身なれど。決して叶わぬ夢でもいいのだ。ここで愛する者に会え、想いを伝えられれば、心置きなく、逝ける気がした。

「……私は愛を伝えました。去り逝く貴方の背に、オフェリア」

 三十三歳と二十八歳。決して若くはない再会。八年という時が、私と君を無残に変える。

 

 遠くで子供が遊んでいる。アエラと猫人。じゃれ合う姿は、まるで二匹の子猫のよう。

 二人で、ベンチに座ってそれを眺めていた。言葉は無い。ベンチ、というのもあの日に似ていた。覚えている。あれは、冬の日だった。八年前の別離を、今でもまだ、この記憶は残していてくれた。

 姉と同じように、カティアも自分から口を開こうとはしなかった。膝の上に手を置いて、じっと指先を見ている。オフェリアも視線を追った。手の甲には、あの頃は無かった傷と皺。確実に歳月は過ぎ、そして体に刻まれていく。否応なしに、それがわかった。

「三日後、ルテティア・パリシオールムに行く。決闘になるだろう。私は、勝敗を問わず、隠棲する」

 以前から決めていたことだ。勝つか負けるか、どちらかわからない。分析しても、そうなのだ。だから、いなくなることを前提に話を進めた。ソフィア・ビュザンティオンの管理や、行政、あらゆることを敗北を前提に進めていた。

 だから、勝ってもソフィア・ビュザンティオンに戻ることはない。もう二度と、空の地を踏むことはないのかもしれない。

「レアティーズ・カデンツァと、ですか?」

「ああ、そうだ。親友と決闘をしてしまう。これも、運命かな」

 互いが決着を望んでいた。だが、今年は色々なことがありすぎた。あと数日で、それも終わる。どうか新年は、笑って迎えられるといい。そんな希望を抱くことしか、絶望に打ち勝つ術はなかった。

「何も言わないで。黙って私の話を聞いてくれるだけでいいから」

 微笑んでみせる。カティアの顔が、こちらに向いた。衰えた手、目尻に浮かび始めた細かく薄い皺、思わず抱きしめてしまいそうになるほど、愛しい。そして悔やんだ。カティアとヴィオレッタは、こんなにも違うのに――――過ちを、犯して。

 過ちと思うことさえ、傲慢だ。ヴィオレッタとの愛も、カティアとの愛も、嘘など何一つ無かったのに。何を間違えてしまったのだろう。何が、こんなに運命を狂わせてしまったのだろう。

 思考はそこまでだった。考えることは、やめた。過ぎたことを悔やむ時間は、無い。起きてしまったことを嘘にすることも出来なかった。

「君を愛している」

「――――オフェリア……」

「いつまでも、君と一緒がいい。アエラも、皆、ルテティアにある私の白い家で、家族になりたい」

 本当の気持ちと、事実だけを伝えよう。そう決めた。組まれていた手が、解かれた。カティアは体ごとこちらに向けて、何とも複雑な顔をして見せた。笑っているような、困っているような、感極まった表情なのかもしれない。

 こみ上げる、想い。目に溜まるそれを、オフェリアは必死に留めた。

「私はもう――――長くないんだ。いつ死ぬか、わからないくらいに」

 歯を食いしばった。そうしないと、涙が零れ落ちてしまいそうだったから。言葉が出なくなる。何も言えなくなる。無言で、カティアの顔だけを見ていた。

 彼女は口を少し開けて、表情を、感情を、その一切を失っていた。

「それでも、それでも……それでも君と一緒にいたいと思うのは、残酷だろうか」

 自分も、感情を殺した。涙を、禁じた。鼻を少しすするだけで、それは出来た。終幕は近い。それは全ての。この切なく、救いの見えない、恋物語の終幕も。けれど終わらせたくない。そんなわがままを、許してほしい。

 耐えられない。カティアが何かを言う前に、オフェリアは一瞬だけ、理性を崩壊させた。耐えられない。耐えられないのだ。その辛そうな顔を見るのも、この愛しさにも、何もかもが――――!

 体を抱きすくめる。前より少し肉のついた体を、強く、縋るように、抱きしめる。何も言わないで。この瞬間だけでいい。今という一瞬だけ、八年前でいさせてほしいと強く願った。

「……馬鹿ね、ルーちゃん」

 後頭部を撫でられる。温かな、真昼の夢。目を閉じる。この温もりに、ずっと、ずっと浸っていたい。

「勝手にいなくなっちゃ駄目だって教えたでしょう。私が一緒にいて、守ってあげるから」

 冬の日。未来を幻視する。私はとても大切なものを、手から逃した。この温もりを、逃してしまっていたのか。そして、これが。手に入れるはずだった未来。遅すぎた。迎えに来ることは、八年も遅れて。今にしてようやく、二人は今日という日を手に入れた。

 撫でてくれる手が温かくて、責めることも、怒ることもしないで、ただただ、優しく――――

 閉じた瞳から、零れ落ちた。もう我慢することなど出来なかった。

「ずっと、ずっと。貴方を愛していました。私は貴方を、愛していた――――」

 

 なみだ。

 

 ただ惜しみない愛を。いつか届かなかった、いつか言えなかった、想いが今、肩を濡らす。

 まるで壊れてしまったかのように。この口は愛しか言えなくて、呼吸をさせない。この目は涙しか流せなくて、何も映せない。

 それでもよかった。嘘などではない。本当に、心から、人生の全てを賭けて、愛していることに偽りなど何一つ、何一つとしてない。

 ふたり、抱き合って泣く姿を異様に思ったのか、遠くからアエラが駆け寄ってきた。その姿はぼんやりとしか見えなかったが、アエラは見上げてきょとんとしているようだった。少女にカティアが手を伸ばす。転げ落ちるように、オフェリアは膝をついた。

 強く、力強く我が子を抱く。カティアの手に縋る。三人。家族だ。家族なのだ。信じてくれ、家族にさせてくれ。

「もういいのよ、アエラ。もう我慢しなくて、いいからね」

 優しい声だ。母の声。嗚咽だけが、オフェリアから漏れていた。

 耳元で、娘の声。頬を寄せ、抱かれるままに身を委ね、アエラはパパと呟いた。それはずっと言えなかった言葉。何か今までとは違った感情がオフェリアに芽生えた。可愛いとも、愛情とも違う。言葉にすると陳腐なものだ。ただ一心に、愛のみを。

「パパ、パパ。大好きだよ――――」

「私もお前を、愛しているよ、アエラ」

 過ぎた日は取り戻せない。

 しかし、新たな輝きが時を埋め、そして繋げ、希望に変わった。

 この世に、絶望だけなどということはない。世界はこんなにも希望に満ち、愛に溢れている。

 

 

  Last chapter

 

 レアティーズは大聖堂の前にある階段に待たされていた。

 決して中に入ってはならない、と神官たちに言われて、外で待っている。階段に腰掛け、ぼんやりと真昼の空を眺めながら――――何も考えなかった。

 雲が流れている。良い天気だ。もしも悲しみに耐えられなかった時、酔いのせいで暴れたのだと思わせるために酒瓶を傍らに置いていた。本当に飲んでしまおうかとも思ったが、夢は醒めたのだ。これ以上、酔いに逃げても仕方がなかった。

 しばらくして、ハーミアが一人で出て来た。

「ルーシャは、死んだか」

 頷き。レアティーズはかすかに首を振った。涙が出るかと思ったが、出なかった。心のどこかで、涙を禁じている。泣くのは、嬉しい時だけでいい。後悔で泣きたくなかった。

 これで失うものは何も無くなった。恐れることも、何も無い。もう勝たなくともよかった。負けてしまってもいいのだ。わずかな徒労感と、絶望がレアティーズの心を包んでいる。ハーミアは慰めの言葉を口にするだろう。何故だか、相手の心が読めた。

「悲しまないでください、というのは無理でしょうね」

「そうでもないさ。死なせてしまったという後悔は、実はあまりないんだ。薄情なことだが」

 不思議そうな顔でハーミアに見られる。いつも自分はそんな顔でハーミアを見ていたのかもしれない。

「ありがとう。きっとルーシャは、俺をオフェリアに勝たせたかったんだろう」

「絶望の怒りで、オフェリア様を貫くことを望んだ。そういうことですか?」

「――――でも俺は、悲しいけど、アイツのせいだなんて思っちゃいない」

 叶わなかった恋を、抱いてしまった。夫がいて、愛する者がいて、そんな人を奪って無理やりに自分のものにした。屈しない強い心はとても美しくて、気付けば、惚れてしまっていた。想いが、届くはずなどなかった。体は屈していても、心までは折れない。折れる女性なら、好きにならなかった。

 一瞬でも届いたのは、夢の欠片を見せてくれたのは、幸運なことだった。死という覚悟を持って、ルーシャは応えてくれたのだ。自分なりのけじめ。愛してはならなかった人を、受け入れてしまった。

 死で報いることになってもいい。それでも、愛を伝えたかった。ルーシャがそう思っていたと、信じた。

「だから、ありがとうかな。さよならの言葉は」

「強く、なりましたね」

 いつも見守ってくれた女性はそう言って、優しく微笑んでくれた。まるで母親のように。本当の母をレアティーズは知らなかった。いつも家にいて、それとなくカデンツァの馬鹿者たちを見ていてくれたのは、アリアの母親の親友だった。

 ローゼンミュラーがフォーレ家の侍女なら、カデンツァ家の侍女はリラという女性だった。

 

「いつも見守ってくれていて、ありがとう。母さん」

 

 ありがとう、ハーミア。こんな危なっかしい息子だったが、それももう終わる。

 不思議と、気持ちは落ち着いていた。これが覚悟というものなのだろうか。心は透明で、平静で、もういつ死んでも構わないと思えた。

「レアティーズ様、わたしはカペラと違って、駄目な給仕でした。お父上を守ることが出来ませんでした。どうかお許しください、どうか」

「もういいんだ。何も気にしなくていい。厳しかったけど、感謝してる。大好きだぜ、ハーミア」

 たとえ死ぬことになったとしても、何も気にしないでほしい。オフェリアに任せれば、安心だ。幸せな老後を過ごすことが出来るだろう。だから安心して、戦いに臨める。

 泣いているハーミアから目を離し、振り返った。

「わたしも、大好きです。お仕えできて光栄でした――――っ!」

 海のように青い空から、空を飛ぶ船が近付いて来ていた。

 自然と、レアティーズは笑っていた。

 

 

 

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