| 世界が生まれ変わるのを、オフェリアは横目で見ていた。 ソフィアの市街。カフェテラスでモーニングコーヒーを愉しんでいた。流れるニュースは視界から外れているが、耳には届く。特にソフィア市では報道を重要視しており、情報の取り扱いは他国よりもずっと優れている。 ニュースは新たな政教条約を報じていた。六年前にリューヴ・ルテティア間で締結されたレストア条約を打ち消し、政教分離を謳った内容の条約だ。草案はソフィアのオフェリアが作り、リューヴのカルディアが条約として仕上げた。 内容は主にソフィア・ビュザンティオンの中立性を求めるものなのだが、暗にルテティア・パリシオールムも含まれていた。ソフィアとルテティアはフィルウィリミテア教国とでも呼ぶべきもので、すでに国家の様相を呈している。前者はオフェリアが、そして後者はレアティーズが作り上げた国と言える。 二つの組織はよく似ている。酷似していると言っていい。 しかし対立しているのだ。考え方だけが、対照的だった。オフェリアは政治と権威の分離を唱え、レアティーズは政治権力を融和させて強固な国家建設を叫んだ。 どちらが正しく、どちらが愚かか。その決着はつまるところ、二人の決着にかかっているものだ。国家を背負った二人の人間の争いなのだと、はっきりとわかる。勝ったほうが正しく、負けたほうが愚か。単純で、清々しい対立ではある。 決着は二人の闘争によるものだ。善悪の違いなどない。しかし、優劣の違いはある。 現状がその差異だった。政治家が宗教を背景に民衆を統率し、権威を盾に権力を行使することは容易い。信仰を禁止することは、人の心を蹂躙することだ。それは誰にも出来ないことだ。レアティーズは言う。お前は神を信じているのだろう、と。そして続ける。ならばあれが神の敵だ。戦え、とけしかける。 対照的に、オフェリアは権威と権力を分かとうとする。なぜなら、政教の一致は独裁者の暴走を生む。善悪の区別なく人々の思考を統率するもの、それが信仰。信仰を集める者は、決して言葉を紡いではならない。神の言葉が絶対である限り、神は中庸でなければならないというのがオフェリアの意思だ。 それでも、両雄は似ている。神と覇者は別であり、互いに覇者を望んでいる。神が世界を制覇するのではなく、覇者が世界を統一する者だと想っている。人の力。それこそを信じている点で、二人は教義主義者の考えから遠く離れていた。 原理にある。聖なる神と魔なる神の争いは、必然的だと。 教義にある。聖魔の決戦は、聖の勝利で幕を閉じるのだと。 おそらく、聖魔決戦は近い。問題は、どちらがどちらなのかだ。 「困るだろう。こういう会い方は、リゴレットが疑ってしまうぞ?」 ようやく待ち人が来た。ルキア・バルカは困惑した顔をしながら、対面の椅子に座った。確かに彼女の言うとおりだ。早速、用件に入ろう。 「子供を預かってもらいたい。決戦は、きっと近い」 「――――構わない」 こういう時、血を分けた兄妹というのはいい。こちらの意思を明確に読み取り、即断してくれた。無駄な説明が省ける。オフェリアは受け渡す場所と時刻の書かれたメモを渡し、伝票を持って立ち上がった。 ふと思う。どうしてルキアはここにいるのか。どうしてレアティーズの陣営を裏切ったのだろう。会計を済ませて外に出る時には、もう彼女の姿はなかった。置かれた水が、ふたつ。されどテーブルには誰もいない。 恋心、とかいうやつかな。 そんな邪推をして、オフェリアは暗く笑った。ならばいい。そうであれば、救いがある。自分はもう遅いだろうが、クローンとして生まれたことが全く無価値なわけではないのだ。
ぶらり、と。街の中を散策してみる。趣味というわけではないが、街を見て回ることが多かった。 やはり旧カメリア人が多かった。シリウス人など難民が集まって出来た街なのだ。それでも、リューヴや地球から移住してきた人間もいる。人口は、およそ二十万といったところか。税収、特に王立大学やユーリヤ学園など教育機関からの税収が軌道に乗っている。 かつて、現在のマジェラニックからフルジアまでを制していたプロシア公国。その首都であった天都ソフィア・ビュザンティオンは世界帝国の一翼を担い、聖都ルテティア・パリシオールムとは比較にならない発展を遂げていた。 オリュンペイオンしかないルテティアとは違う。そしてその全てが、千年間、保存されていた。これらの条件で、フィルウィリミテア教は本拠地をルテティアからソフィアに移したのだ。ベルベデーレの五人はデルフィオーレを無視してルテティアに入ったが、やがてソフィアに移り、今はバテン・カイトスにいる。 バテン・カイトスは今でこそ未開の惑星だが、プロシア公国時代はアルゴナウティカ号の停泊地の一つで、エモーナ・アルゴナウティカと呼ばれていたそうだ。現在のシーテス星系を統率し、ルテニア、あるいはルースィと呼ばれていた。 つまり、フィルウィリミテア教はソフィア・ビュザンティオンの掌中にあるわけだ。これは大きい。ルテティア・パリシオールムを強襲したとしても、信者から非難されることはないだろう。 オフェリアは上手く立ち回る。少しずつ、少しずつでもレアティーズを追い詰める。そして今や、詰めの段階に入った。レアティーズが逃げることは不可能だ。オフェリアはフォーレを捨て、アエロナウティカの名で世界に参上し、オフェリア・フォーレの亡霊を追い詰めるのだ。 直接対決でどちらかが勝つのか、それは神のみぞ知る。 単純な武芸ならば、レアティーズに軍配があがる。同じ剣術、同じ経験。違うのは、体格だ。体重の差はおよそ十五キログラム。身長差は約十五センチ。これはオフェリアにとって絶対的な不利になる。腕力一つとって比べても、オフェリアの細腕とレアティーズの筋力が同等とは思えない。 だが、イスラフィルを展開させれば勝負はオフェリアで決する。レアティーズはいかに砲撃をかいくぐり、オフェリアに肉薄するかの勝負。いわば、間合い。距離を制する者が世界を手に入れると言っていい。 決闘は避けられない運命だ。勝敗までは、オフェリアには見えなかった。ただ勝つという一念のみがある。 「誰かと思えば、オフェリアか。政務かよ?」 街からアヤソフィアで外殻部に向かう途中、フェリーチェに出会った。嫌悪感は、顔に出さない。そのあたりも成長したものだと思う。 「いや、違う」 「時間があるならちょっといいか?」 小さく頷く。アヤソフィアのオフィスの一室で、オフェリアは図面を見せられた。ソフィア市の地図で、七つの区画と大まかな人口分布、それから建築物が書き込まれたものだ。 「基本的に商店街やらショッピングモールは集めておく限り中央区に置くんだろ?」 図では、密集した商業区が指定した中央区から少し外れ始めている。北区に寄っていくのは王立大学があるためで、人口の密集が増加している傾向にあるからだ。北に伸びるのはある程度、黙認せざるを得ない。しかし、南に伸びるのは問題があった。 「南区は今後のために開発させていない。密集し始めたのなら、規制するしかない」 「住宅地にするんだろ、知ってるよ」 「東西になら伸ばせるんじゃないかな。中央区に隣接する区画と、ハンガーに接する外壁の近辺」 ソフィア市にやって来る人間は、絶対に航宙船を使う。それはカタパルトを経て、両側面のハンガーに収納される。人は転送装置を使って船の下部にあるロビーに回されるのだが、外壁のゲートをくぐってハンガーから直接、中に入れることも可能だ。 その場合、中に入った直後に商店があるというのは面白いかもしれない。もし無計画に伸びる商店を東西の外壁に移せば、単なる旅行客や観光客を相手に経済が活性化する。元より、そのつもりで中央区に商店街を密集させている。 「ああ、なるほど。フェリクスに言ってみるかな。助かったぜ」 「気にするな」 気に入らない相手でも、協力し合わなければならないこともある。最初は険悪な雰囲気さえあったが、今は目線を合わせない程度で、何とか関係を維持している。それでいい。礼を言うフェリーチェの肩を叩き、やはり目線は合わせずに退室する。 全員に好かれることなど不可能だ。軋轢もあって当然だった。それは当たり前のことで、小さな衝突も争いも然るべきことだ。 それが違うというのであれば、この世界は戦争などやっていない。
追われている。それがはっきりとわかった。 外殻通路を走る。BデッキからAデッキへ、外殻通路を抜けるしか方法がなかった。 背後から迫る気配は、何者か、よくわからない。武器は使ってこない。ただ、追ってくるだけだ。無我夢中で足を動かした。通路を鳴らす、高らかな足音。 息を切らしながら、長距離走を走り抜く。距離にしておよそ十キロメートル。時間がかかる。しかし背後の気配は徐々に薄れていった。鍛え方が違うのだ。そう思った。ついて来れなくて当然。このルートを選んだ意味はあった。 オフェリアは片手にガラスの瓶を持った。そのまま、通路を突き抜ける。 「動くな。ここは袋小路だぜ」 通路の先は、A3レベルに通じていた。軍用の商店や医務室が並ぶ、比較的セキュリティの甘い場所だ。中には大浴場などもあるらしい。 視線の先に、十名ほどの兵。皆が銃口をオフェリアに向けていた。先頭は、リゴレット・リエンツィ大佐。背後からやがてセリア・イザーク中佐の保安部も到着するだろう。まさに、逃げ場は無いということだ。オフェリアは動きを止め、おとなしく壁に背を預けた。 「何の騒ぎ、うるさい」 子供と手を握った、女性の姿。店に通じる通路を下り、階段からこちらを見下ろす姿。 オフェリアは、階上のオフェリアを悠然と見上げた。 「エヴォルブ・オフィーリア。見たことがない型だ」 「初めまして、我が兄。私はオフィーリア・フリューリング」 両手を広げ、礼をする。その仕草に、リゴレットも、後ろから来たイザークも少しばかり驚いたようだった。
「我が主、オフェリア・ヴァン・フォーレの命を受け。貴方を暗殺しに参りました」
思い切り拳を握った。瓶が、割れた。 同時に、幾つもの光が体を貫いていったのがわかった。 口を開く。最後に、言わなければ、伝えなければならない言葉。
1 崩れ落ちるオフェリアを、リゴレットは目の端で捉えた。倒れたのは二人。オフェリアとオフェリア。良いオフェリアと悪いオフェリアだ。最後に何か呟いていたが、リゴレットには聞こえなかった。 束の間。ほんの一瞬、リゴレットは錯乱した。 敵を殺すべきか、仲間を生かすべきか。答えは決まっている。 「イザーク、ソイツをよく調べとけ――――!」 叫ぶ。場に響く、鋭い声。慌てるな。リゴレットは自分に言い聞かせ、倒れ伏したオフェリアに近寄った。階段を転げ落ちてきたのだ。射撃を終えた兵士たちが、近付いてくる。フルジア兵だ。皆、表情に心配と不安の文字を浮かべていた。 血。目を閉じ、苦しそうに咳をするオフェリアの口に鮮血がある。ぴしゃり、と。喀血はリゴレットの顔に届いた。苦しんでいる。見るからに、苦しんでいる。毒。すぐにそう思った。気密性の高い宇宙船の中で毒をばらまければ、その効果は甚大なものになる。何せ、換気が難しい。窓を開ければそれで済むという問題ではないのだ。 だが、それらの問題をリゴレットは忘れた。忘れるようにした。兵士たちを退かせ、オフェリアの体を担ぐ。軽い。こんなにも軽い体だっただろうか。痩せた。はっきりと、それがわかる。 肩にオフェリアの痩躯を担いだまま、階段を駆け上る。隣に、アエラが立っていた。ぼうっと呆けた様子でこちらを見ていたが、けほけほ、と、可愛く小さく咳をしている。その少女も担ぎ、両肩でしっかりと二人を抱く。 医務室。そうだこのレベルにある。すぐに思い立った。 通路を突っ走れ。足を動かせ。一刻も早く、医務室へ二人を連れる。暗殺。いや、これは大規模なテロリズムと言える。オフィーリア・フリューリングが撒布した何かは、明らかに毒の類で、空気を汚染している。オフェリアだけではなく、アエラも感染している気配がある。 だが、リゴレットの体は何の異変も示さなかった。走れる。抱えられる。力もいつもと同じだ。頑丈な体だからな、とリラックスするように笑うように務め、医務室のドアを蹴破った。自動のガラス戸が粉砕された。 驚いた顔の男性医師の前に、二人を投げ出す。ベッドの上に並んだオフェリアとアエラ。娘は意識があり、軽く咳き込む程度だが、オフェリアはまだ苦しそうに目を閉じて、ひゅうひゅうと呼吸音を漏らしているだけだった。 その足で医務室を飛び出し、フロアを駆け上がった。 A3レベルの上にあるA2に、ハイジーニックスがある。公衆衛生の管理局。飛び込んだ。中にいたリタが目を丸くする。ここまで慌てたリゴレットの姿を見たことが無かったのだろう。 「オフェリアが、倒れた。よくわかんねえけど、倒れた」 「待て、落ち着け。リゴレット・リエンツィ、何かあったのか?」 「それが、わかんねえんだっつってんだろッ!」 何かが割れるような音。見る。医療器具のようなものが、倒れていた。じわり、と液体か何かが漏れ出て、リゴレットの靴に触れた。不意に、何かを理解した。 知らず、殴りつけてしまったようだ。この非常時でもいつもと変わらないリタの姿に、苛立ちを覚えてしまった。それで何が解決するわけでもない。解決出来るのは、この小さな女医だけだというのに。リゴレットは黙って頭を下げた。 「――――化学テロ。化学兵器か細菌兵器かわからないが、とにかく何かが撒布された。オレは何も変わらないが、オフェリアが重体、アエラが軽症なんだ」 「……それは、一大事。すぐに下へ行くぞ。この基地にバイオハザードの対策はあるのか?」 アビーを呼び出す。小走りで外に出ながら、そういえばどれほど長い階段を駆け上ったのかと考えた。リフトを使わないフロア間移動は階段が用いられるが、あまりにも長いため普通は使わない。非常時だけのものだ。 火事場の馬鹿力、とかいうやつだろう。人間はよくわからないことを、よくわからない時にしてしまうようだ。 「Aデッキ、レベル3、商業区と外殻通路の接点にて空気汚染を確認しました。かなりの高濃度です。A3レベルを中心に、各フロアに感染が広まっています」 「アビゲイル、撒布物質は何か?」 「何かの……化合物です。細菌やウイルスの類ではありません。A2、Aレベルの全フロアが感染。A5、6、7レベルの80パーセントが感染。ソフィア・ビュザンティオン、ヴェレ界面に広まっています」 毒ガス、ということだ。神経ガスか、それとも窒息剤のようなものか。人体に有害な化学化合物が空気中に撒布されたのは間違いのないことだった。しかし、その割には視界に入る政府関係者たちは元気そうだった。何かが起きたことを察知し、ざわついている。 「リゴレット、思い出せ。何が撒布された。犯人が持っていたのだ。何を持っていた――――!」 走りながら、悲痛な顔をしたリタが叫んでいた。珍しく感情を見せる姿に、これが危機に瀕する事態なのだと知る。 フリューリングは、オフェリア・フォーレの命令でオフェリアを暗殺すると言っていた。つまり、レアティーズが命じたのだ。ならば生易しい手段は選択しないだろう。ソフィア・ビュザンティオンを壊滅させるくらいは考える。 「確か――――瓶のようなものに入っていた。液体だ。色は透明。臭いはしなかった」 医務室に到着する。騒ぎを聞きつけた者と、フルジア兵が見守っていた。人波を除け、リタと二人で医務室に入る。 オフェリア。ベッドに寝かされた小さな体。先ほどより表情は落ち着いているが、依然として息苦しそうだった。アエラはそんなオフェリアのベッドに腰掛け、吸引機のようなものを口に当てていた。 その隣に、アスワドがいた。ああ、そういえばアスワドを忘れていた。後を追ってきていたのだろうが、リゴレットはすっかり忘れてしまっていた。 「……拙い。とにかくバイオハザード対策を実行しろ。エアロックは完全に遮断される。身動きがとれなくなる。リゴレット、ここにいたいか?」 「邪魔なら別の場所に行く」 「いや、構わん。アビゲイル、汚染エリアは?」 「A、B、Cデッキ全域。都市部はヴェレ界面の上層部が汚染されています。アヤソフィアより被害報告が入っています。二十二歳総務省職員男性、三十八歳財務省職員女性、二十六歳兵務局職員――――大変です、ティア・ヴァーグネル少佐です」 「繋げッ」 備え付けてあったディスプレイ。ティアの顔。顔色は、あまり良くない。時折、咳き込むような様子だったが、会話が出来ないわけではなかった。 「報告、アヤソフィアのビル内部で頭痛や咳を訴える者あり。バイオ・テロか何かかのようだ」 「確認してるぜ。ティア、すぐに医務室に」 「いや、僕なら大丈夫だ。症状はいずれも軽度で、重くとも歩行に障害がある程度。都市部に広がる前に封鎖をすべきだと思う」 情報が徐々に集まりつつある。感染者は総数の六割程度。いずれもオフェリアほど重くはない。これはどういうことなのか。とにかく、まずは感染の拡大を防ぐことだ。アビーが頷き、外殻部にあるエアロックでフロアを遮断する。感染区域では下ろされていないのか、リゴレットの周囲では何も起きなかった。 ただ、外殻部と都市部を完全に隔絶することは難しい。どうしても都市部に化学兵器は流入してしまう。外殻部は外壁、つまり宇宙空間への気密性は高いが、内部への気密性はそれほどでもない。 瓶一杯。およそ500から600ミリリットルの量。気化した瞬間、最も多量にオフェリアは吸い込んでしまったということなのか。 情報を集める。まずそこから始めようと思い、リゴレットはアビーを見た。 「感染者の特徴ですが、報告の中でオフェリア様を除く全員が――――カミーユ種です」
「まだ根拠の無いことではあるが、カミーユ種だけに反応する化学物質なのかもしれない。一応、オフェリアもカミーユ種だからな」 「そうなのか?」 「クオーターだ。祖母がカミーユ種だったかな。まだよくわかんのだがね、とにかくワタシは分析を行う。ハイジーニックスに戻るが、お前たちはどうする?」 一息、ついてみる。オフェリアとアエラの容態は相変わらずだ。医務室など機能していない。謎の化学兵器による攻撃は、こちらの医療機関を麻痺させている。何せ、対処方法がわからない。指をくわえて見ているしかない。 一刻も早く分析結果を出し、解決策を見つけることだ。都市部に広がった場合、カミーユ種の数は膨大に膨れ上がる。被害が増えることは目に見えていた。 「協力するぜ。それしか、出来ねえ」 「わかった。サンプルを採って来い」 医務室から出て、リタと別れた。アスワドはずっと側にいるらしい。そういえば、イザークはまだあの場にいるのだろうか。少し気になって、駆け足で現場に向かう。すでに外殻部には非常事態宣言が出され、職員は指定された避難場所へ移っている。どこも感染しているのだが、まだ死亡例は出ていない。 商店を過ぎ、現場が目に見えてくる。数名の兵士が囲み、イザークが腕を組んでいた。水溜まりのようなものが見える。揮発性は低いのか、まだ液体が残留していた。 「オフェリアは、オフェリアは無事か?」 「慌てるなイザーク。何とも言えねェんだ。今、リタが成分を解析しているところだ」 周りの兵士たちも不安そうな顔だった。リゴレットは渡されたシャーレで液体をすくいあげ、保存した。 「とりあえず、カミーユ種に反応するモノらしい。職員の六割がカミーユ種だが、いずれも軽症だ」 「そうか、だから私は平気なのか」 「馬鹿だからかもしれないぜ?」 場を和ませるような冗談を言ったつもりだったが、誰も笑わなかった。 兵士たちは持ち場に戻るように伝え、イザークと二人で衛生管理局に向かう。フロア間の経路は遮断されているが、転送リフトは稼動しているようだ。A2レベルに足を踏み入れるが、避難は終わっているのか誰の姿も見えなかった。 ハイジーニックスでリタにサンプルを渡し、ベッドに腰掛ける。 ふと、時計を見た。事件発生から、気付けば三時間も経っている。あっという間で、時間の進みなどまるでリゴレットは感じられなかった。 「ARrSの発展型だ。マルガレーテが開発していた、な」 「もうわかったのか?」 椅子を回転させ、こちらを向いたリタの表情は、無気力にも見えた。笑っているようにも見える。何にせよ、嫌な表情だとリゴレットは思った。 「リューヴ・キラーだ。原住リューヴ人抹殺兵器」 「……何だと?」 「アンチ・リューヴ=レイス・ウイルス。ARrSということだ。ウイルスと言ってはいるが実質的には化学兵器だ。リューヴ人の遺伝子に反応し、発症する。それ以外の遺伝子保持者には無害だ。誰にも気付かれずにリューヴ人を殺す兵器」 マルガリータ・アシャレド・ナツィル・ニラリは語りだす。 自分、マルガレーテ・シン・シャル・イシュクンの罪をだ。 八年ほど前にレアティーズ・カデンツァの依頼を受けてマルガレーテが開発した化学兵器が、今回のテロに使用されている。開発の経緯はこうだ。イコライザーの実用化に伴う彼らへの抑止力。そしてオフェリアの暗殺を可能にする兵器。 それは保険だ。もしオフェリアがルテティア・パリシオールムに乗り込んで来て、レアティーズを殺そうとした時、オフェリアだけが死ぬ毒ガスを作れないものか、と。他の誰も殺さない、ただ一人だけを狙った弾丸のような毒を。 結果として、リューヴ=レイスの遺伝子を読み取って反応するような化学兵器が完成する。しかしレアティーズ自身もリューヴ=レイスであるのなら、両者共倒れになるのではないか。 「簡単に言うと、FFRCの遺伝子組成に反応する。つまりフォーレの血が半分、リーティアの血とカミーユの血が半分ずつということだ。これら四つの遺伝子がある場合、死に至る。一つや二つでは軽症だ」 リューヴ=レイスといっても完全な純血は存在しないとリタは言う。オルフェオはカミーユとフォーレのハーフだった。母のガートルードも、父親がフォーレとアルエのハーフだった。オフェリアは完全なウリエル・フォーレの純血種ではなく、リーティアの血も混ざっているのだ。 「それでどうなんだよ、オペラは――――!」 「うるさい肉ダルマ!ワタシだって本気だ。ワタシだって、本気で救いたい」 ぽろり、と。何故かわからないが、いつも不機嫌で皮肉屋な少女の頬を濡らす、涙。 「ワタシが初めてここに来た時、言ってくれた。母の罪がどうして子供にもあるのか。世界とかいうモノが馬鹿に見えてた小生意気な心を、オフェリアは救ってくれた」 それは、リゴレットには決してわからないことだろう。孤高の天才学者。道を外しながら、それでも、突き進んでいく狂想の夢。マルガレーテが願う未来。それは絶対に、相容れないものだ。そしてきっと、絶対に許されないもの。 リタはその結晶だ。オフィーリアを作るという夢。人の手で神を作り出すという夢。その欠片である少女が、いかに歪んで、いかに狂っていくか、想像などつかない。マルガレーテにとってマルガリータはコピー品に過ぎず、自分の存在意義を疑って、世界を嫌う、少女の明日は無く。 もし、そこから救えるとすれば。それは同じ痛みを持つオフェリアだったのではないか。何を語り、何を言ったのかはわからない。それでも、オフェリアがこの少女を無意味な世界から救い出したのだとわかる。信じている。たとえ敵であったとしても、オフェリアならば手を伸ばすのだと。
「だから、今度はワタシが救ってみせる。負けるものか。あの女に、負けるもんか――――」
涙を滲ませ、それでも流さぬ意志の強さ。その強さに、リゴレットは息子を救ってもらい、信頼関係を築くに至った。信じていい。信じていいのだ。この少女は負けない、絶対に負けることなどないのだと、信じていい。
2 フリューリングの死体を片付け、ハイジーニックスより除去班が送られてきた。ARrSのガスがまだ充満しているが、カミーユ種以外に感染者は出ない。それが判明したことで、艦内は自然と落ち着いた。 都市部に被害は出ていなかった。ヴェレ界面で完全に遮断出来たのと、他から流入する量では微量すぎて感染しないのだという。そもそもカミーユ種は温度や病原体に強く、風邪もひかない。オフェリアなら感染する量でも、カミーユ種には通じなかった。 元々、オフェリアだけを殺す兵器だ。心配することは、あまりない。 A2司令部に戻ると、ティアが待っていた。顔色はかなり改善されている。咳も、していなかった。 「フィアから連絡が入りまくってうるさいのなんの。アエラの件もあるし、リューヴに行こうと思うんだけど?」 フィアは今、カルディアにつけている。まだ太陽系同盟の情勢が不穏であり、完全にアンドロメダ・クラスターに協力するという形はとれていない。その原因が、マクベス・ライルの暗殺犯が捕まっていないことにある。様々な陰謀論が取りざたされ、疑心暗鬼になっている部分がある。 アンドロメダの政治力を高めるため、フィアが協力に行っている。現段階でのソフィア市の外交はリューヴを通じてアンドロメダに語りかけるというものだった。それに、フィアがいればカルディアの安全も保たれるだろう。 「いや、ちょっと待て。エーファ・ブリーゼマイスターが到着してからだ」 フルジアとの外交も展開している。捕虜となった近衛第一師団がある。これを条件に、フルジアと話し合うテーブルを用意したのだ。これは政教条約となったソフィア条約の項目にあり、アンドロメダとフルジアの外交官の派遣を規定していた。 アンドロメダ側は条約を批准し、近々セシル・バルツァーを外交官として駐在させる。それに対し、エーファ・ブリーゼマイスターがフルジア帝国の外交官に当たる。フルジア側も条約を批准し、ソフィアの中立を飲む限り、外交官を設置しなければならない。 この両者が歩み寄れば、捕虜の返還や流通などを通じて休戦を話し合うことが出来るかもしれない。 「あ、エヴィさんは今どこに?」 「ナーディル・アルダシールの報告では、カニス・マヨールに入っている。近日中に来ると思う」 そういえば、フルジア兵もここにはいるのだ。黙ってリューヴに連れていくのもどうかな、と思う。 騒々しい音がリゴレットの耳に入った。振り返る。血相を変えた女性が飛び込んできた。カティアだ。慌てた足音で近寄り、リゴレットに飛び掛るようにして接近してきた。 「何があったのリゴレット、化学兵器のテロって聞いたけど――――!」 家にいたのか、情報が入っていないらしい。リタの尽力のおかげで、徐々に汚染区域は狭まっている。完全に下との通路が隔絶されているわけではなく、アヤソフィアの一部から上に来ることは出来るようになっていた。 「アイツを狙ったものだ。重体で、今は意識がない。カティア、どこにいたんだ?」 「A4展望室よ。閉じ込められて、出られなかったの」 「オペラは下の医務室だが、もうすぐこっちに移る。艦長室にな。側にいてやってくれ」 カティアは健康そのものだった。汚染区域にいたのに、何ともなかったのか。あるいは、ティアのように治ってしまったのか。ティアも完全には治っていない。ただ無理をしているだけで、それはリゴレットも気付いていた。 現状ではオフェリアを心配して医務室に詰め掛ける者が多すぎるため、セキュリティレベルの高い艦長室に入れることになった。重症のオフェリアを癒す手立ては、リタにしかわからない。打つ手の無い状況であれば、医務室も艦長室も変わりはない。 しばらくして、オフェリアがアスワドの背で運ばれてきた。艦長室に入れて、ベッドに寝かせる。この際だ、セキュリティがどうのこうのと言うのは禁止した。アビーも黙認したようで、カティアと二人きりにさせて部屋を出る。 「ティア、お前も寝てていいんだぞ」 「いや、いる。ここにいたいんだ」 それ以上、強くは言わなかった。ティアは一切、辛そうな素振りを見せようとしなかった。
発生から十八時間が経過した時、リタが司令部に現れた。階上にある艦長室を眺めながら、あっという間に過ぎた時間だった。 五人で階段を上り、入室許可を求める。頬を濡らしたカティアが入れてくれた。リタは注射器のようなものを片手に、オフェリアの袖をまくった。細く白い腕。痩せた。思うに、オフェリアという人間は走り続けている。 ソフィア・ビュザンティオンを、国にした。国家としての体裁を整え、システムを作り、外交でアンドロメダ・クラスターに認めさせた。単なる航宙艦を、そこまでのし上げられたのはオフェリアの功績だ。あまり見えることはない手腕だったが、ここ三年間、オフェリアは寝食を忘れてそれをこなしてきた。 仕事はいくらでもあった。選挙制度の確立や法律の制定といった大きなものから、物流の管理や蒼海鎮の訓練、教育と小さなものまで、全てにオフェリアは関わっている。おそらく、この人物がいなければ、ソフィア・ビュザンティオンは出来上がらなかったし、維持も出来ない。 偉大である。つくづく、リゴレットはそう実感した。 走り続けている。それはいつからか、と思うことがある。四年前のフルジア追放からか、それとも八年前の皇帝即位からか、あるいは。それ以上、考えたくはなかった。ぞっとするのだ。人間が、それほど働けるはずはない。 まさに、命を賭してオフェリアはこの時代に生きている。 命そのものを、刻んでいるように思える。 痩せることもあるだろう。疲れたなどとは言っていられなかったろう。それでも、倒れることを自分に禁じた。辛いという口を自分で縫った。そうして、こんなに細く白い腕になったのだ。まくられた腕を見て、リゴレットは視界が滲んだのがわかった。 「本当なら、即死でもおかしくはなかった」 注射を打ち終えたリタが、振り返った。カティアが床に座り込み、イザークは呆然と立ち尽くしている。思いは同じ。イザークもティアもアスワドも、目に涙を浮かべていた。リゴレットは、強引に袖で目を拭った。 「現にイコライザーは全員が死亡している。先ほど、確認したのだが」 「それは、何を意味する?」 「FFRCの遺伝子に反応すると言ったが、オフェリアはFFRCの遺伝子ではなかったということだ。このFFRCの組成はオフィーリア・フォーレと同じものだ。オフェリアは純粋なクローンではない。デリヴァランスとは不思議なものだな」 本来なら、三つ子だった。一番下の妹をアデレードとオフェリアは食い合ったらしい。 「そのせいでオフェリアは不安定な肉体になったワケだ。乳房はあるし、陰茎もある。それは何も染色体に限らず、遺伝子にも言えることなのだろう」 とん、と足音が聞こえた。ドアの方向を見る。オフェリアと同じ顔。心配して駆けつけたアデレードの姿がそこにあった。 双子だというのに、アデレードは無事だった。感染区域にいなかったのだろうか。 「理由はもう一つよ、リタ。オフェリアの体内にはウイルスがいる」 「……やはり、それか」 「そう、だからカティア、貴女は抱かれなくなった。キスさえね。人の粘膜を介して感染するウイルスのキャリアなの。そのウイルスが、今回の化学兵器も少しは跳ね返した」 人にとっては無害だが、他人にとっては有害になるウイルスもある。リューヴ人にとって死に至る化学兵器でも、タイタン人には効かなかったようにだ。オフェリアなら、カティアを守るために無言で体を離すこともするだろう。 言葉を聞いたカティアが、少しだけ微笑んでオフェリアに抱きついた。まだ意識を取り戻すことはないだろう。ひとまず安堵し、戻ろうとした時、アデレードがリゴレットを止めた。 「ねえ、貴方ぐずぐずしてていいの?」 気付いているのは、アデレードだけだった。だから、彼女は教えてくれる。この時、リゴレットは感謝をすべきだった。しかし、出来なかった。冷静な思考を全て吹き飛ばす、アデレードの言葉だった。 「ルキアよ。彼女、大丈夫なの――――?」
走った。何も考えなかった。ただ、走った。 リフトで下へ。A5レベルの士官室。そこの一室を借りている。部屋番号。もどかしい。とにかく、走った。走って、走って、少しでも早く君の場所へ。 すぐ考えればわかることだった。すっかり頭から抜け落ちていた。それは考えないようにしていたのではなく、よもや彼女が、巻き込まれることはないと思い込んでいたから。 オフィーリアの遺伝子を殺すものなら、そのクローンがどうなるのか、考えればすぐにわかることだ。 だが、すぐに思い直す。まさか。そんなことはない。ルキアに何かが起きるなど、有り得るはずがない。有り得てはならないのだ――――! アデレードのようにウイルスを保持しているかもしれない。オフェリアのように突然変異の遺伝子かもしれない。あるいは、とにかく何か、奇跡みたいなものがある。それでルキアは大丈夫だ。いつもと同じく、騒々しいと一喝する。息子が起きるだろう馬鹿者が、廊下は歩けと学校で習わなかったのか。ああ、そんなもん、お前の顔見たくてすぐ忘れるっての。 ドアの前。家の前に立つ。赤子の泣き声。 予感が、汗となって背中を濡らした。 「――――ぁあ」 床に落ちて、ひっくり返った息子が泣いている。顔が、赤い。何かが我が子、ルカの顔にかかっているのだ。それが何か、リゴレットにはよくわからなかった。呆然とした自分の顔が鏡に映っている。それを、ちらりと見た。 ルカと同じで、リゴレットの顔にも赤いものがついていた。そういえば、オフェリアを抱き起こした時、喀血が顔についたな、と思い出した。なら、ルカの顔についているのも、ソレなのか。 いや、自分は見ようとしていないだけだ。目線を上げる。だらりと伸びた腕。十八時間前まで、赤子を抱いてあやしていた腕。それが力無く伸びていて、胸が見える。血に染まっている。それ以上、視線を上げろと言うのか。それを見なければいけないのか。だって結果はわかっているのに。 顔を、上げた。 「ああ、そんな。そんな」 滑稽な呻き声しか、口から出ない。自然と出てしまう。意識せずとも、滑稽な呻き声が出る。 顔。下半分、口から下が赤く染まっている。何度も吐き出したのだろう。何度も、苦しみの中で、血を吐いたのだろう。椅子の背もたれによりかかるように、それでも前を見ることはやめない、愛する妻の最期を想う。 その視線の先は、扉。 待っていたのか。待っていたのか。この、俺を。 ずっと見続けている。ずっと、来るのを待っていたのだ。ドアを騒々しく開け、助けに来てくれる夫を、待っていたのか。それは死してもなお、見続けていて。いつも以上に遅刻するリゴレットを、濁って光を失った瞳が見ている。 膝が、折れた。泣き声。どうしていいのか、わからない。 なんと無力なのだ。どうして救えなかったのだ。どうして、その最期にいてやれなかったのだ。後悔した。涙した。この世の全てを、呪った。そして自分自身を、呪った。どうか救えるなら、どうかルキアを救えるなら、何でもしようと思った。この首を差し出してもいい、悪魔に魂を売ってもいい。 何でもする。何でもするから、返してくれ。 「――――たとえすぐにお前が来ても、救えなかった」 肩を叩かれた。誰かの声がした。イザークの声だ。 きっと彼女の言葉は正しくある。なぜなら、イザークは嘘を言わない。イザークは正しいことばかり言う。それが時に苛立たしいこともある。どんなに早くリゴレットがここに来ても、リタでさえ、ルキアは救えなかった。それは正しい。いつもと同じで、正しい。 そしていつも以上に、腹が立った。 「レア、ティーズ」 立ち上がる。妻を殺した男の名。レアティーズ・カデンツァ。頭の中に、それしかない。 「殺してやる。絶対に、殺してやる」 体が、爆発しそうだった。怒りで、怒りで、どうにかなる。狂ってしまう。それでもいい。あの男を、殺す。 不意に、体が揺れた。殴られたのだ。薄れいく意識の中で、声だけが聞こえた。 「大佐、仇は必ず」 短い言葉。アスワド。邪魔だ。そう言おうとして、意識が途絶えた。
3 目を、閉じた。全てが、潰えた。そんな気がしたからだ。 情報はクローディアス・カーライルの下につけていたアンドレア・ウェーバーという諜報員からだった。ソフィア・ビュザンティオンに潜入させるのは難しく、やっと潜入させられたと思えば、泳がされている気配もある。 暗殺失敗。これで、もう打てる手は無くなった。 フリューリングの素性が割れている以上、決戦は免れまい。そして決戦となれば、レアティーズは負けるだろうと思っていた。ソフィア・ビュザンティオンには勢いがあり、こちらの放った謀略をことごとく打ち破り、人心を集め、攻め込んでくるのだ。 暗殺は最後の手段だった。だからこそ、必殺の手段を選んだ。それでも、失敗した。おそらく運命は、決戦により雌雄を決することを望んでいる。そうとしか思えなかった。不可避の運命。そして命運は、オフェリアに傾く。 全てを失い、敗者となり、この世から、この舞台から去っていく。 「お前だけになっちまったな、アハト」 夜。大聖堂に続く階段に座り、酒杯を傾けた。隣に座った男から、笑い声が聞こえた。間の抜けた言葉だ。皆、周囲にいた者は死んだ。 「フリューは、俺を嫌っていたな」 付き従ってくれた。献身的に守ってもくれた。それでも、あの男は本心でレアティーズを嫌っていた。それが何となく、レアティーズにはわかった。離れたい一心で暗殺を提案し、そして散っていった。そう思うことがある。 世界の嫌われ者。ああ、それも悪くない気がしてきた。 「世界を救うってのは、難しいもんだ」 「そりゃ大将、そうですよ。なんて言っても、世界ですからね」 「そうだな、世界だからな」 最初にここに立って世界を見ようとした時。十年前の出来事だ。覇気に満ちていた。この手で戦乱の世を終わらせ、覇者になろうと思った。それが世界を救うことだと思った。それが、父祖が行ってきた英雄譚に重なることだった。 それが、偽物だった時。空っぽになった。偽者の服を脱ぎ捨てようとは思わなかった。偽者のまま、続けよう。それが責務だ。オフェリアという名前の義務だ。そう自分に言い聞かせて、必死に戦った。 「フルジアは、遠い」 レグルスまでは行った。何十万、百万の将兵を背負って、レグルスまでは行けた。アンドロメダを力で一統し、レアティーズの軍隊はレグルスまで攻め込んだのだ。だが、そこまでだ。偽物の服を着た男は、服を脱ぎ捨てた男に敗れた。 本物。それが、全ての壁だった。やり方を間違えたとは思わなかった。レアティーズ・スコアが立って歩くことも出来た。それをしなかったのは、義務から逃げることだと思ったからだ。救世を託された。偽者だった。それでも、救えと命じられた。 「もしも、俺がレアティーズ・カデンツァだったなら、どうなっていたかな」 「何も、変わりませんぜ」 「何もか」 「ええ。オフェリアはここにいなかったのですから」 アハトの言葉は、優しかった。主従の関係だったが、上下を超えた友人だった。 確かにオフェリアはフルジアだ。だから、誰かがオフェリアにならなければならなかった。悪いのはゲルトラウデか、オルフェオか、それともこの時代か世界か――――全てか。 その憎しみと悪は、俺一人が背負えばいい。俺一人が、共に墓へ持って行こう。 そして世界は、オフェリアを迎えればいい。 「弱気、ですね」 「そりゃ、弱気にもなるだろ。本当に怒ったオフェリアは、怖いんだぜ?」 「……大将、知ってるんですか?」 どこかで、知っているような気がする。友人だった。その記憶は無いけれど、どこかで覚えているのかもしれない。怒ったオフェリアの姿など想像もつかないが、自然と言葉がついて出た。
「スコアに、なりたかったなあ」
ぽつりと、呟いてみた。 本音。戦争を終わらせて英雄になれれば、俺は俺になれると思っていたのに。 偽物の服を着たまま死んでいくのは、少し嫌だった。
それからは、執務室に篭った。色々とやることがある。まずルテティア軍を解散させた。あっても仕方のない軍。ソフィア軍に勝つのは不可能だろう。それに、一万数千の兵を維持していく根幹となっていた条約もすでに破棄されて無い。 原住リューヴ人の血を受ける末裔たち。彼らの顔を、名前を、一人一人をレアティーズは覚えていた。彼らにとっては悪逆非道な覇王だっただろう。だから、会うことはしなかった。暇さえあれば眺めていた名簿を、燃やしただけだ。 権力の一切を、集中させた。アハトの職も解いた、ヴィンターも解雇して役職は全てレアティーズのものとした。それはオフェリアの名前に与えられたもので、その名前を持つ者が全てを兼任するということだ。 そこまでやって、気付いた。仕事の全てが、自分の死後についてのものだった。 「お茶です、どうですか?」 部屋にハーミアが入ってきた。レアティーズは顔を上げ、微笑んで茶の相手を頼んでみた。 「もう終わる。いや、長かった」 「お疲れさまです。急に仕事の虫になったので、わたしはびっくりですよ」 言外にルテティアから去るという意味を込めた言葉は、どうやら届かなかったようだ。いつもと同じ調子で、ハーミアは笑っている。置かれた茶に手を伸ばす。 「オフェリア様との決戦を、気に病んでいるのですね」 心を見透かされる。レアティーズは茶を飲みつつ、答えなかった。言わずとも、どうせこのハーミアには見透かされるのだ。不思議な女性だった。 「聖魔の決戦は、聖書によると必然であると語られています。これは教義になりますが、勝つのは聖であると」 「いかにも俺、負けそうな感じだな」 「また馬鹿を言って。だったら勝つ側に回るのが男ってもんじゃないですか」 本当に、この女性には頭が上がらないという思いがある。気付かされることが多いのだ。確かに、と唸ることが多々ある。ハーミアはごくごく当たり前のことしか口にしないのだが、それが何故か、新鮮だった。 「実はハーミア。俺、聖書なんか読んだこともねぇ」 「頭が痛いですね……」 「正しいことをしてろって言うんだろ。悪いな、それ無理だ。そもそも、俺は神様なんか信じてないんだよ」 これでよく神皇が出来たものだ。高らかにレアティーズは笑った。我がことながら、面白い。滑稽だ。オフェリアに負けてしまうのも仕方がない気がする。 「それなら、何を信じているのです?」 「ただ、己だけを」 「なるほど。だから今、己を見失って自信もなくなっている、と」 「多分そんなところかな」 「じゃあ、この際、開き直っちゃうのはどうでしょう?」 ハーミアの笑顔を覗きこむ。この女性は、何を言っているのだろう。 よくわからないことを言われ、レアティーズは途惑った。自分を取り戻そうと、茶に手を伸ばす。もう空になっていることにも気付かず、傾ける。 「信心も無い、敬虔でもない、何の力も持たない男が、神の如き威光のオフェリアに立ち向かう。ただ己が野望のためだけに。それで、いいではありませんか」 「何の為に?」 「ただ、勝利の為だけに」 清々しささえ感じられる言葉だった。理由などない。ただ、オフェリアに勝ちたい。それだけを理由に、神に叛く。そんな痛快なことが、あるだろうか。 「正しいということは、他人が決めることではありません。自分自身が決めることです。そして自分が正しいと思ったことを貫くのであれば、それはきっと誰にも触れられない神聖なものになるでしょう」 つくづく、ハーミアという女性は不思議だった。 この人間は、俺に、オフェリアに勝てとけしかけるのだ。自分の主人を負かせようと、背徳の偽物を応援している。 それに応えなければならない。心のどこかで、そう叫ぶ。 せめて最後くらいは聖者になろう。心のどこかで、そう反対する。
4 デルフィオーレに頼んでいた旧ルテティア軍の移送が終わったのは、秋になる頃だった。 リューヴにいる教義派のレアティーズに従う者たちは、ほとんど壊滅状態に近かった。イスマイール・アリク・デン・イリが選挙に破れ、多くの政治家たちが追放され、ハイネも捕まったままだ。サマンサ・ラマートだけが生き残っているが、協力をするという姿勢は見せていない。 教義派が滅んだわけではない。しかし、ソフィア・ビュザンティオンを中心に新しい考え方が生まれ始めている。新原理派とも呼ぶべき彼らは、高度な教育を受けて政治界に進出しようとしている。やがて、それぞれの国を背負う人材になっていく。 今まで、フィルウィリミテア教は三つの派があった。リューヴ=レイスの原理派、熱心な信者の教義派、儀式だけ利用する自由派だ。聖典に書かれたことだけを読み取って実践するのは、原始宗教の頃の信者である者たちにしか許されない。だから、リューヴ=レイス以外は原理派と呼ぶことが出来ない。 原理にはこうある。リューヴ人は神の力で人を救う。だから原理派はその力で信者を救う。ノアは病気を治してやり、オフェリアは神の焔で戦神となる。それは、普通の人間には真似が出来ない。だから普通の人間は彼らを信仰し、救われる側に回る。神の力で人を救うという原理を解釈し、信じれば救われるのだ、という教義に変わる。 その教義派が政治家として力を持ち、宗教を背景に選挙に勝ったりもする。政教合致。レアティーズもかつてはその方法を選んだ。私は神である、故に従え。権威と権力の融合である。オフェリアはこれに反発を示した。 新原理派というものは、解釈をせずに聖典を読む一般人の一派である。解釈を曲解と思い、反対する。彼らは一歩進んだ人間である。救ってくれる神など必要としないのだ。ただ、信仰のためだけに神がいればいい。宗教とは生きる者を救うもの。生者が信じることで何らかの力を得られるならば、それだけでいい。 誰かの救いなど必要ではない。幸福は我が手で掴むもの。人の手で掴めるもの。神は、ただ見ているだけでいい。 人の力。思えば、レアティーズもマルガレーテも、目指す未来はそれだった。だから、きっと二人とも新原理派というものになるのだ。神に頼らない強い人間になろうとした。そう――――英雄に。 「まったくお前は大したヤツだ、オフェリア」 宗教革命の様子を、レアティーズは遠くから見ているだけだった。 ノア・リーティアが手配した最後の船。そこに乗っている人物が、レアティーズを訪れた。マルガレーテである。彼女は私室にやって来た。手にしたものは、小瓶。 大聖堂の下にイコライザーを集めてあった。この時が、来たか。特に感慨もなく、レアティーズは小瓶を受け取り、机の上に置いた。 「さて、では最後の真実をお前に明かしてやろう。冥土の土産、というやつだな」 「頼む」 マルガレーテに、記憶の移植を頼んでいた。レアティーズが憶えていることの全てを、取り戻したい。 知っているのはオフェリアとしての自分だけだ。およそ、二十年ほど前の出来事までしか遡れない。それは記憶が奪われたからだ。オフェリアの記憶を奪ってアンドレア・ウェーバーに移植したように。この自分の記憶も奪われた。 部屋が暗くなる。これから、この目を通して、真実を知るのだ。 「レアティーズ・スコア・カデンツァは、二十年前にオルフェオに殺された」 だから、記憶がない。この体が生まれたのは、二十年前からだからだ。それ以前の記憶がないのも当然である。生まれてさえいないのだから。 「お前はゲルトラウデを頼った。そしてゲルトラウデは真実を知った。オフィーリアの真実をな。そしてオフェリアを救うことを思いついた。可哀想なオフェリアを引き取ろう。そして代わりに、お前をオフェリアにしよう」 それは、どんな気まぐれだったのか。神様はきっと俺たちに意地悪なのだと思った。 「お前はオフェリアになるしかない運命だった。誰も、責めない。オルフェオがお前を殺してしまったのは、お前の父親がオフェリアの母を殺したからだ。とすると、悪いのはお前の父となる。だがカンディードはガートルードを殺したわけではなかった。ただ、好いていただけだった」 ガートルード・フォーレの死は、複雑な因子が絡まったものだ。病死には違いない。だがカンディードがオルフェオを呼ばせなかった。二人きりになろうとした一度の悪事が、最悪の状況を生んでしまった。そして、双子の糸が切れた。 「誰が悪いわけではなかった。それでも、誰もが悪かった。これを、運命と呼ばずして何と呼ぶ」 「俺の母親は?」 「エリザベスは出産で亡くなった」 「じゃあ、やっぱり悪いのは俺さ」 「出産は祝福で迎えられるべきだ。お前は何も悪くなかったのだよ」 それが、唯一の救い。 そして、歴史の逆行が始まった。
―――――目が覚めた。 倒れた小瓶。中身が漏れ出ている。 「何故だ」 生きている。生きているではないか。体は、何の変化もない。そして全てを思い出せる。生まれ変わったのだろうか。ならばここは天国なのか。マルガレーテは、部屋にいなかった。 部屋を飛び出す。静まり返った大聖堂。廊下を走る。 礼拝堂に、地獄が待っていた。積み重ねられた数々の遺体。そのどれもが、同じ顔。死の礼拝。イコライザーたちは一人残らず死んでいた。ならば、どうして、自分だけが生きている。 「そんな、まさか」 信じられない。 「俺――――リューヴ=レイスじゃ、なかった……?」 唯一の誇り。唯一の自分。それが、消えた。代わりに残ったのは、レアティーズ・カデンツァという一人の青年だけだ。 笑った。笑った。少しだけ、涙が出た。
夜は、少し肌寒かった。 この階段から始まった。覇道。歩き抜くことは出来なかった。今までも、きっとこれからも。自分の運命を見つめるのに、この階段しか思い浮かばなかった。 酒瓶を片手に。今宵は、誰もいない。本当の孤独。思えば、ずっと孤独だったのかもしれない。俺も、お前も。そうだろう、オフェリア。夜空に語りかけ、杯を傾けた。ぐ、と一息。この星のどこかにいる旧友に向かって。 不思議と、気持ちは透明なままでいられた。悲しみも怒りも、何もない。ただ空っぽなのだ。何もない。本当に、何もなかった。まるで今日という日に生まれた赤子のような、そんな心で酒の杯を重ねていく。満たされるのは、酔いか想いか。 死んでもいい。生きてもいい。どちらでもいい。 俺はここだ。ここにいる。孤独。独りでここにいて、待っている。俺を知っている人が現れるのを。この世には、もう一人しかいないのだけれど。 再会を待ち侘びている。純粋に、再会を待つ。 「この道。何度も走ったな」 飛行場へと続く街道。昔は、花壇があった。レアティーズは何度か、花壇に足を引っ掛けたことがある。ひっくり返った花壇を見たオルフェオに怒られ、二人で修復したこともある。その間、ずっとアデレードは退屈そうにしていた。 「ずっとここにいたのに懐かしいと思うんだ。お前も、早く来い」 酒。嚥下し、食道を通過する熱を感じる。 「……お呼びですか」 背後から声がした。後ろの段差に手をつき、仰け反った。 「いいや、呼んでねえよ。俺は、オフェリアに話しかけてた」 「最近は飲んでばかりいらっしゃいますね」 ルーシャは隣に座り、瓶を手にした。黙って杯を突き出し、注がれた分を一気に飲み干す。首を鳴らす。酒に、逃げる。恐怖。それがあるのかもしれない。怖いものから、逃げる。酔いの中へ逃げれば、夜は自然と過ぎて、次の日がやって来る。知らず、知らずと、明日が来てくれる。 夜が長いのだ。ベッドの中で、独り、眠れぬ夜を過ごす。眠れなかった。 「お前も、飲むか」 杯を突き出すと、彼女は少し考えた後、手酌をして飲み干した。 「お見事」 返された杯を手にしたまま、ルーシャを見た。何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。知りたい。その心の中に、今、どんな感情があるのだろう。 いつからか、ルーシャと顔を合わせることが無くなっていた。抱くことも、しない。あれは、シャルパンティエが死んだ時か。あれ以来、共に寝ることをしていない。あれからだ、夜が段々と長くなっていったのは。 冷たい憎悪だ。激しく燃えていた敵意は、冷たく凍った。怜悧な視線。それでいい、とレアティーズは思い、また杯を傾ける。いっそ毒でも入っていろ。そんな風に呷った。 「なあ、ルーシャ。ひとつだけ聞きたかったことがある」 彼女の顔を見る。真摯に、見つめてみる。どうかこれだけは、答えてほしかった。この質問は卑怯なのかもしれない。いや、卑怯そのものだ。それでも訊ねたい。卑怯でいい。何と呼ばれようが、答えを知りたかった。 「どうして、逃げなかった?」 弟を逃がせ、と。外套を渡した。枚数は、一枚ではなく二枚。脱出の手助けくらいにはなっただろう。しかし、シャルパンティエの外套だけが残されていた。 「――――やはり貴方は、ずるい人です」 それきり、言葉は無くなった。代わりに杯が満たされ、飲み干す。返杯。杯を渡して注いでやる。彼女はやはり見事に杯を乾かし、杯を階段に置いた。 目線は、空に。見事な夜空に。この美しい夜になら、杯を向ける意味はある。 強引に瓶を傾け、一気に口へ流し込んだ。気合だ。酔ったふりでもしてみよう。喉が熱くなる。いや、熱くなったのは心。そっと瓶を置いたつもりだったが、つい手荒くなった。その音に、ルーシャが振り返る。予定外。こちらを、見るな。 視線はまだ、虚空に浮かんだまま。口を開いた。 「愛してる」 「ありがとう……スコア」 また沈黙が訪れる。静寂。静かな夜に。今まで感じていた想いを吐露する。それは夜空に溶けて、どうかこの夜だけは、素直なままでいようと思った。 「ずっと、ずっと。貴方を愛していました。愛して、しまった――――」
涙。
視界が歪んでいる。きっと酔いのせいだ。 感情が昂っているのも、頬が濡れているのも――――この夜さえも、酔いのせいだ。 「もう、言うな。ルーシャ」 泣いている。何もかもが、濡れている。 手を伸ばす。瓶が倒れた。下の段へ落ちていく。構わず、腕を伸ばして肩を抱く。体が預けられた。少しだけ肌寒い夜に、ひとつだけ温かい夢。髪。今宵だけは、涙に濡れて。長い夜を共にしようと思った。 |