光。

 私は、光だった。

 皆を照らし、導く、光。

 強き超人は、理解されない境地にある。

 雨の中、涙に濡れた日も。

 夕焼けの空、大切なものを知った日も。

 声を亡くした、人は。ただひたすら、強くあった。

 

 愛に、堕ちる。

 夢も希望も信念も、愛に堕ちて光は、なお強く。

「ありがとう。私は一度、家に寄るから」

 会いたい気持ち。

 真夜中の「故郷」に降り立つ。

 

 オフェリア・ヴァン・レーヴェ。フルジアに、帰還せり。

 

 暗い屋敷に、光が灯る。玄関にある電灯のスイッチを、オフェリアは押した。家の鍵を開けて、中に入る。掃除が行き届いていた。二年間放置されていたわけではなさそうだった。おそらくは、指示してくれていた母親に感謝をし、ソファに座ってジャケットを脱いだ。堅苦しい軍服を、脱ぎ捨てる。

 ネクタイに手を置いたところで、立ち上がった。居間から見える庭園。玄関とは別方向のベランダから、外に出た。草が裸足に気持ちいい。オフェリアはある場所に向かって歩き続ける。ちょうど、君の部屋の窓がある場所まで。

 伸びきった草に隠れるように、それはあった。見捨てられた、碑。母も妹も、きっとここを避けるだろう。ここに訪れる者はなく、ただひっそりと、自然の中にそれはある。

 膝をついた。君と同じ目線に。周りの草を引っこ抜き、捨てた。それで、全てが見えた。

「きっと君は、ここが嫌いだろうね。ごめん」

 こんな場所に、埋められたくなかったはずだ。いや、そもそも。生きて。生きていたかった。道は最悪に向かって突き進み、悲劇しかない終わりを迎え、なお、神は君を許さないのだろうか。

 こんな場所に、眠りたくなかっただろう。それでも、ここしか思いつかなかった。一度だけ。一度だけ、君が褒めた庭だったからだ。

「帰って来た。帰って来たんだ。もう来ることはないと、思ったのに」

 座り込む。君の声は、聞こえない。しかし、オフェリアは喋り続ける。聞こえなくとも、届くように。

「知らなかった。そう、家はここだ。帰るべき家は、ここにあった」

 他には、無かった。居場所など、どこにも。

「知ってるか、友達が出来たんだよ。いや、本当に。カントっていう筋肉ダルマは、君はきっとタイプじゃない。イザークってヤツも、クセが強いからなぁ。ああ、ティアは好きになれそうかもね」

 支えられて、家まで帰ったのだ。だがそこにあったのは、拒絶だけだった。ただいまを言っても、おかえりはない。それのどこが、家なのだろう。ここでは君が、おかえりを聞かせてくれる。まぁ、たまに。だっていつも不機嫌だったから。

「って、それ俺のせいだよな。ごめん」

 怒られている気分に、オフェリアはなった。自分のことを棚にあげて。まったくだ。そのとおり。

「でも、いい出会いはしたよ。君に似ている人にも会った、やっぱ美人。うん、そりゃ君に似てるんだから」

 褒めても、何も出ない。それでも言わずにはいられなかった。

「姉にも会った、俺は、家族に会って、そしてきっと、優しくなれたよ」

 帰って来たのだ。ここに。家に。大きくなってと信じて。帰るべき家に。

 

「でもどうして――――君は、いないんだ」

 

 ここに。いるべき人がいない。いて欲しい人がいない。待っていてくれる人は、いない。

 あるのは、ただ冷たい、碑だけ。草に隠れた、忘れられた墓しかない。崩れた。すがった。そして、涙が出た。今まで泣く暇も、悲しむ時間さえ無かった。だがこうして、君の前にいると、悲しみを抑える術など無くなった。

 それからは、もう喋らなかった。泣いて、泣き続けながら、草をむしった。八つ当たりのように、草をむしり続けた。感情をぶつけながら、ただ、ひたすらに。

 一晩中泣きながら、草をむしった。

 

 すっかり綺麗になった庭園に、曙光が差し込む。もう、朝だ。濡れた顔を上げて、晴れ上がった空と陽を見る。振り返り、君を見た。懐かしい、君が好きと言った当時のままの、庭。そう、ここで。楽しいこともあったはずだ。

 遠くに人影が見えた。郊外の邸宅だ。ここに用事がある人しか来なかった。オフェリアは顔を袖で拭き、そういえばネクタイさえしたままだったな、と苦笑した。

「殿下ぁ、オフェリア殿下、こちらにおられましたか」

 肩で息をする宮殿の給仕だった。汗を額から流しながら、庭の向こうで声を張り上げている。疑問に思ったオフェリアは、手にした草を投げ捨て、給仕へと向かう。様子が尋常ではない。その足取りが、自然と早くなる。

「一大事でございます、大変です。リディアーヌ・フォリア中将が、陛下を」

 女王暗殺。耳に届いた言葉は、冷たく鋭い。泥に汚れた姿のまま、オフェリアは走り始めた。

 

 十一月二十四日、未明。ゲルトラウデ・ネブカドネツァル暗殺。下手人はリディアーヌ・ラ・フォリア帝国軍中将と、クンスト・ヴェルク序列一位、アインス。判明している事実は、これだけだった。

 清々しい朝だった。休戦が成り、戦争が終わり、夜明けとなるはずだった朝。フルジア都は混沌に包まれていた。オフェリアは宮殿の前に到着し、階段を駆け上った。すでに給仕の姿など、後方に消えて無かった。

 ここから、全てが始まるはずだった。新しい、時代が。

「オフェリア殿下」

 通る。駆けつけた宮殿の職員、あるいは政府職員に呼ばれ続ける。どうしてかはわからないが、誰もがオフェリアを殿下と呼んでいた。疑問に思う暇もなく、執務室に急ぐ。執務室の前には、見知った顔があった。エーファだ。首相が閉められたドアの前でエーファが暗い顔をしていた。目が合う。

「殿下、ああ、やっと見つかった」

 その顔が、少しだけ綻んだ。エーファはオフェリアの腕を掴むようにして連れ出す。廊下を歩きながら、ゲルトラウデの私室の前まで連れて行った。

「危篤です。いつ亡くなられても、おかしくありません。殿下の到着を心待ちにされ、それだけを気力に命を延ばしているようにさえ、見えます」

 何も答えられなかった。まだ、生きている。それは本当に、奇跡のように。だが、絶望だ。

 エーファがドアを開けた。泣き声が、聞こえる。目に入ったのは、妹のゲオルギーネだった。そしてその奥、ベッドに寝かせられた、母が見えた。部屋に入る。去ろうとしたエーファを掴んだ。共に。彼女になら、何を聞かれてもよかった。

 ジーナと目が合った。兄上様、そう呼ばれた。不意に飛び出して、抱きつかれた。片腕で妹を強く抱いてやる。この妹に、母の死という事実は、辛すぎる。まして、実母だ。血の繋がった母。まだ死ぬには、早すぎる。

 かすかに、絞り出すような声がした。オフェリア。名前を、呼ばれたような気がした。

「ああ、良かった。最期に来てくれるとは、やはりオフェリアですね」

 元気そうではないか。そう言おうとしたが、顔を見た瞬間、甘い感情は消えた。生。それが、まるで無かった。はっきりと、この瞬間わかってしまったのだ。二年越しの再会で、ゲルトラウデはもう、生きられないのだ、と。

「はい、オフェリアです。必ず、陛下を救ってみせます」

 だが、その絶望さえ救えずして、何が神なのか。フォーレだ。オフェリア・フォーレなのだ。人を救うことを使命とし、人を助けることを運命とした。だから、助ける。どんな絶望でも乗り越えてみせる。

「貴方は、前に言いましたよ。何故、救えないのか。何故、命は救えないのか。知っています、オフェリア。これから言い渡すのは、わたしの死後についてです」

 それは、十年以上前の物語。ゲルトラウデが若き日に見た、幻想の一つだった。苦悩する神の子供は、青く、若く、そして希望に満ちて絶望に打ちひしがれていた。あの日から、もう何年、経つのだろうか。

「オフェリア、貴方は賢く、強い人です。広い心を持ちなさい。人を許すことを学びなさい。そして、周りの人々と共に、生きなさい。ジーナ、兄の言うことをよく聞きなさい。兄は、きっとお前を導きます」

 死ぬのだ。はっきりと強く、オフェリアにはそれがわかった。視界が潤んだ。頬を、何かが流れる。熱い何かが、流れた。

「陛下、私は、」

 言葉が、嗚咽に消えそうになる。ゲルトラウデの顔。優しい、母の顔は微笑んだままだ。

「貴方に背いてばかりだった、至らない家臣だった、後悔しかありません」

「そんなことはありません、オフェリア。貴方ほどの人物を、わたしは他に知りませんよ」

 優れていると、言う。何が優れているのだ。人を一人、救うことも出来ない。大切な何かを、守ることさえ出来ない。無力だ。あまりにも、無力だった。

「エヴィ、オフェリアをよく補佐しなさい。ヴェルもヴァルトラウトもリディアもです」

 意識が混濁しているのだろう。ゲルトラウデは己を殺そうとした人間の名まで挙げた。おそらく、口にしている言葉は本音でしかない。それ以外のことは、もうわからないのだ。

 本音。帝位は、オフェリアに。そう告げていた。

「陛下、それは」

「貴方には残酷でしょう。わたしは最低です。オフェリア、貴方の翼をもぎとろうとしている」

 言葉が、止まった。苦しそうだ。その顔を見て、オフェリアは何も言えなくなった。

「わたくしも、そう思います。兄上様が、王になるべきです。そうですよね、お母様」

 涙を拭ったジーナが言う。まさか。そんな。戸惑いしか、生まれない。ジーナこそ継ぐべきだ。養子ではなく、本物の娘がいるのだ。自分が横取りすべきではない。

 ゲルトラウデは娘の言葉に小さく、頷くような姿勢を見せた後、言葉を絞り出した。

「何かを、遺したい。貴方とは母子ではなかったけれど、貴方に、幸せになってほしい」

 それが、おそらく、全てだった。

 

「――――お任せを、母さん。俺がフルジアを、守ります」

 

 口から、言葉が出た。何を思うでもなく、感じたわけでもなかった。ただ、出てしまった。

 二度目の、母の死だった。今度は、立ち会えた。

 

 星歴320年、十一月二十四日。

 ゲルトラウデ・ネブカドネツァル二十世は崩御した。

 

 

「遺体は保存せよ。民にはまだ発表をするな。私は、考える」

 オフェリアはそれだけを伝え、執務室に入っていった。長い思考の果て。一人きりで考えて、まだ考えると彼は言った。姿はもうボロボロで、それでも耐えろと、なお強くあれと望まれる。きっとそれが、宿命なのだ。

 執務室に入り、目を閉じた。様々なことを、考える。

 フルジアに戻るということは、アンドロメダを敵に回すということだ。この混乱では、休戦どころの話ではない。そもそも暫定的なもので、それを交わしたゲルトラウデはもういないのだ。暗殺の目的が戦争継続にある以上、回避策があるとは思えない。

 カントを、イザークを、ティアを敵に回す。そして、アデレードも。だがここでフルジアを抜ければ、ゲルトラウデの願いを拒絶し、ゲオルギーネを乱世に放り投げることにもなる。

 考えても考えても、わからなかった。

 

 ティアが初めて見た異国は、とにかく、異常だった。

 人々が異様な顔をして、興奮した様子で喋っている。街の雰囲気もどこか浮ついており、さらに緊張感が張り詰めていた。宮殿の前には人だかりがあり、皆、一心に何かを祈っているようでもあった。狂っている。ティアの目には、そう映った。

 だが、国民だけの話ではなかった。国家が受けた衝撃はそれ以上で、政府も軍も、国民以上に狼狽していた。後継の話、これからのフルジアはどうなるのか。軍はどうなるのか。そんな不安がありありと顔色に表れ、どす黒い容貌をしていた。

 それはフィアが戻った今でも変わらない。いや、日に日に酷くなっているようにも見えた。

「ああ、フィア。丁度いいところに来たわ」

 二人で宮殿の中を見ていた時だ。フィアはティアに宮殿の案内をしていると、ゲオルギーネに捕まった。ゲルトラウデの実子で、まだ十四歳の王女だった。落ち着いた雰囲気がありながら、明るい王女。アデレードに似ているが、ゲオルギーネの方がより王女らしいな、とティアは率直にそう感じた。

「兄上様が執務室から出てこられないの。もう三日目。一切食事もなされていないし、ドアを開けてくださらないんです」

「殿下が、ですか」

「じゃあぶっ壊して開けてみようぜ。死んでたら困るしな」

 二人の視線が、厳しくなる。本音だったのだが、どうやら場違いなセリフだったらしい。

 死ぬ。その言葉に、二人は異常なまでの反応を示した。殉死。その二文字が脳内を支配する。オフェリアがゲルトラウデの後を追って、自決する。考えられない話ではなかった。自然、急ぐように執務室まで向かった。

 フィアはドアを丁寧にノックし、名乗った。反応は無い。もう少し、強く。また名乗る。今度は、ティアも名前を口にしてみた。

「フィアか。まだ考えがまとまらない、静かにして」

 静かな声が中から聞こえた。どうやら、本当に熟考しているらしい。帝位を継ぐか、否か。考えすぎるほど考えている。答えが出ることは、あるのだろうか。

 その後もフィアは、食事をとるようにと言ったり、水を運んだりしたが、オフェリアは一切、反応することは無くなった。

 

 護衛としてやって来たが、見事なまでにティアにはやることが無かった。

 幸い、どこを歩いても咎められることは無かった。初日にフィアに連れ回され、顔合わせもしたからだろう。そのフィアも忙しそうにしているので、声をかけるのはやめておいた。

 迷っているらしい女の子を見つけたのは、そんな時だった。宮殿の中で困ったように立ち尽くすドレス姿の少女。おそらく、十歳にも満たない年齢だろう。驚くほど色が白く、可憐な少女は見る者を惹き付ける何かを持っていた。

「……迷ったのかい?なら、案内するけど」

 優しく声をかけてみる。びくり、と体を震わせて少女は反応した。目が、恐怖を訴えている。それを感じて、ティアは笑顔を作り、一歩下がった。そしてもう一度、案内すると伝えてみる。目を見て、はっきりとだ。

 今度は、頷いてくれた。おっかなびっくり、という様子でおずおずとついてくる。

 そして、歩き回って気付いたのだ。迷子なのはどうやら、自分らしい。

「しまった。ここ、どこだ?」

 間の抜けた話ではあるが、暗い雰囲気のフルジアにはちょうどいい。明るい調子で笑った後、適当に見つけた小道を抜け、庭を歩き、そして見事に、迷路のような広い敷地内に方策を見失ったのだ。出る術が無い。もうどこにいるのかわからない。宮殿に戻るにはどうすればいいのか。

 絶望は無かった。代わりに、目の前にあった建物に入ってみる。

 音。気勢。戦いの効果音が、聞こえてくる。大きな部屋の側面は外に通じていて、兵士たちが一心不乱に棒を振り、または的に叩きつけていた。その迫力に圧倒されたのか、少女はびくびくと震えてティアの服を掴んでくる。

「なんだぁ、坊主。どうしたよ?」

 珍しく男性の指揮官が近寄ってきた。四十近い、中佐だった。迷った経緯を説明し、かつこの施設は何かと訊ねてみる。

「ここはオフェリア様が作った訓練所だ。いつだったかなぁ、タイタン人が戦場に出たくらいかな。白兵戦闘の有意性を説き、あのお方はここにコレを作ったワケだ」

 どうやら、近衛師団の連中が利用する道場のようなものらしい。興味深げに眺めていると、中佐はなおも話を続けた。そして誘ってきた。棒を一切れ、受け取って中佐の前に立つ。どうやら実戦らしい。中佐も笑いながら正対したが、ふと、その笑みが無くなった。

 汗。流れる汗を、眺める。踏み込んでくる。ティアは受け流しつつ懐に入り、棒の柄で鳩尾を突いた。軽く、とん、と。それなりには強かったが、カントやオペラとは比較にならない。棒を投げ捨て、帰ろうと踵を返した。

「待てや、坊主。なかなか面白いじゃないか。どうだ、話でも?」

 

 女王の話は、今まで聞けなかった。先日、商店に買い物へ出た時だ。店頭には品物が少なく、商店が持つ活気のようなものに欠けていた。店主に何気なく、ゲルトラウデのことを聞いてみると、激昂された。皆、どこかおかしい。気が立って、イライラしていた。

 おかしな空気の街。そんな中、活気がある人間に初めて出会ったのだ。名前はガヴォット中佐といった。近衛師団の指揮官の一人らしい。

「すっかり寒くなってきたな。もう冬だ」

 道場に座って、話を聞くことにした。情報が不足している。ここがどんな国で、人々はどう思って生活しているのか。

「なぁ、ゲルトラウデ女王ってどんなんだ?」

「どんなって、言われても。噂に聞くまんまだっつの。人々をひっぱり、税金とって武器作って戦の指揮する。何でも出来る天才だよ。それに何より、皆、あのお方を好いていた」

 崩御。それによって、国民が多大なショックを受けていることはわかった。それで兵士たちは、意味のない鍛錬をする。悔しさを、悲しさを、武器にこめて的にぶつける。それはガヴォットとて同じで、身を切るような情熱を棒にこめていた。

 この国が不安なのは、後継者問題があるからだ。

 オフェリアとゲオルギーネ。正式に考えれば、ゲオルギーネで決まりだろう。だが今は戦時で、かつ国家存亡の責務がある。十四歳の少女に全てを託すのは、まだ無理かと思われた。今が一番、フルジアにとって苦難の時なのだ。

 従って、後継にはオフェリアをと願う声が多かった。血の繋がりは無いにしろ、ゲルトラウデが見込んで育て、養子にした人物であり、才覚は充分、高い器量と人格を備えている。おそらく、オフェリアが皇帝になっても国内で混乱は起こらないだろう、というのがガヴォットの考えだった。

「ま、単純に殿下が好きってコトもあるがね」

「そうなのか?」

「ああ。聡明で、器量は優れている。実戦の経験も豊富だし、戦の指揮もお上手だ。そんな部分もあるが、人としてあのお方が好きなのだ。厳しい部分もあるが、とても優しい。全てに対して、優しい。例えば殿下の指揮下にあった竜騎士団っちゅう部隊は、生半可な調練はやらない。死者が出るほど、訓練は厳しい。それは、部下が死ぬのが嫌だからだ。戦場で最も強く、最も生き残るのが殿下の部隊だからな」

 ティアがオフェリアと過ごした期間は、わずかしかない。敵。最初はそう思っていた。そういう任務でもあった。接しているうちに、気付くのだ。その人間の大きさ、度量の広さ、器。人を惹きつけてやまない魅力。口では説明できない、何か特殊な、雰囲気のようなものだ。

「誰もが後継はオフェリア殿下だと言っている。それを願ってもいる。女王陛下も同じ思いだったに違いない。だが、殿下はまだ悩んでおられる。そういう部分が、きっと好きなんだな」

「なんとなく、わかるよ。ソレ」

 栄光は目の前だというのに、悩む。それがオフェリアなのだ。

 

 ささやくような、声が聞こえた。宮殿内を巡回していた時だ。その声を、フィアは追った。

 声は執務室から漏れているようだった。開かずのドア。ノックをして名乗っても、やはり返答は無かった。ドアの前には、置かれた食事が手付かずで残っている。このままでは、その気が無くても死んでしまうのではないか。そんな不安に、駆られる。

 ドアを背に、フィアは座ってみた。距離はあっても、心は届くのではないか、と。淡い期待を抱いてだ。

 オフェリアという人間を、おそらく、一番理解しているのは自分だという自負はあった。一番近いところで見続けて来た。だからこそ、言える。きっとオフェリアは、何も語らない。こうして気持ちを乗せても、たとえ心が届いても、何も言わないだろう。

 目を閉じ、考えてみる。一緒に、考えてみるのだ。今、オフェリアは何を思って孤独なのだろう。

 いいのだろうか。それは、許されるのだろうか。心の中で、オフェリアが言った。このまま受けてしまっていいものか。オフェリア・フォーレが受けて、いいのだろうか。いつか来る、裏切りの時は許されるだろうか。

 多分、全てが許されない。それでも裏切る時は、きっと来る。そして彼なら、その道を、困難である道を選んでしまう。強き超人。他者も、何もかもを省みない、強さ。そこには自分さえ、含まれていないのだろう。

 孤独だ。おそらく、誰も。理解など出来はしない。優れているという孤独。非凡であるからこそ、独り。同じ非凡でなければ、彼の孤独は癒せない。傷つき、疲れてもなお、独りでいるしかないのだ。悲鳴を上げることも、助けてと訴えることも、しない。

 オフェリア。孤高の、優しさ。

「あ、フィアだ。よっしゃ助かった」

 闇夜の奥から声がした。目を開ける。ティアと、少女が見えた。
 立ち上がって二人を迎える。どうやら迷子になってしまったらしい。少女は見たことが無かったが、ギーゼルベルトが言っていたオフェリアの連れだろう。宮殿の客間を使わせればいい。

 案内しようと立ち去る間際、一度だけ、フィアはドアに額を置いた。

 

 崩御から一週間が過ぎた。十二月一日、急に寒くなった日だった。

 空は曇天。雨でも降り出しそうな天気。その雲を切り裂いて、一隻の戦艦がフルジアに上陸した。妖精の名で知られた、外征軍団の旗艦「ティンカーベル」から下船した二人は、その足で宮殿に向かった。

 戦場の姿、そのままに。軍服に身を包んだ二人。女王亡き今、フルジアを背負う大将軍ヴェルブング・ティンクベルン大将と機甲師団長ヴァルトラウト・ヴァンレーヴェ=フォンアイツェルン少将の姿は威厳を備え、堂々と宮殿の階段を駆け上がる。集まった人々は、すでに恐慌状態にあった。

 この二将が宮殿に。よもや、クーデターか。市街は様々な憶測と予見が飛び交い、混沌と恐慌に包まれ、暴発を間近に控えた。七日を過ぎてなお、宮殿は静まり返ったままである。

「只今、帰還せり。ネブカドネツァル二十一世はいずこにおられるか?」

 表情は険しかった。まるで詰問するような口調に、問われた女官が言葉を詰まらせる。ネブカドネツァル二十一世。すでにゲルトラウデは故人であるため、ネブカドネツァル二十世という呼び名が正しい。前皇帝には尊称が生じず、かつ故人であるため助数詞をつけて呼ぶのがフルジアの通例だった。

 二十一世となると、ゲルトラウデの子。正式に帝位を継ぐのは、まだどちらか決まっていなかった。

「言い淀むな。オフェリア様はどこだ?」

 執務室、と答えをもらい、ヴェルブングは歩を進めた。廊下の突き当たりにある執務室の前には、フィアが直立不動で立っていた。護衛のつもりだろうか。彼女は帰還した二人の顔を見て、少しだけ表情を緩ませた。長年付き合ってようやく分かる程度の違いだった。

 七日。オフェリア・レーヴェが執務室に篭って、もう七日が経過する。食事どころか水一滴さえ、口にしていない。死んでしまう。焦りに似た何かが、ヴェルブングの体内に生じた。だがまだ返答はあるようで、生きている。フィアはそう答えた。

「フィア」

 くぐもった声が聞こえた。ヴェルブングがフィアと話そうと近付いた時だ。もう一度、名を呼ぶ声。今度はややはっきりした声になった。執務室からの声だったが、ヴェルブングにはまるで、地獄からの呼び声にも聞こえた。

「湯浴みをする。用意せよ。エントランスに文武百官を招集しろ。これより、大喪を発表し母の国葬を行う」

 指示。フィアは声を輝かせるように返事をし、すぐに駆け去った。ヴェルブングは、動かない。そして、待った。彼の者の、降臨を。

 ドアが軋み、ゆっくりと、開く。不思議な薫りと、鋭い眼光がヴェルブングの前に現れた。

 オフェリア。七日間、何を思い、何を考えたのか。

「……ヴェル。いたのか」

「ああ、いた。オフェリア、」

 前に出ようとしたオフェリアの体が流れた。崩れ落ちそうになるのを、必死で抱える。悲しいほど、軽い。されど、重い身。そのまま、支えたまま浴室まで歩いた。何も、何も喋らなかった。父子のようにして過ごした時を、忘れない。それだけでいい。今は、泣く時ではないのだ。

 戦う時。オフェリアの決意が、体を通して伝わってくる。

「では、自分も行きます。殿下、まずはお休みになられるべきでは」

「ヴァルトラウト、いいんだ。ヴェルも行ってくれ。禊いだ後、すぐ私も行く」

 禊。オフェリアはそんな言葉を使った。

 

 黒き外套。黒き装甲。見たこともない大剣を腰に佩き、新帝は現れた。

 ゆっくりと、廊下を進み、臣が集まるエントランスを抜けた。何も食していないはずなのに、何という威圧感だ。空気が変わる。重さ。生まれ変わる、空気。ヴェルブングだけではない。誰もが、たった一人の登場により、変わった場の空気に気圧されている。誰も何も、口から言葉は出せなかった。

 見ていたい。この人物が、これから何を成すのか。何を創り上げるのか。だから、誰もがその背を見送り、巨大な扉を押し開ける姿を目に焼き付けた。扉。開かれる。外へ通じる扉。それは、未来へ通じる扉。光が、差し込んだ。

 空は、曇天から白い粉雪が舞っていた。

 ざわついている、この国全てが、ざわついていた。だが、世界さえ彼の空気に、押し殺された。宮殿の前に集まっていた人々が、静まる。そして、空を見上げた。視線の先には、黒い戦姿の神がいる。剣。そう、フルジアの剣があった。

「母、ゲルトラウデが崩御した。志半ばで、斃れられたのだ」

 言葉は短く、事実を伝えるだけだった。うすうす感じていた不安。それをはっきりと伝えられ、膝を折る国民もいた。雪。降っている。空が流した涙のようだ。

「涙を、流すことを禁じる。死を嘆くまい。母は偉大な皇帝であり、今もなお、生きておられる。ここに。この大地に。この宮殿に。この国、そのものとなって私たちを見ておられる」

 力強い声だった。外套が風にはためいている。背負ったものの重さ。そんなものに、潰れるような人ではない。オフェリアははっきりとした口調で、威厳ある言葉を紡いでいる。

 クリスティーナの死を思い返す。ネブカドネツァル十九世の死に際し、ゲルトラウデは何を言っていたか。二十七歳の女王は、涙から始まった。前とは違う。より強くなって、フルジアは何度でも立ち上がるのだ。

「今、国は戦っている。人々に重荷を与え、星の狭間に若者を散らせる忌むべき戦だ。何の為に?」

 心に、言葉は沁み始める。響くのだ。オフェリアの声が、響くのだ。不思議だった。体の深奥に、言葉が深く、沁みていく。透き通るような、澄んだ想い。今オフェリアが口にしているのは、きっと、決意と覚悟。

「見たい。世界を、見たい。そして知りたい。知ってほしい。母が住むこの場所を、素敵だと宇宙の果てで言うことがあるのなら、きっと価値はある。いつか、そういう日が、きっと来る。戦うことでしか通じないのは悲しいが、信じられる明日があるなら、意義はある」

 ああ、そうかもしれない。ヴェルブングは、過去の戦いに思いを沈ませた。殺し合う。僕と君は、殺し合う。その先にある何かを見るから、戦っている。

「戦う。そして勝つのだ。その為に、私は王になろう。守ろう。この国を護るのだ。その為に、私は全てを捨てよう」

 この決意を、誰が知ろう。友を、仲間を、故郷を、家族を。その全てを、捨てて。己の人生を壊した人物の為に、立ち上がるこの決意を。知らず、ヴェルブングは頬を伝う涙を感じた。知れるのは、おそらくヴェルブングのみ。幼き日を知る、聖者の記憶を。

 

「この時より、皇帝は私、オフェリアだ。フルジアの剣となり、君らに世界を見せることを誓う」

 

 オフェリアは、空を見上げていた。雪の降る、冬の空。剣が抜かれた。空に向かって、伸ばされる。ヴェルブングも視線を上げた。きっと誰もが、空を見た。

「世界は、美しい。この空に続く、世界を。いつかきっと、君らに見せよう」

 膝をついた。咄嗟に、体が反応したのだ。オフェリア。こちらを見ている。振り返って、剣を降ろしてこちらを見ている。周りの人間、外の民衆、誰もが膝をついていた。

 皇帝だ。まぎれもない、皇帝だ。

「行こう、皆。明日を見に」

 新帝は、笑っていた。一筋の涙がその頬を濡らしていたのに、ヴェルブングは気付いた。

 

 国際情勢は予断を許さない状況になっていた。今冬、目まぐるしく移り変わる状況にイザークはすでに置いていかれつつあった。トリスタンは新兵の募集を始めて雑務に追われ、タイタンに残っている。カントはイザークと共に、随分前に購入した個人艇でタイタンを出ていた。

 二人は今、リューヴにいた。ニコラ=ミシェル・アルエから連絡があったのだ。

 やるべきことはあった。デルフィオーレの調査、ディファイアンスとの繋がり。そしてオペラ・レーヴェの影を追うこと。二人では限界があった。そこでアルエが協力を申し出た、という経緯だった。アルエのIDなら、多少の無茶は通る。

 停戦解除の三日前に結ばれた暫定的休戦は、正式になるかどうか微妙なところだった。カルディア大統領が強権を発動し、やや強引に結んだ形で、議会の中には反対派も多いと聞く。その反対派を辿れば、ツェルニー元帥に行き着く。

 それよりも不安なのが、フルジアの沈静化だった。休戦締結直後から、フルジアは動きをぴたりと止めていた。シリウスに駐屯していた軍を撤兵させ、大部分はフルジア本国へ帰還した。ただ近衛師団八万だけが、ノティオンという星に駐留したままだ。これは別働部隊なのか。判断は微妙だった。

「やっほぉ。お、二人とも元気そうだねェ」

 待ち合わせ場所で、アルエと再会する。相変わらず、不思議なテンションの持ち主だった。ギクシャクしながら片手をあげてカントは迎える。リューヴのど真ん中、フラリス市街のショッピングセンターの前というワケのわからない指示だ。人が多くて、わかりにくい。

「腹、減ったな」

 相変わらずの貧乏生活と、料理人不足で食生活は最悪である。適当な場所にあったレストランに三人で入る。やはりどこか洒落た雰囲気。都会とはそんなものだろう。店内にあるテレビを眺めながら、食事を頼む。

 シャルパンティエの叛乱はすでに鎮圧されていた。本人は当然のように雲隠れし、逮捕には至っていない。代わりに妻であるロジーナ・アルマヴィーヴァが事情聴取されているようだった。前々から、カメリア軍との癒着が取りざたされている。

「メシ食ったらデルフィオーレ行く?」

「え、敵の本拠地じゃないのかよ」

「いや前に行ったことあんでしょ、キミたち。ほら、画家の家だよ」

 ジオット・デル・フィオーレの邸宅が、デルフィオーレの本部とも言えた。フィルウィリミテアの関係者がよく出入りしているとかで、警備が厳重でリューヴ軍も入れない。そのため、オペラと共にノア・リーティアから許可証をもらったという経緯があった。

「デルフィオーレって言葉には、もうひとつ意味があるの。ドグマリストの集まり、って意味。ファンダメンタリストは結局おいらたちしかいないから、必然的にそうなっちゃうんだけどね」

 そんな話も、リューヴでしたことがある。ファンダメンタリストとドグマリスト。リューヴ=レイスがファンダメンタルで、それ以外がドグマ、そして一般人が自由なリベラル派というところだ。リューヴ=レイスはフォーレ、アルエ、ハイネ、カデンツァ、リーティアなど数えるほどしかいない。

「ここからは、宗教のお話。頭カタそうだけど、だいじょぶ?」

 心配そうにアルエが覗きこんできた。もちろん、イザークの方を。よくわかっているらしい。

「ふ、愚問だな」

 言って、遠くを見上げるイザーク。ふと、その顔色が驚いたものに変わる。見上げた先に視線を移す。テレビだ。下げられたボリュームからは、何を言っているのか聞こえない。ただ画面のテロップを、見た。

 ――――ゲルトラウデ女王、崩御。その文字が画面に流れている。

「……なんだと。店主、ボリュームを上げろ」

 イザークが大声でウェイトレスに向かって叫ぶ。慌てた様子で、モニターの音量を上げる。キャスターの声が次第にはっきりしてきた。

 先月二十四日、崩御。大抵、皇帝の死に際して、死因はあげられない。だから崩御という言葉だけを繰り返していた。ゲルトラウデの肖像が画面に映る。何てことだ、これは世界を変える一大事ではないか。驚愕。ただ驚愕するしかなかった。

 カントが隣を見ると、イザークが泣いているのがわかった。わずかだが、涙が零れている。見上げたまま、目に涙を溜めてだ。カントは知らなかったが、イザークには会ったことがあるのだ。ゲルトラウデ。会えばきっと、誰もが好きになるような人だった。偉大で、大きく、英雄に相応しい人物。その死に、イザークは涙しているのだ。

「十二月一日、大喪を発表。嫡男オフェリアが践祚せんそし、帝位を継いだ、か。あの野郎――――」

「そんな、レーヴェが?あの男が、フルジアの王だと言うのか!」

 イザークは衝撃を受けているようだった。当然だ。カントですら、思考が真っ白になった。

「ウーちゃんがねぇ。こりゃ、大変だわ」

「オペラ」

 声に出し、呼んでみた。画面に映った、オペラの肖像。もちろん返事などない。

 どのような覚悟があっただろう。どのような決意をしたのだろう。その決断に、カントは異議を挟むことなど出来なかった。ショックはある。だが、オペラを思えばそんな言葉が口から出ることはない。一番、孤独で悲しいのは、オペラ自身だからだ。

 見事だ。一人の人間として、見事な覚悟だと褒め称えた。

 

 ゲルトラウデ崩御、オフェリア即位。そのニュースを知った時、カティアは首元の指輪を握り締めた。

 ユドンは修復の真っ最中で、シリウス人は徐々にオリオルから戻り始めている。仮設の議事堂で寝泊りしていたカティアはその日も同じように、瓦礫の除去作業に従事していた。ニュースを持ち込んだのは、フェリーチェ・パヴァロッティという青年だ。

 カティアの腹心であり、幼馴染でもある彼は信頼を得て、オリオルの司令官となっている。同い年の青年は息を切らせ、そのニュースを運んできた。まだユドン市では電気の復旧さえままならないのだ。

「これでフルジアは動けなくなる、カティア。新帝の器量は知らないが、好機だ」

「いえ――――ええ、そうだ。そうだな」

 フェリーチェがオフェリアを知らないのも無理は無かった。ルートヴィヒ。名前を、かすかに呼んでみる。あのルートヴィヒが帝位を継いだ。それだけだ。カメリアには何の関係もない。ただゲルトラウデの死で、フルジアが少しの間、動きを止める。好機が生じる、ただそれだけ。

 今、シリウスに敵はいなかった。両軍共に撤退した後で、平和なのだ。力をつけるのは今しかない。きっと、ルートヴィヒもそう思っているだろう。

「フェリーチェ、外交を頼みたい」

「まさか、フルジアと?」

「そうだ。ゲルトラウデの死に対し、弔意を表明し、新帝の即位に慶ぶ。国交を結べとは言わないが、話し合う余地くらいは持っておきたい」

 それはアンドロメダに反する行為かもしれない。だが、アンドロメダを脱却するために独立したのだ。いつまでも言いなりになどなっていられない。だがフルジアに翻るつもりもない。要は、バランスだ。アンドロメダがカメリアを滅ぼそうとした時、フルジアが背後にいてほしい。無論、そんな虫のいい話は通用しないが。

 フェリーチェはやや不服そうに頷いた後、去っていった。ルートヴィヒ。利用するつもりはない。ただ、声を聞きたいだけだ。

 

 外が何やら騒がしい。まず、アリアを呼んだ。

 オフェリア即位。アリアは主人に、そう告げたのだ。表情は、複雑だった。彼は全てを捨てて、フルジアに寝返った。図式としてはそうなる。故に、アデレードの中には憎悪に似た感情が生まれた。

「アデレード様、このままでは幽閉ともなりかねません。どうか脱出、してしまいましょうよ」

 どうでもいい、という感情があるだけだ。また外の世界に出る気は、しなかった。静かに首を振って、天の獄から地上を見る。

 ルテティア・パリシオールム。オリュンペイオン大聖堂には、天界がある。エレベーターで接続された最上階、空中庭園。エレベーターという唯一の階段を封鎖されている以上、アデレードは自分の意思で外に出ることが出来なかった。飛び降りるという行為以外には。

 かつてここに、神が幽閉され。そして今は、自分の部屋に堂々と偽物が居座り、本物は空に追いやられている。

「私、もう疲れた――――」

 世界に、絶望をする。それならここで、朽ち果てていくのを、選ぶ。

 

 リューヴの混乱のソレは、フルジアとは比較にならないにしろ、相当なものだった。敵の総大将が死んだのだ。何かしらの行動を起こすなら、今。閣僚たちは毎夜、議論を重ねている。

 カルディアは密約が潰えた、という絶望しかなかった。もう軍部を止める術は残されていない。死因を掴みたいところだったが、現在、フルジアの警備は強化されて簡単に諜報員が入れる状態ではなかった。

 テレビでは、まだ報道が続いている。

 バルツァーを誘って、下の閣議室に赴いてみた。結果はどうあれ、外交上のきっかけにすることは可能かもしれない。もう手遅れではあるが、それが人として、やらなければならないことなのだ。

「弔意を表し、外交官をフルジアに派遣しようと思う」

 ゲルトラウデが、死んだ。接したのはわずかな時だったが、好きだった。敵の大将だというのに、カルディアは無念だったと思うしかなかった。敵の死。本来なら、喜んでいい場面のはずだったが、どうしても悲しみしかなかった。

 閣僚たちも、それでとりあえずは落ち着いた。やるべきことが、ひとつ生まれた。今はフルジアに外交官を送るという一点に集中すればいい。結果はどうなってもよいのだ。

 選ばれたのは、もちろん、セシル・バルツァー外務次官だった。

 

 アハトを伴い、リューヴに入る。ルテティアでアデレードの幽閉を実行し、しばらくはリューヴが本拠になるだろうとスコアは予想していた。デルフィオーレを使い、動き方を考えなければならない。ツェルニーとよく話し合うことだ。

 その前に、カルディアを訪ねた。大統領官邸に入り、執務室へ赴く。

 弾けるように、カルディアは立ち上がった。こちらを見る視線が、冷たい。立ったまま、話を始める。カルディアはどこか構えるようで、しかし、表情は穏やかだった。

「オフェリア、答えてくれ。君が、ゲルダさんを殺したのか?」

 予想外の質問だった。フルジアは死因を発表していない。それでも、カルディアは暗殺だと言った。電話だ。あの時の電話の相手が、カルディアだった。何故かスコアはそれを知って、ホッとした気分になった。アハトだけが、固まったように動かない。

「そうだ。カルディア、聞いてくれ。オマエだけには聞いてほしい」

 友。それは、これからも変わらない。友情があるかどうかはわからないが、カルディアを友だと思う。だから喋った。自分の素性。叶えたい夢。ゲルトラウデを殺害した理由。全てを語り終えた時、この安堵感が友を裏切っていたからなのだと、気付いた。

「……僕には、決してわからないことだと思う。だけど、これから、スコアと呼んでいいかい?」

 何故か、心が救われた。そうだ。カルディアだけは、スコアをオフェリアとして見ていなかった。だから、変わらない。きっと友情は、まだある。頷いて、顔を上げた。笑顔。カルディアも、ややぎこちなく笑っていた。

「アンドロメダは勝つ。これは絶対だ。そのためにカルディア、力を貸してほしい」

 

 即位ではなく、践祚。オフェリアは奇妙な道を歩き始めている。

 いつか、フルジアを去る。それは絶対だ、と言った。ゲオルギーネが即位すること。そのためには、オフェリアが消えなければならない。だから、今だけ。オフェリアは皇帝としてフルジアを立て直す。逼迫した財政を、新たな軍を。まだ若いゲオルギーネの代わりに、だ。

 そのために、厳密に言うと、即位はしなかった。式典も行わない。ただ帝位を継いだだけだ。本来であれば帝位を継ぎ、即位をして皇帝となり、式典を行い万民に知らしめる。この全てをもって、君主となるのだ。

「今は、力をつけよう。裏切り者を討つのはその後だ。誰も悪くなどない、責任は感じてはならない」

 家臣に対して、最初の主命はそれだった。軍をまず、再編しなければならない。財政も見直さなければならない。実のところ、フルジアにはもう戦争をする力など残っていないのだ。ゲルトラウデから受け継いだのは、単なる負債だった。

 葬儀を済ませたが、まだ大喪は続いている。新年まで。オフェリアはそう命じた。だから派手なパレードなどは行わないし、自粛が続く。それもあと数日のことだ。年が明ければ、新しいフルジアが生まれる。

 雪はまだ、あの日から降り続いている。

「面倒だな、次は除雪の手配か」

 執務室で、一人、窓の外を見ながら呟く。ただ綺麗だけでは済まされない。一ヶ月も降れば、豪雪になる。街の動きが停滞する前に、除雪しなければならなかった。ただ日中は晴れることが多かったので、融雪はそれなりに進んでいる。

 ノックをし、ティアが入ってきた。護衛のために呼ばれたそうだが、全てが遅かった。珍しく表情を出さず、ティアは挨拶をしながらソファに座った。デスクから目を離し、彼を見る。

「なぁ、七日間で何が見えたんだ?」

 ティアはティアだ。オフェリアが皇帝になったからといって、何が変わるわけでもなかった。

「色々かな。やるべきこと、しなければならないこと、やりたいこと。全部ひっくるめて考えて、答えを出した」

 三十年。天から与えられた時は、それだけだ。あと、十年。自分が生きられるのは十年間という時間しかない。それが、人形の期限だった。だから、もう悩む時間も考える時間も遺されてはいない。動け。行動をしろ。十年で、世界を変える。

 いや、変えなくともいいのだ。ティアが、若い命が代わってくれる。だから土台を作ろうとオフェリアは思った。

「もう帰れよ。アンタ、仕事しすぎだぜ」

 ティアに強引に、部屋から押し出される。思い詰めた表情でもしてたのか、と頬を押さえてみるが、わからない。そういえば、考え事をする時に唇を押さえるのがクセだ、と言われたことがあった。ティアもイザークあたりから聞いているのかもしれなかった。

 苦笑しながら、宮殿から出た。彼もこの国に馴染み始めている。最初は面食らったようだが、徐々に本当のフルジアを見て、いい国だと思ってくれたようだった。

「陛下、何をなされています」

 宮殿を出たところで、ヴェルブングに見つかった。言葉遣いはすでに君臣のものになっていた。

「護衛もつけずに、こんな夜更けに。外出時は近衛をお呼びくださいと申し上げているでしょう」

 小言が始まった。フルジアは、暗殺に怯えていた。先の一件がある。今、オフェリアが暗殺されればフルジアはきっと立ち直れなくなる。ヴェルブングはそう考えているようだった。だが、近衛を呼ぶのは面倒くさい。レーヴェ邸に帰るだけなのだ。それだけで五十人もの護衛を呼ぶのは心苦しくもある。

 黙ったまま歩き始めると、ため息をついたヴェルブングがついてきた。

「どうせ帰るのでしょう?自分が衛尉の任を」

「司令官自らの護衛とは、光栄だね」

「また減らず口を。忘れないでください、陛下。陛下そのものが国家なのです」

 雪の降る夜、二人で歩いた。初めて、二人きりになった気がする。大通りを歩きながら、郊外のレーヴェ邸まで。歩けば三十分ほどの距離だろうか。

 外に人影はない。自粛が続いているのだ。だが、新年を祝う飾りつけに関しては、黙認していた。

「立派になった。というのは、残酷かな」

 独り言のように、ヴェルブングが呟いた。本音だ。だが、言葉を選んでいるだろう。

「すまない。心から、そう思う。君にこんな、重荷を背負わせることになるとは、誰も予想していなかった」

 オフェリアは、ゲルトラウデに襲われ、拉致された子供。幼少時から様々な教育を施された。時に、夜の相手までした。それこそ、語りがたい過去に。憎むなという方が無理だ。それでもオフェリアは、後継になったのだった。あのフォリアでさえ、ゲルトラウデを憎んだのだ。

 全てを奪われ、全てを捨てた。その覚悟に、涙を禁じ得ない。

「ゲルトラウデはね、こう言われたんだ。子供たちを頼む、とね」

「オルフェオ殿、にか?」

「うん。父に委ねられた。きっと精一杯、ゲルトラウデはやった。だから私は、恨んでなどいない」

 そのことを、ヴェルブングは知らなかった。そう、ゲルトラウデとオルフェオの間には、確かに何かがあったのだ。秘密。それが、今の言葉。

 

「決して失くしたものばかりじゃない。だから、私は今、ここにいる」

 

 得たもの。それを守るために、残ることを選んだ。新たな家族を、信頼する友を、九年間という時間を守る。故に、オフェリアは帰ってきた。

 ヴェルブングは、胸を張って歩いていた。それを横目で見つつ、残った意味は絶対にある、と思うようになった。こうして自分を案じてくれている人がいるのだ。その期待に、応えてみたい。もちろん残る理由はそれだけではないが、フルジアは確かに、故郷でもあるのだ。

 家が見えてきた。灯りはある。フィアと、オリヴィアが住んでいるのだ。ヴェルブングは足を止め、一礼して去っていった。

 ただいま。そう言って、返って来る答えは、ある。

 

 温かな言葉。おかえりなさい、と。出迎える二人に笑顔を見せた。