[ O d y s s e y ] /Regret Rendezvous Road "Ophelia and Violetta" |
二年前の、苦い追憶。 花道を手を取り歩いたあの瞬間より、 遠く夢見た幸せが始まる。
それは、よくある話で、しかし幸運が追加されている。ある種のサクセス・ストーリーに似ていた。 ヴィオレッタは若い娼婦だった。ヴァレリー家は貧しい下級階層の家で、身分制度のはっきりとしているフルジアという星では、およそ要職というものからは程遠い。手っ取り早く、大金を稼ぐにはその道しかなく、需要は高かった。なおかつ、彼女自身の美しさが加速させた。 世界は戦争の真っ只中で、遠く離れた宇宙へと人々が攻めて行く。若い未亡人なども、娼婦仲間にはいたものだ。中には、戦地となる惑星へと共に行く娼婦もいた。ただ、見返りも多かったようだ。危険は無いとも言えないが、前線へ行くわけではなかった。 おとめ座銀河団の中心にあるフルジアで、ヴィオレッタは幸運にも高級官僚の固定客がついた。彼は軍の高官で、植民地惑星の総督だった。報告や何かでフルジアに来る、その別邸でヴィオレッタは愛人となっていた。 裏道の街娼から軍高官の愛人へ。彼女はいつしか、フルジアの社交界に顔を出すまでの貴族になっていたのだ。 出会いは、そこで。任地から帰還した、女王の養子であるオフェリア・ヴァン・ゲルダ=レーヴェ少尉が、とあるパーティに出席していた。青い瞳の少年は、王位継承者である高貴さと、場を静めるほどの美麗さを持ち合わせた、完璧な貴公子だったろう。 本当に、偶然だった。彼はこういう場に出席などしない。女王の養子ということも非公式だった。前線へ赴いていたオフェリアを心配した女王に呼びつけられて出席させられた、というのが正しい。そのため、彼はほとんど女王と口を利かず、テラスでシャンパングラスを揺らめかせているだけだった。 軍高官の専属娼婦と、非公式の王位継承者。社交界の端っこで出会うのも、当然といえば当然だった。 どうしてこんなテラスにいるのか、と彼は問う。包み隠さず、ヴィオレッタは話した。彼女の性格が、嘘や戯言を好まなかったというのもある。見栄を張るのが嫌い、というのも何だかおかしな話だ。元々、社交界の人間ではないのだからそれも当然だろうが。 十六歳の少年は、青臭かった。若い正義感を振りかざし、熱弁を振るう姿はまさに青臭いの一言だ。愚直な軍人は、そんな歪んだヴィオレッタの人生が認められない。おそらく、最後の言葉が無ければ、オフェリアという人間に口汚い台詞を浴びせていただろう。 「貴女を、知っていた。私は総督のような地位も金も無いが、きっと貴女を幸せにしてみせる」 突風めいた告白に、些細ながらも心は揺れた。いくら擦れた娼婦であろうと、真っ直ぐで愚直な純情に揺れないはずがない。否、だからこそ、揺れたのかもしれない。 「出来ることなら、貴女と一生を共にしたい。これから先、我が運命を共に生きたいと思える女性に出会えた」 飾りも何も無い、ただ想いだけをぶつけた告白を、彼女は嘲笑った。四歳も年下の相手は、世間を知らなさすぎる。ヴィオレッタは軽く、しかし少々きつい言葉でそれを返し、テラスから去るのだ。
しかしながら、疑問は残る。どうして、オフェリアはそんな風に思ったのだろう。 夜の教会で、そんなことを想った。ステンドグラスを見上げ、しかし、神の像は答えを用意していないようだ。問いかけに答える者などなく、ヴィオレッタは教会を後にする。 星明りが、美しい夜だった。衛星が輝くようにして、周囲を明るく照らしている。星のライトは教会の正面を照らし、青い目の少年が立っていることを教えてきた。 赤い、カーペットが敷かれている。教会へと繋がる赤い道。それはまるで、結婚式のヴァージンロードのようで。 「カメリア、という惑星を知っていますか?自然の美しい、小さな星です。人工的に作られたのですが、だからこそ美しい。自然に手を加えることで、花もまた映える。貴女にも、いつか見せたい。椿の森が冬に、花を落として真っ赤なカーペットを敷き詰める道を、歩んでみたい」 それには及ばぬ、スケールの小さなカメリア椿の道。これを用意したというなら、相当なロマンチストか単なる馬鹿だ。その両方だ、と思う。その馬鹿のような純粋さに、いつしか惹かれていたのなら。 「不思議、ね。そう思う貴方も不思議だけれど、それも悪くないと思う自分もまた、不思議だわ」 オフェリアにとって、何のメリットも無い。王位継承者が娼婦と結婚する、など。ありえる話ではない。そんな困難さえ踏み越えて、彼はここにやって来た。ならば、応えなければ。断る意味も理由も無い。オフェリアの覚悟に、応えなければ嘘になる。 「それが、運命とかいうモノかも」 ああ、なら。其は彼の人か。何の打算も、計算も無い。それでも惹かれるなら、きっと運命だろう。
1 朴訥とした表情の写真。射抜く視線で壁面に釘付け、なお、焦げるほどに見つめた。そんな行為はほぼ数時間。時間があれば、彼女は写真を焦がし続ける。それは最早、習慣であって大した意味を持っていない。 格子のはまった窓から、緑を眺める。朽ち果てた牢獄のようなものだ。獄は白く、かつ自然で。穏やかな表情をたたえている。どこか、精神病棟に似ていると。牢だろうとサナトリウムだろうと、外に出れないことに変わりはない。 ここでこうして。彼女は憎悪を時と刻む。 「ヴィオレッタ様、旦那様が戻られました」 家の給仕が報告に来る。黒い瞳に、色が戻る。彼女は日常へと帰っていく。この庭のように穏やかに、この白い壁面のごとく純潔に。そう、生まれ変わったのだ。昔の自分とは決別をして、月並みな、それでいて裕福な家庭を幸せと手に入れた。 今の世の中。それはそれなりに、幸福なことだ。彼女の夫は若く凛々しい青年で、しかも資産もある。階級は低いが、そこそこな権力もある。地味な小役人だが、戦死はしない。 一方のヴィレッタは、この時代に適した人間だったのだ。夜の闇で商売を行う娼婦。戦時では別段、珍しくない光景を形成する一人。客の中には、軍の高官などもいた。 社会の最下層に生きる彼女が、小役人ではあるが清潔感のある、容貌のいい青年と結婚できたとするなら、それはきっと幸福以外のモノではない。事実、奇跡に近い幸福は彼女の生活を充実させた。豪邸は言えないが、下女を一人、雇うまでの大きな家。役人につけられる警備の人間も二人ほど、詰め掛けている。 以前は、違った。父と母に送金をしても、まだ金は余る。高級娼婦。ただ、それが幸せかどうかと問われると、首を傾げる。今は当時の資金と夫の資産を合わせ、裕福な暮らしをするまでになった。 居間には、給仕のフィアと語らう夫がいた。あまり、笑わない。ポツポツと言葉を連ねるだけだ。フィアもそう、口数が多いわけではなかった。だから二人は気が合うのかもしれない。 「ただいま、ヴィオレッタ。予定より遅くなったな」 別の惑星への短期出張、という理由で彼は三日ほど家を留守にしていた。素直にそれを謝り、彼は後ろ手に隠していた小箱を取り出す。高級そうな、髪飾りだ。椿を象った銀色のアクセサリー。それほど大きくもなく、下品な感じはしない。こういう、彼のセンスも素晴らしいものだった。そして細やかな気遣いも。 出張したのは小さな未開の惑星だった。だからプレゼントも用意できず、フルジアに戻ってきてから買ったのだろう。首都であるフルジアなら、何でも揃えられる。正直に彼は白状し、苦笑しながら小箱を手渡してくる。 「何をなさってきたのですか?」 「うん、NGC‐6501という小さな未開の惑星で政庁の雑務を。民主化民主化とは言うが、あの星の知能レベルじゃ無理だ」 フルジアはその銀河団の中に、数多の惑星を有している。うちの一つで彼は政府樹立のために動いてきたのだと言う。星がただそこにあるだけでは、意味がない。きちんと国家として成立し、はじめて役に立つ。徴税の仕方もわからない原住民族に政府のシステムを理解させなければならない。 「旦那様、私には何もご用意していませんか?」 静かに、しかしイタズラじみた声音で、フィアが言った。そして顔をしかめる夫。どうやら、そこまでは気が回らなかったらしい。悪い、と小さく呟く姿は滑稽でもあった。 「とにかく。明日からは家にいるから。三日ほどは休みだから、久し振りにどこか出かけようか」 優しい口調で、彼は誘ってくる。純粋に嬉しいその言葉に、危うく、反応しかける。ヴィオレッタは自身を制し、深奥にある憎悪を呼び起こす。 「いいえ。大変嬉しいのですが、体調が優れませんの。貴方こそ、たまの休日を悠々と過ごすべきですわ」 多少、残念そうな顔をする彼を見て、彼女の想いはなお、強くなった。
疑問は多く、かつ複雑だった。どれもが単なる逸話に過ぎず、一本の線にはつながらない。だから、杞憂と思う気持ちもあった。人間が他人と生きるには、多少の疑問には目をつぶり、妥協していかなければならない。そうやって、自然に不自然を隠そうと思うことはある。 例えば。フィアと夫は仲が良すぎるのではないか、と思うことがある。彼女は彼が雇った給仕で、以前から知り合いだったようだ。ヴィオレッタがフィアと会話らしきモノを交わすようになるまで、実に一年がかかった。彼女は無口で、しかも引っ込み思案な人だったためだ。 そんな人物と、彼はどこで、いつ、どうやって出会ったのか。そして、どのようにして親しくなったのか。フィアが笑顔を見せるのは、決まって彼の前だけでだった。ヴィオレッタの前で笑ったことなどなく、淡々と職務である家事をこなす人だ。 思い過ごしかもしれない、そうではないかもしれない。判断は難しく、だからこそ、見ないふりをしようとしたものだ。それも、月に三度は出張に出かける夫と、随行するように消えるフィアで不可能になった。 夫が優しく声をかけるのも、小粋なプレゼントを用意するのも、全ては真実を隠すため。どうしても、そう思ってしまう。卑屈だな、とは自分でも思う。しかし、卑屈で何が悪いのだ。自分は娼婦あがりの女で、派手なドレスに身を包んで社交界に出たとしても、それは贋作に過ぎない。 そう、最大の疑問は。なぜ彼が自分と結婚をしたのか、ということだ。
2 結局。私が恋したのは人形だったのだ。 完璧なビスクドール。蒼い球体を目に。白い肌は滑らかに。オフェリアという貴公子のカタチをした人形を愛でる。人形は喋らず、語らず、そして死なず。全てが優しい嘘で覆い隠されたのならば、人形とさほど違いはあるまい。 「オフェリア殿下、ヴィオレッタ妃殿下、リヴァンスツォン公爵夫人の使者が参られました」 使者など相手にしていられない。未亡人の貴族の相手など御免だ。それは人形が勝手にあしらってくれるだろう。ヴィオレッタは私室に閉じこもり、顔を出そうとさえ思わなかった。 しばらくして、再び誰かが訪ねてきた。しかし誰も応じる気配は無い。そこでフィアもオフェリアと共に出かけたことを知ったが、もうどうでもいいことだった。気だるい体を引き起こして、玄関へ向かう。来客は珍しい人物ではなかった。非公式で何度も訪れている義妹だ。 「警備を増やしてはいかがです、ヴィオレッタ。玄関まですんなりと入ることが出来ました」 女王の実子であるゲオルギーネは、オフェリアの義妹になる。彼がどういう経緯で女王の養子となれたのかは知らないが、彼女も認めているようだ。ただ、公式ではない。女王に万一があれば、この少女が国を背負うだろう。 「ここにオフェリア兄様も住んでいるんです。不逞の輩がフルジアにいないとも限りません」 「二人で充分です、ジーナ。それで、用件は?」 オフェリアがいないことなど、彼女はすでに理解している。なおも玄関に居座る理由が、わからなかった。よもや警備を置くことを皮肉するためにいるためではないだろう。 「貴女に話すようなことでは、ありませんから」 「ならお引取りを」 結婚に反対した者も多かった。今でも、その風当たりが弱まることはない。望まれて結婚をしたというのに、批判をする相手が違うだろう。オフェリアに批判が行かないということはないが、それでも彼は優遇されているのではないか。 それは当然のことだ。彼は王族、自分は娼婦。批判されるのがどちらかなど、自ずと知れる。 「変わってしまったわ、貴女。兄が愛した女性は、もうこの世にいない」 嫌味に似た捨て台詞が聞こえた。変えたのは他ならぬ、その兄だ。 結婚し、一年が経った頃。家族が死んだ。両親と妹。老後というには早すぎる死。それは病死ではなく、他殺だった。楽に暮らせるように、と。私財を全てヴァレリーの実家に送っていた。それを狙った強盗殺人、と警察は発表した。 惨死。家族の死体は原型を留めてはいなかった。家も荒らされ、何も、残らなかった。犯人は見つからず、いつしか事件は風化していった。 思えば。全てがおかしくなったのはそれからだ。オフェリアの言動や行動の全てが白々しく見える。何か、芝居を見ているようだった。実感が無いのだ。完璧すぎて、リアリティが無い。シミの無いカーペットなどあるはずがない。 夫に欠点は無い。だから自分が欠点しかないように思える。もし、理想などというものが実体であったなら、ソレはきっと何かが欠落している。完璧などはありえない。だが、オフェリアはソレだ。だから人形に似ている。 幸せがあまりにもキレイで人工的すぎたから。不完全な自分は疑ってしまう。そんなに優しいのは裏があるから。プレゼントを贈るのは後ろめたいから。――――こんなにも幸せが転がってるのは、不幸せを隠しているから。 そうして。今日も自分は、夜の街に繰り出すのだ。 「ふむ、それで。ご両親の事件に関与していたのは君の夫だよ。下手人を捕らえたらしいが、その先は消えている。当時はまだ少尉で、憲兵隊を組織していたはずだ。憲兵として捜査をしたのか、あるいは王子として裏で権力を行使したのか。どちらにせよ、国家レベルの隠蔽工作がある。それこそ、軍上層部でさえ計り知れないほどの、だ」 調べたのは、かの総督だった。軍の幹部クラスでさえ知りえない情報を、オフェリアは握っているということになる。犯人を、彼は知っているのだ。だのに、隠した。それは何故か。理由は明白。公表できない人物だからだ。 王族なら、女王か王女ゲオルギーネになる。だが動機が無い。となると、他に地位の高い人物か。いずれにしても、手の届かない人間には違いなかった。それを守るために、両親は犠牲となり、夫は人形となる。 「オフェリア・レーヴェか。外での評判は可も不可も無い小役人だ。隠蔽に関わり左遷させられた、というのが正しいのか。結婚して、二年。愛が冷めるには早すぎるのではないかな?」 冷めてしまったのだ。それも仕方がない。相手が人形のような人間では続くはずもない。
「ほら、俺はこっちの人間じゃないから。だから、女王様は気遣ってわざわざ養子にしてくれたんだろう」 その夜は枕元で昔話なぞをしてくれていた。真実から目を背けさせるミスリードか。誰も知らない話なら、いくらでも作れるだろう。彼が自分の過去について語ることなどほとんど無い。だからこそ、白々しかった。 「身寄りのない孤児だった。俺は父も母も覚えていない。母代わりが、まさか本当の母になるとはな」 大体、その作り話は辻褄があっていない。身寄りのない孤児が、どうやって銀河団を統率するフルジア女王の息子になれる。繋がりが、無いのだ。偶然で女王が子を拾うものか。まして、王位継承権を与えるものか。しかも、彼はフルジアの人間ではないのだ。 「つまらない長話だな。ゆっくり休むように。また明日も、俺はいるから」 体調が優れないという言葉も、あながち嘘ではなかった。職業病だろうか。時折、咳が止まらなくなることがあった。病弱というには似つかわしくないが、大差はない。 だが、油断を誘うことくらいはできる。いつからか、こうして。オフェリア・ヴァン・レーヴェを突き刺すのを夢見ることだけが、生きる目的となっていた。何が変わるわけでもなく、ただ失うだけの選択を。この一年、ずっと抱き続けてきた。 疑問はいつか邪知になり、憎悪に変わる。想いは冷たい塊になり、屋敷が監獄になる。いつまでもこのような生活には耐えられない。いつしか、昔を思い返すことが多くなった。そして、あの頃に戻りたいと願った。ならば、方法は一つしか見つからないではないか。 ただ、今日も刺せなかっただけ。彼が部屋を去った後、そっと短刀を鞘に戻す。代わりに、写真を焦げる視線で見続けるのだ。 どうしてこうなったのか、と考えることはあまりない。先に疑問が浮かび、そちらに意識がいってしまうためだ。二年前の教会など、色褪せてしまった。霞むような思い出の残滓。それは決して、明るいものではなかった。 オフェリアが外で何をしていようと構わなかった。愛情はすでに冷たい塊。情熱はただひとつ、理由の無い憎悪だけである。理由はなくとも、方向は決まっている。それらが全て彼に向いていた。両親が死んだせいか、あるいは、意味のない結婚生活のためか。そこまで考えられなくなっていただけだ。 心理というのは不思議なもので。いつからか、動機ではなく目的が力を持った。要するに、今の自分はオフェリアを憎むことで生きている。それだけが、自分に出来る唯一の意志だった。 「協力しよう。レーヴェの失脚はさほど難しくないはずだ。前線に飛ばすことも可能だろう」 夜、提督を呼んでいた。植民地にした惑星の総督は、軍内でも発言力が高い。独断で一個師団は軽く動かせるだろう。フルジア帝国軍中将の肩書きは、多いに利用できる。 疑問はあった。彼が協力する理由が見えない。 「私にもメリットくらいはある。家の主がいなくなれば、な」 誘われている。昔のように、誘われている。思えばあの頃の方が幸せだった気がする。戻ることなど出来ないが、昔の幻想に浸ることくらいはできよう。 目的は決した。策謀めいた手段でオフェリアを失脚させれば、夢はまた見られるだろう。幻想と心中するのならそれもよし。元よりこの身は、下賎の売春婦。何を失うものがあろうか。何を恐れるものがあろうか。最初から、何も持っていなかったというのに。 家族はすでに死んだ。悲しみの涙を流すものも、いない。一人きりで死んでいく。一抹の寂しさはあったが、高望みをした自分が悪い。笑い話だ。手の届かぬ幸福などを夢見るから、最期は決して、望まれたものにはならない。分不相応なのだ。 「もうじき旦那が戻ります。そろそろお引取りください」 「心得た。この密談、他言は無用ぞ」 わかっている。だが、気付く者などいないだろう。仮に気付いたとしても、誰にも、何の、罪さえあらず。痴れ者が起こした事件、くらいにしか認識されないだろう。 復讐、なのかもしれない。両親を殺した、夫への暗い復讐。そう考えれば、幾分、気持ちも安らいだ。
3 ある日。部屋に戻ろうとすると、私室の前にフィアが立っていた。いつもと同じ、暗い視線は下向き。思えば、この給仕と目を合わせて語らったことなど一度も無かった。おそらく、気に食わないのだろう。相手がそういう態度なら、こちらも軟化する必要などなかった。 「荷物をまとめ、お逃げください。この星から離れ、アンドロメダに向かわれるのがいいでしょう」 ふと、そんな言葉を聴いた。馬鹿げた戯言。突拍子もないフィアの発言に、思わず、目を細めた。彼女は何ら動ずることなく、視線さえ動かさずに私室の前に立ち続ける。 それさえ、気に入らない。お前はオフェリアの何なのだ。あの男は何を考えているのか。理由も明かさず、フィアはじっと、自分が尻尾を巻いて逃げるのを待っている。 「痴れ言を。フィア、そこを退きなさい。何を考えているのか知らないけれど、貴女の魂胆には乗らない」 「そうですか。ならお好きにどうぞ。結局、ヴィオレッタ様はオフェリア様のことを理解しようとなさらなかった。世界を知らない愚か者に、これ以上助言する必要は御座いません」 言って、彼女は初めて、感情らしい感情をこちらに向けた。それはきっと、怒り。立ち去るその背からも、怒れる様子が見て取れた。それで、気付いた。今のは嫌味でも皮肉でもなく、苦言だったのではないかと。 部屋に入る。机の上にあった短刀で、壁の写真を貫く。怒りならば、こちらも同じ。もうこれ以上、好き勝手にさせるものか。今のうちだ。今だけ、謳歌していろ。 覚悟はとうに決まっている。逃げ出すのは、オフェリアの方だ。
あの人とは、よくレッド・ラインというバーで飲んだ。ここに来るたび昔を思い出すようだ。この店には、今の生活を思わせるモノが一切ないからだろう。現実逃避と、懐古の場所。それがとても、心地いい。オフェリアがこんな場所に来るとは思えないのだ。 この店が、遊郭や風俗営業店など、俗に言う歓楽街の入り口であるためだ。ここより先は、治安も悪く、安易に一人歩きするような場所ではない。清純派である夫が足を踏み入れる可能性はまず無かった。代わりにいるのは、元愛人である。 密議、というほどのものではなかったが。綿密に話し合いをした。寝不足が続く日々だったが、ヴィオレッタは自分がやけに充実していることに気付いた。たまりたまった憎悪の念、ただ一つの目標に向かって走り始めたのだ。高揚せぬ方が、おかしい。睡眠不足と高揚感で、不思議と気持ちは充実していた。 「まずはレーヴェを現職から軍に入れることだ。少尉としての実績もあり、君のご両親の一件を隠匿しようとするなら左遷された理由を公にできない。強力な辞令を持ってすれば、おそらく引き込みは可能だ。フォリア中将指揮下の近衛師団が編成の時期だ。人員不足で近衛師団から二個連隊ほどを前線へ動かすらしい」 水がしみこむように、彼の考えは理解出来た。まずは異動させる。前線へ送るなり、軍に入れるなりすればいい。これが、まず布石となる。 「近衛師団の第一部長とは懇意でな。手紙一つで事は足りるだろう」 「次に私が、入隊に対して異議を言えばいいわ。頷けばオフェリアは進退に困り、断れば離縁のキッカケが作れる」 そういうことだ、と彼が頷く。世界レベルで見るのなら、小さな小さな、とるに足りない陰謀。それでも、自分にとっては大切な将来を賭けたもの。いつしか、目標はその先の未来を見据えていた。もう一度、やり直すのだ。ここから、元に戻してみるのだ。隣では、それを待ってくれている人もいる。 「注意深く、ニュースを見ることだ。少々、大掛かりになるかもしれぬぞ」 情報はいち早く掴まなければならない。万一を考えて、行動を開始したのなら彼と連絡は絶つべきだ。情報はニュースで。オフェリア失権の報を受けて、第二段階へ移る。といっても、小役人が軍に異動になるだけなので、注意していなければ見過ごしてしまう小さなニュースだ。 カタチの上では栄転。しかし、誰が真実に気付くのか。 「それと。今更なんだが、君のご両親を襲撃した犯人の名が割れた。やはり隠蔽するはずの名だ」 急に、話題が変わった。酔いと、眠気と、興奮で混沌となった思考に、トドメの一撃が放たれる。 「オフェリア・レーヴェ。君の夫が、犯人だ」
その日も、ヴィオレッタはレッド・ラインにいた。今日は一人。空のショットグラスを眺めながら、程よい眠気に頭を揺らしている。確かに最近、あまり寝ていない。これ以上の飲酒は眠気を誘うだけだ、と勝手に決めてグラスを置いた。 ふと、見覚えのある顔がヴィジョンに映った。モニターに映る男性の写真と、アナウンサー。ああ、ついに待ちに待った時間か、と身を乗り出し――――時間が止まったのが、わかった。 「あれ――――私、だ」 スピーカーに、呼ばれる。自分の名前を呼ばれ、写真とラップする。男女仲良く並んだニュースの一幕。それは、自分たちの思い描いていたモノとはかけ離れていた。しかし、思い描いていた幻想は映っていた。 以前からヴィオレッタ・レーヴェはフルジア第三惑星の総督と関係があるも、それに関しては性的サービスの対価としての金銭授受、ということで非合法ではない。個人の信用問題としては別だが、法を犯しているわけではなかった。ただ、彼には妻子がある。 そしてなお、その関係が続いているとするならば。既婚男性と未婚女性ではなく、双方共に既婚である。これは、問題にはならないのか。 モニターの映像では、召喚される彼の姿が映っている。キャスターの言葉は、なおも続く。その言葉が、この身を咎める鎖のようで。果たして。失脚したのはどちらの側だったのかを見せ付けられる。 直感。何かが、感じられた。これはひょっとすると、壮大な罠ではないのか。陰謀を張り巡らせていたのは、どちらだったのか。この瞬間を、狙っていたのではないか。様々な思惑が脳裏を巡り、気付いた時には店を飛び出していた。 ――――――――――――――――――――― 「フィア、ノイン、赤線地区に踏み込め。ルートは把握してるな?」 違法営業店に対する一斉捜査から逃れるために、区域一帯を迷路のようにしてしまうことが往々にしてある。レッド・ラインから始まるフルジア市街地の歓楽街も同様に、客引きの意味もこめて複雑な作りになっていた。 「ヴィオレッタ様はそちらにいるとお考えなのですか?」 「彼女が逃げるのはそこしかない。そこしか、彼女の幻想には残されていない。裏道に私娼窟へ通じる場所がある」 迷路。長年をそこで過ごしてきたヴィオレッタはさすがに詳しいだろう。本当ならもっと人員を当てたいところだが、不必要に男性を配すると逆に身動きがとれなくなる可能性もある。ここは、女性を中心として攻めるしかない。 ヴィオレッタと総督のスキャンダル。第一の目的がそれだった。次いで、二人の不倫関係を持ち出す。それで喚問までこぎつけられるだろう。それからは簡単だ。騒乱罪でも外患罪でも罪は作れる。総督の地位から叩き落してやることは容易である。 二人を見送り、後を追おうと立ち上がる。入れ違いに、一人の女性が入ってくるのが見えた。 「――――陛下。共さえつけずに、いかがなされましたか」 三十八歳という若い女王陛下は一人きりでオフェリアの自宅に入って来ていた。おそらく、入れ違いになったフィアが通したのだろう。それにしても、感心しない。敵側の諜報員も随分入ってきている。中には工作員もいるかもしれないのだ。 「知っています。何せ貴方は、敵側のアンドロメダに属するスパイですから」 「ええ。まぁ、いいでしょう。御在所にお戻りください。護衛は、私が」 どちらの陣営にも、情報機関というものは存在する。敵方の情報を探り、自国に報告するのが主たる仕事ではあるが、時たま、こういう内部調査のようなことも行う。自国のスパイ狩りのようなものだ。第三惑星の総督は単に、フォリア中将と意見が食い違っていた、というだけだったが。 強固な帝国軍。一枚岩の組織であるためには、蟻の一穴をふさがなくてはならない。身内のスキャンダルをスクープしてまでも。それが国家の存亡に関わることなら、尚更だ。 「よく働いてくれました。また辛い仕事を、させましたね」 「手はすでに汚れていますから。陛下に代わって、手を血に濡らすのが我が使命で御座います」 妻の両親の殺害計画にも関与した。ヴィオレッタの帰る家を破壊し、家庭を崩壊させて精神を責めた。効果は抜群だったのだから、何も悔いることはない。そうやって、人を殺して夢を叶え続けてきたのだから。 「正直に告白しましょう。貴方を息子と呼ぶのは、理由があります。貴方が優秀な子だから。貴方は人に優しい人格者だから。貴方に対して負い目を感じているから。小さい頃からオフェリア、貴方を見てきましたが、決して、今の仕事を良いと思えるはずがありません。私はそのような仕事を、進んでさせているのですから」 「理由、というのはそれだけではないでしょう。それら三つの理由を合わせて考えれば、『俺が裏切らないように』の言葉が抜けています」 「そうです。オフェリア、貴方の言うとおりです。私は貴方を失いたくないのです。ここまで利用していてもなお、貴方を失うのが怖い」 母子のように、とは言いがたい。それでも彼女と過ごした日々は、唯一の支えだったはずだ。利用されていると知っていても、抗えない。遠い昔に失ってしまった母の温もりを、確かに彼女は持っている。 「俺にとって、母は貴方だけだ。だから言ってください。俺が、今一番大切なモノを失くさないように」 女王がここに来た理由など、一つしかない。だが、彼女に言ってもらわなければ動けない。恐喝に近い。もし言わなければ、その細首を叩き落してくれる。叛逆でも造反でも好きに呼べばいい。裏切りたくない。だから、言ってくれ。 ただ一言。行きなさいと告げてくれ。 「第三惑星総督更迭の任務はすでに完了した、と判断しましょう。私たちは勝たねばならぬ。敵に付け入る隙は与えたくない。ただ、オフェリア。私にはそう重要なことだったと思えないのですよ。貴方は妻を愛し、故に、見えなくなっている」 「それは詭弁だ。総督の行動が不審だったのは、俺が結婚する前からだ。不倫のネタでゆすり、その種にヴィオレッタを使うと、貴女が!貴女が言ったんだ―――――!」 「……珍しいですね。感情をまきちらして喚く姿など、久しく見ておらぬ。落ち着きなさい、そして周りをよく見なさい。貴方にとって、彼女と生きる理由はなく、また価値もない。貴方も総督同様、立つ足場が揺れる不安定なモノだと知っているでしょう?」 「――――理由はある。価値もあるさ。でも、反論は無いよ。女王陛下、貴女が俺を案じて言っているのだとわかっているから。だからこそ、行かなきゃ。確かに任務終了の命を受けました」 走り出す。女王は彼女を生き残らせるほど、甘くないだろう。だからこそ、行く。貴女が俺を案じている限り、俺は行かなくてはならない。 あの日。 あの場所で誓った想いに、嘘などない。 ――――――――――――――――――――― 魔窟を行く。記憶を頼りに、一筋の光明にすがるように、夜の路地を駆け抜ける。私娼とネオンサイン。街娼が道行く人を誘う。退廃的でいて、しかし活気のある夜。住み慣れた我が家に帰ってくるようであった。 やはり自分は、ここにいるべき存在なのだ。幾分、気持ちも安らいだ。駆ける足はいつしか歩みになり、ノスタルジックに風景を眺めている。いつまでも変わらない風景。この産業は、どれだけ時代が変わろうと、どれほど人が変わろうと、無くなりはしないだろう。 ある意味、最も安定した職種とも言える。食うに困ることは無く、永遠の需要がある。そこに僅かな哀愁はあれど、見返りの大きさから魅力もまたある。 ここから、人生は始まった。自己を形成し、独りで生きるようになった人生が、ここから。戻るというより、帰るという思いが強い。結局、自分は何一つ成長してすらいなかったのだ。幸福に似た足枷をはめられて、手に入れられたモノなど何も無く、失ってばかりだった。 恋愛が何だ、情愛がどうした。そんなモノ、生きる糧になどならない。ソレを追いかけてしまった自分は、果たして今、何を手にしたのか。本当に自分を愛してくれた人々を失っただけではないか。背徳と裏切りの先に、残るモノなど何も無い。残るのは、後悔と怨嗟の情念だけだ。 そうして。自分はいつしか、後悔で出来た道に辿り着いた。 裏路地を抜けた先、小さな教会がある。おそらくここに住み着く人間のためだろう。マトモな神父さえおらず、手入れもされていないような教会だ。そう、全てはここから。ここから、失い続ける人生に変わった。 思えば、どうしてオフェリアはここを知っていたのだろう。あの男が知っているような場所ではない。魔窟の先にある一つの楽園。あの男がここまで足を踏み入れたとは、考えがたい。出会いの夜。パーティに嫌気を差した自分が逃げ帰った教会。不思議、だった。 誘われるがままに、進む。教会へと続く道。ここが赤く彩られていたのはいつのことか。一瞬の激情。恋など、そんなものだろう。激情が永遠に続くはずもなく、思いが強ければ強いほど、憎悪もまた、強い。 なら。自分も少なからず、あの男を愛していたということか。それは、確かだ。だからこそ燃える激情に身を委ね、純粋な気持ちにイエスと答えた。今、考えれば。間違いだったと言える判断ミス。それがどうして。考えれば考えるほど、過ちが胸の奥から露呈するのか。 気付けば、正面が赤く染まっていた。椿の道。いつか夢見た、そんな光景が目の前にあった。先へは進めない。ここで立ち止まるだけ。自分の人生は、立ち止まるだけの人生。先へ進むことなど出来なかった。 「――――ごぼ」 口から変な音が漏れた。同時に、赤い花が咲いた。美しい椿の花。それは霧になって、すぐに消えた。痛みが生まれ、そして抜ける。まるで自分が苗床のようだ。この身から生まれる花。自分の周囲を赤く、赤く染めていく。 いつかと違うのは、周囲が驚くほど明るいことだ。まるで地面が光っている。それが後方から照射された軍のサーチライトと気付くことはなかったが。 振り返ろうとして、自分が地面に倒れていることに気付いた。正面は地面。息苦しいので体を横向きにする。それで後ろが見えた。 見事な椿の道がある。道の向こうには、立ち尽くす愛憎の人がいた。 後悔で作られた再会の道を、進んでくる。
4 人生とは不可解で、不思議に満ちていて。しかも陥穽ばかりだったりする。よいしょ、と引き上げられたりもするけれど。ぽっかり開いた落とし穴に頭っから転落することもあり。ある朝、起きたら世界が変わっていることさえある。 「世界」などという定義の在って無いようなモノは、個人個人が持つ他者との繋がりによって生じるごく身近で小さな周辺でしかないのだけれども。そういう意味では、ヴィオレッタ・レーヴェの世界は二転三転したのだ。実に忙しない。腰を落ち着けるということが嫌いなのだろう。 知らず、血で濡れた椿の道を歩んでいた。二人ではなく、一人で。されど独りではなくて。小さい頃に憧れるような、王子様によるお姫様抱っことやらだ。本物なのだから仕方がない。オフェリア殿下は珍しく額に汗を浮かべながら教会へと入っていく。 人生とは不思議に満ちていて。両親が非業の死を迎えることもある。娼婦が純愛に憧れて溺死することもある。コロッと変わって憎悪の刃を向けたかと思えば、そんなモノは愛情の裏返しだったのではないかとさえ思えてしまう。中でも一番の不思議が。どうしてこの人を憎んでいたのかという疑問。 憑きモノが落ちたかのように、思考は透明だった。ここで、この場所で、確かに聞いた。純粋で直情的な求婚の言葉。少なくとも、それだけは信じれる言葉だったはずなのに。 「相変わらず、神様は意地悪だな。性根の腐った目で見下してる」 教会で神像の前。罰当たりな言葉を吐き捨てる夫の目は潤んでいた。不思議は、無い。一途で純粋な愛情に揺らぎは無い。最初から最期まで。その想いにきっと嘘は無かった。 「そのまま、動かないで。大丈夫。医療班を呼んでくる」 この人は、何も変わってなどいない。変わったのは、自分。悪いのはどちらか。客観視すれば、自分は勝手に敵対心と憎悪を燃やし、夫のいない間に男を連れ込んだ毒婦ではないのか。オフェリアはわかっていたはずだ。それでも、何もしなかったのは。 袖を掴む。ああ、本当に。どうしてこんな、最低な人間を嫁に選んだのだ、貴方は。 「自責は、いらないだろ。俺だって聖人君子じゃない。ヴァレリーの家を潰したのも、今、ヴィオレッタを殺そうとしてるのも、結局は俺さ」 「いいえ、違う。フィアから、聞きました」 全ては総督更迭のため。夫婦仲を存続させたまま家に引きとめ、総督を呼び寄せ、スキャンダルとする。何せ、こちらの経歴は証拠書類のようなものだ。 全てが終われば、口を封じる。利用価値の無くなった人間である以上、生き続けることは難しいのだろう。オフェリアは、そういう世界に生きている人間だ。だからこそ、あの時のフィアは信じられないほど軽薄な行動をとった。
ほほをつたう、涙(オモイ)がある。 二度とは戻らぬ、後悔(ネガイ)がある。
人生を運命と呼ぶならば、 神様は確かに意地悪だ。
「……不思議な人。どうして泣くの?偽装結婚なのでしょう、これって」 最期まで、自分は嫌で駄目な人間だ。答えなど、分かりきっている。それでも、聞きたい。その声で、聞きたい。周囲の制止も振り切って、反対だらけの意見を切り捨てて、来た人の声が。 「くそ。そんな意地悪だって知ってたら。好きになんて、ならなかった」 「失礼なことを言うと、嫌いになりますよ?」 それは嫌だ、なんて。泣き笑いのような顔をされるのだから困ったものだ。年下の青臭い少年は、今でもあの時のまま、けれど嫌味などを覚えてしまったらしい。自嘲などという実に似合わない笑み。そんな顔をするなら、いっそ本当に嫌いになってしまおうか。 「不思議、ね。薄汚れた自分を愛しいとは思えないけれど、そんな目でも貴方が見えるなんて」 今ほど、真実が見えた時はないだろう。余計なことが考えられないためか、透明な思考は事実だけを浮かばせる。そして今ほど――――別れが、嫌だと思ったことはない。いつでもこちらを見ていてほしかった。決してどこにも、行かずに。そう、一生を共に。貴方しか、見えなかったのだ。 願いは遠く、そして儚い。手に届くところにあったモノが、今ではもう見えてもいない。そこで知った。何も、この手は何も、失ってなどいなくて。自分から手放しただけだった。不思議などない。全ては消え、終わった。不思議さえ、残らなかった。 「ねぇ、一つだけ。とても今さらなんですけど、願ってもいいですか?」 「うん。神様の御前だ。そろそろ奇跡の一つくらい、起こしてくれる確率はある」 ここが教会とは、都合がいい。祈るには充分、願う舞台としては最高だ。目を閉じ、頭には一つのことだけ。怖くはない。抱きとめてくれる人がいる、支えてくれる腕がある。最後の最後まで、きっと自分は一人ではない。
明日は休みだから――――― 久し振りにどこかに出かけてみませんか?
いつか聞いた、そんな言葉を思い返す。体調は最悪だが、何とかなるんじゃないか。旦那は優しい人なので、わがままでも言えば抱っこでも背負ってもくれるだろう。周りが見てようが構うものか。 幻想でもいい。きっと二人は、愛し合っていた。ただ表現が違っていただけ。穴の開いた心臓は、血と一緒に憎悪さえ流しているようだ。 「どこに、行きたい?」 「どこでも。と言いたいところですけど、私はワガママですから」 前に聞いた、椿が咲き乱れる星に。手は届かなくとも、想いだけなら馳せられる。目蓋の向こうには、もうすぐそこに。 夢の時間が、終わる。目が覚めれば、きっとそこは現実。悔やむとすれば、オフェリアを残してしまうこと。ただ、忘れろと言えるほど良い子ではない。そんなのは、嫌なのだ。目が覚めても、貴方が私を覚えていますように。 明日はきっと、絶好の旅行日和になるだろう。 |