Mirage

Return to one's everyday life -Another Story-

誰もこの場所の名前なんか知らない。
四十階建て、地上から150メートルあまり離れたこの土地には、大いなる空しか残されていない。
ランドマーク・タワー。竣工は試験的なもので、プリ・フリーダムと呼ばれていた。
アメリカに建設予定のビルディングの前衛として、実にビジネス的な理由でこのタワーは建てられている。
「自由(フリーダム)なんて、どこにも無いのにな」
不意に、横を歩く青年が呟いた。意味は、わからない。このビルを皮肉めいた表現で形容したのかもしれない。
そうして、矢上藍は最上階に辿り付いた。箱型の密室から抜け出し、大いなる空へと。
最上階の展望台。全面がガラス張りのその部屋は、完成したてのランドマーク・タワーの目玉でもある。
「――――」
150メートルの高さから、街を眺める。隣の、矢上煌貴も同じようにして、ガラスに鼻を押し付けていた。
「――――楽しい、と思う?」
「いえ、特には」
思わず本音を言う自分は、きっと観光を共にする相手に相応しくない。
「良かった。俺も別に、景色眺めて感傷に浸るタイプじゃないし」
と、矢上煌貴も窓から顔を離し、照れ笑いのように微笑みながら言った。
周りは朝だと言うのに、カップルやら家族連れやらで賑わっている。
その中で、つまらない、と言い切る二人組は、この上なく滑稽だった。
「んだよ、笑うなっての」
口調こそ咎(トガ)めているが、彼自身もおかしいのだろう。口元は笑みのままだ。
言われて、気付いた。自分は笑っている。あまりにも、観光地で暴言を吐く姿が面白くて。
もう遠くに置き忘れてきた笑顔を、いつの間にか、あっさりと簡単に、取り返していた。
そう、楽しかったのだ。
「あの、私、お腹が空きました」
だから、自然とそんな言葉が出た。一睡すらせずに今日という日に臨(ノゾ)んだのだ。空腹も然るべき現象だろう。
彼は、微笑を崩さず頷いた。

複合商業ビルであるフリーダムには、十二階までがショップやレストラン、映画館で埋められている。
パンフレットを片手に、混雑し始めたエレベーターに乗った。開業したてのビルに観光客やら地元の人間も集まって遠野では有り得ないほどの人が混み合う。
「藍は何を食いたい?」
まるで人目を気にせず、広げたパンフレットを見せ付けてくる。微かに、隣のサラリーマン風の男が顔をしかめた。
何でもいい、と頭を振ると、矢上煌貴は少し悩んだ後、それでもレストラン街となっている十階に到着する頃には目的地を決めていた。
入ったのは不思議な店だった。サラダの店、と書かれた看板が目に入る。
四人掛けのテーブルに、対面となって座った。従業員がメニューを運んでくる。
矢上煌貴がそれを受け取ろうとすると、何故か顔色を変えた。
「――――ふーん。煌貴クン、死んだって聞いたけどなぁ」
「げ、健司さん」
「げ、もクソもねえだろよ。アメリカでサラダ修行をして帰ってきたら、コレだ。陽次のヤツはオレ様みてえに旅に出て、煌貴も冬真もすっかり他人サマさッ」
憤慨したようにメニューで煌貴の頭を殴る店員。如何せん、薄っぺらなせいでダメージは皆無だろうと分析する。
「はぁ。ま、いいや。ほら、朝里妹。決まったら呼べ。声でだぞ、煌貴。ポッチはダメだ。電池切れてるからな」
「買い換えましょうって」
メニューを受け取り、物色を開始する。ポッチ、というのは呼び鈴のようなものだろう。
頭を抱えて一向にメニューを決めない矢上煌貴。おそらく、あの店員が気に入らないのだ。
だって、自分も気に入らない。
「妹、ですか」
「あ、悪ぃ。あの人、多分だけど俺と冬真がごっちゃになってんだ。だから、氷彩だと思ってんじゃないか。ほら、冬真の妹」
それは違うと思う。
吸血鬼にも言われたことだ。事実、矢上煌貴は目上で、従兄弟と呼ぶより兄の方がしっくり来るような気がした。
そうだ。兄。これが家族というもので、大切なモノのはず。
だから、私はこんなにも楽しいのだろう。
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