Mirage
Return to one's everyday life -Another Story-
この喫茶店に、この大人数で押しかけたことはかつて無い。
戻らなかった柚葉たちを待つのを諦め、僕たちは煌貴に率いられて薄暗い喫茶店に足を踏み入れた。夕食を頼めるか不安だったものの、ジャックは煌貴の指示通りに厨房へ消えた。
しばらくすると、両手にパスタの乗った皿を運び、小皿まで用意していたジャックがテーブルに現れた。
「コロンボの作るモノよりは美味いぞ」
「Dはコロンボの店、好きだけどね」
医院の下にある胡散臭いイタリア料理店よりは、確かに美味しい。ジャックという中年東洋人について議論するつもりは無いが、もう彼に不可能は無いような気がする。
「う、こら、ベアトリクス。箸の使い方知らないだろ。あー、ジャック。フォークを出してくれ」
隣に座る金髪の女性に辟易しながら、煌貴は丁寧に指導している。その様子がどこか可笑しくて、肝心の女性がどこかズレているせいだろう。
こうしてみると、本当に煌貴は魅力的な男性だと思う。矢上彩の時も感じたが、仕草がどこか、誘うような感じ。そりゃあ、女性である男性なのだから、女性にとっての泣き所を良く知っているのだろう。その逆も然り。
矢上藍もベアトリクス・ガーターも、そんな煌貴くんにイチコロなのでしょう。
「羨ましい話だなぁ」
「オキラクなこと言ってるなよ。一度、生理痛の苦しみ、教えてやろうか?」
「痛いの?」
「は?オマエ、女の子を侮ってるぞ。ぶすっと下腹部を童子切で突き刺された方がマシだ。天井より生理痛の方が強ぇよ。彩が無言で機嫌悪くて、私服姿の時はモロにキてる時だから注意しろ」
的確過ぎるアドバイスを受けて、想像を絶する痛みから思考を離す。
伸びきった髪の毛を頭頂部で一つにまとめ、江戸時代に出てきそうな武家風な髪型をした青年はタバコに火を点けながら皿を下げる。ほんのわずかしか口にしていないようにも思えるが、追求するのはやめておこう。
話題が、無い。喫煙中の朝里煌貴さんが黙ると、自然に沈黙が訪れる。
「ソレって、個体差があるんじゃなかったっけ」
だからと言って、この話題を引っ張る自分のセンスもありえないだろう。
「個人差って言えよ。ほら、陣痛とか妊娠とかと一緒じゃないか?ぶっくぶくに太るヤツもいれば、全然気付かないのもあるだろ。っつーか統計学で考察するなら他のサンプルにも聞いてみ」
なんとなーく。彩は妊娠してもお腹があまり膨らまないと思う。そう、本当に何となく。
煌貴は薄く、笑う。その笑みは本当に薄っぺらで、口元だけを愉悦に歪ませたものだ。
いつものように右目は見えず、指の合間から赤い左眼と、そして歪んだ唇が見えた。
そして叩きのめされるのだ。
彼と彼女を繋ぐ線。
愛と言うほど蔓延(ハビコ)った言葉ではなく、恋と言うには切なすぎる絆。
己が己を愛するその意味を、その真意を、その絶望を。表す言葉は世界に無い。
だから、自嘲(ワラ)う。誰よりも必要で、誰よりも必要とされる人間こそ、誰にも届かない場所にいることを嘆き、憂い、諦念に支配される。
「そうだ、煌貴――――」
だから、言う。
この言葉、責務に押し潰されるよりか、後悔に苛(サイナ)まれる日々の方が嫌だから。
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