Mirage

Meteor-3

冬真が買ってくれた二着目の黒いロングスカートに、ストッキングを合わせる。
「無理だけは、するな。今回ばかりは無理は禁物だ」
鎖帷子(クサリカタビラ)を模した、グラスファイバーを編みこんだ黒い長袖は指先まで保護してくれる。
「リヴィエルロットだけではない。他の誰かも動いている。敵は、一人ではないかもしれん」
ノースリーヴのジャケットを羽織り、ジジジ、と首元まで締める。
「遠野とは連絡を取り合え。何か、秘伝をくれるかもしれないからな」
脛(スネ)まで届く黒いロングコートに袖を通し、三日月宗近を右肩に背負った。
「どう?中世の淑女って感じでしょう?」
「人の話を聞いているのか、お前さんは」
「ええ、大丈夫。多分死なないと思うけれど、一応準備だけはしっかりしておこうと思って」
完全武装。防御を考えないと言われたことを考慮して、チェインメイルなんてものを仕入れてきた柚葉の顔を立てる。気休め程度の防備だが、斬撃には強い。
「必ず、矢上藍を助け出す。煌貴の縁戚だもん」
目指すは東北、岩手。まずは遠野の地で情報を集める。
漆黒の衣装に身を纏った、天使が戦場へと還る。


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(星の雨/5)



まるで死んでしまった暗殺者を背負い、洞穴の奥で彼方は慧光を待つ。
何でも、龍王(ナーガ)の守りとやらがあるので、他の人間は来れないのだそうだ。
「まぁ、普通は国定公園を踏み荒らす罰当たりモンはいないわな」
竜泉洞。岩手県岩泉町にある天然記念物。全長5000メートルの洞穴で、地下に向かって伸びている。中には地底湖が四つ存在し、彼方は未公開であるはずの第四地底湖にいた。
暗殺者の女性も一緒である。慧光に胸を貫かれ、だが死んではいなかった。意識がシャットダウンされただけで、呼吸も心拍もある。
深い、深奥の底。地底に息づく生命は自分と暗殺者だけ。
「神秘っつーか、不気味だぜ」
目の前には真青な湖が広大に映る。第一だけでも驚きなのに、第四ともなるとすでに驚愕(キョウガク)の域を凌駕(リョウガ)してしまっている。それはまるで海のようで、透明に近く透き通っていた。
それでも湖底は見えない。見えぬほど、深い。慧光の話では、120メートルはあるそうだ。
しかし、恐怖を払拭(フッショク)するほどに美しかった。青の光。湖底は、まるで輝くようにさざめいている。
暗殺者は、綺麗な顔をしていた。まだ若く、二十になるかならないかだろう。

――――何故か、欲しい、と思う。

首筋に鼻を押し付ける。
愛しくて、たまらない。欲望で思考が埋め尽くされ、目の前にある  しか見えなくなる。
「は、何だ、コレ」
否定の言葉は遠く、聞こえない。
首。白い肌に口付ける。

「そこまでだ、吸血鬼」

側頭部に冷たい感触。鉄の重みが直接脳に伝わってくる。
錫杖。定行慧光の得物。
「今、なんつった?」
振り返らず、暗殺者を抱いたまま、彼方は問う。

「吸血鬼。竜王(ドラクール)に血を受けし忌むべき異端者。気が変わった。やはり、西川彼方はここで死すべきだ」

「あら、それは困るわ。ソレを連れ戻さなきゃ、三丁先のおば様に怒られるのよ、私」

声は二つ。
肩から血を流し、腹部を黒く濡らした、もう一人の暗殺者が――――

「・・・誰だ」
「そこのお嬢さんの親戚。悪いけれど、藍を吸血鬼の慰めにする気も、山伏の玩具にする気もない。ここから帰るのは、二人だけ」
遠く、暗殺者が見える。
手に刀を持って、如何にも愉しげに笑う少女。
「ヤガミシキ。そうか、お前が浅川の土地に現れた」
「定行慧光。寺院協会のはみ出し者。ただでさえ目をつけられているのに、どうしてこんな阿呆な真似をしたのかしら。役小角(えんのおづぬ)に祖を発する行者が干渉するなんて」

「知れた事。拙僧は、人間には救えぬ救世の為、社会を守る異能者を刻む為に生きている」

さも平然と、定行慧光は言い放った。
明王と称された憤怒の表情と、決死の覚悟。全人類を滅ぼす覚悟で、彼は今、ここに立つ。
「八神全てを殺戮するとは、夜神を侮った。しかし、蓄積された疲労と怪我でどうなるものでもあるまい」
今度は、死鬼が笑う番だった。くつくつと笑い声を上げて、少女は、右目を覆い隠した。

「御託はいらねェんだよ。今スグ恐怖(ジゴク)の底に叩き落してやるから、そこで待ってろ――――」

びくん、と。彼方は自分の体が爆ぜたのがわかった。
恐怖。恐れ。死神の前で彼は、己が死と、破滅を知りて恐怖した。
鬼の左眼が光る。青く、まるで湖面のような美しさで。
来る。
恐怖が。そして、殺戮の刻が。
彼方は――――呼吸さえ止まっているのを感じた。


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(星の雨/6)



矢上藍というのは、特別だ。
矢上煌貴の血縁者であり、本家の当主でもある。
岩手県遠野市。和歌山にある神尾、福岡にある神邪馬、そして岩手の夜神。
それぞれ、紀州神尾家、太宰神邪馬家、遠野夜神家と呼ばれる。
遠野の家。古ぼけて、傾斜した旧家の中には何も無かった。家族さえ、亡い。
近所に住んでいた老婆から、話は聞けた。別段、新しい情報であったというわけではない。
だから、そのままで竜泉洞に突入した。

それが、定行慧光には理解が出来なかった。
八なる神の守護がありながら、こうも容易く突破され、深奥の地に踏み入れられた。
傷を見るなり、その全てを打ち破ったことは理解できる。
しかし、敵は龍である。神の化身たる彼らが、八人も揃って全て敗北するとは思えない。
どう考えても、おかしい。

だが、
足は竦み、
目は一点を見つめ、
手は動かず、
口は発音を止め、

肉体が恐怖に侵食された。

考えられないのだ。理解の範疇を逸脱している。
だから、恐れる。彼女がいる理由と、経過を。
まさか。あの守護を全て打ち破った人間に、勝てるわけがない。

なぜなら、それは「神」を敵にしているのだから。

恐怖(フィアー)。
朝里煌貴の持つ技能の一つだった。
かつて、異世界で騎士の心を凍らせた、結界。
感情を知らぬ少女が発動を許したのは、おそらく、怒り。
目前の明王にも劣らぬ、純然たる憤怒で敵を凍らせる。
「シネ」
無機質な声だった。
夜神色が迫る。黒衣の少女が、三日月を手にして走り込む。
そして。明王(アチャラナータ)は、思うのだ。

「この星は度重なる衝突を経て生まれた。衝突は雲を作り、雨を呼び、大海を育んだ。海は菌を生み、菌は生命となって進化する。世界を見ろ。犬は互いを殺し合い、地球を壊すような真似はするだろうか。猫は資源を食い合い、不足して敵対をするだろうか。この世界にとって、星というのは絶対なのだ。不可侵で、踏み込むことが許されぬ領域。如何なる摂理も倫理も到達することが許されていない。世界を見ろ。均衡は奇跡でも何でもない。ただ当然のようにそこにあるものだ。均衡を崩してまで、絶対の世界を破壊してまで、繁殖を続けたいのか。救いとは星にある。救世とは星を守ること。目先の幸福に捕らわれ、真理に触れたつもりでいる病原体。故に、私は誓う。人間も異能者も、救えぬのなら破戒に基づき破壊せよと」

極限まで鍛え上げられた肉体。自然。いわば、星によって育まれた人間が聳(ソビ)え立つ。
対する少女は、余りにも小さかった。しかし、後退はしない。少女にも意思はある。ただひとつの真理を胸に抱き、立ち向かった。

難陀竜王の心臓を串刺し、
跋難陀竜王の身体を裂き、
娑羯羅竜王に肩を貫かれ、
和修吉竜王の頭全て砕き、
徳叉迦竜王の憤怒を超え、
阿那婆達多竜王に刺され、
摩那斯竜王を灰へと帰し、
優鉢羅竜王の命を散らす。

死鬼は色を行いて、八神全てを彩めて夜神となる。

開始の合図は、錫杖を湖面に投げ捨てる音。
定行慧光は自身の得物を手放して、最初から短刀を持った。
足場は狭い。洞穴の壁に寄った小さな道。奥行きのある岩場には、後退せねば到達出来ない。
逃げ場は無し。正面から衝突し、雌雄を決するのみ。
輝く腕。鎖に縛られた右腕が加速し、三日月が弧を描いて袈裟に落ちる。
手にした短刀で、慧光は斬撃を受け止めた。痺れるような左腕の感触を堪え、彼は思い切り、蹴り上げた。
彩の想定を超えて、蹴撃は的確に鳩尾を貫く。鎖帷子で防護してあるとはいえ、直線の攻撃に対して防御を増すことは出来ない。
一瞬、彩の行動が停止した。横隔膜を直接押さえる蹴撃は、僅か一瞬、しかし確実に矢上彩を停止させた。
右手に握るは三鈷(サンコ)の剣。密教における身、口、意。即ち水、剣、火を意味する破邪の剣。
敵対するものが、「鬼」なら。これ以上最適な武具もあるまい。
「・・・のうまく」
弾いた刀、返す剣を一気に押し出す。
「さんまんだ」
紡ぐ式、真言とされる梵語(サンスクリット)による呪詛を口にして。
「ばさらだんかん」
意味さえ理解出来ぬ言霊を籠めて、小さな小さな体に突き刺した。

煩悩を断ち切る、というのは如何なることか。
かつて釈迦が目指した境地。108もの欲を打ち消した後、残るものは果たして何か。
人間という生命体が動くのは何故か。
人は欲によって動く。思考は嗜好と欲望で回転し、行動に変わる。
食欲が無ければ食べようと思わない。
睡眠を欲さなければ寝ることはない。
ならば、色欲を失えば、生命としての意義を失うことになりかねないのか。
故に、虚無。
悟りの境地は即ち無であり、自らの存在さえも無と化すだろう。
それは果たして、目指すべき至高なのだろうか。
なれば、矢上彩に突き立てた「煩悩を断ち切り、思考を消す剣」などというものは、死を与えるに等しい。

ただ。
矢上彩に「欲望」があるとすれば、だ。

「解脱(ニルヴァーナ)だと?有り得るものか、輪廻から外れ、般若の識を得ることなど。涅槃(ネハン)の世界など死後にしか有り得るものか――――!」
血と共に剣を引き抜き、三鈷剣を地面に投げ捨て、踏み潰す矢上彩に絶句する。
「元より私は外れているのよ、慧光。智慧の名を持つのなら、それくらい気付きなさい。涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)の世界というけれど、そんなもの、何の愉しみも無い」
呆気なく真理を言い放つ少女がいる。
ヤガミシキ。八なる神を殺めて夜の神となり、真理の慧を知りて識となる者が立つ。
ようやく、僧侶は己が過ちを認めた。
否、知ったと言っていい。目の前に立つ少女は、紛れもなく本物の、神なのではないか。
空を飛ぶ。飛ぶ。光が胸を包み込み、遥かなる空洞の中、青い世界に放り出されたように、定行慧光の肉体は後方へ吹き飛ばされていた。
岩肌に背中を強打し、だが何のダメージも無いかのように、慧光は立ち上がった。
分かっている。すぐに立たなければ、自分の命は容易く消える。
そして紡げ。
追撃を阻む、煩悩を食い荒らす不死鳥を呼べ――――

「のうまくさらばたたぎゃていびゃくさらばぼっけいびゃくさらばたたらたせんだんまかろしゃだけんぎゃきぎゃきさらばびぎなんうんたらたかんまん」


疾る。
空中に飛ばし、焼却で厄介な右腕を焼いてから、蒼穹の魔眼は確実に定行慧光の魂を捉えた。
黒。全てを飲み込む、不動の魂。
不気味なマントラが聞こえる。呪詛の詠唱。東方にのみ伝わる呪術の果て。
不動明王火界咒。不動明王が背に眠る、迦楼羅(カルラ)の焔。煩悩三毒を喰らう火の鳥を呼び出す式を聞き流し、広がった岩場に矢上彩は突っ込んだ。
定行慧光は、動かない。不動のごとき魂で、絶対の意思を感じさせる。消滅。彼が願うのは、欲に代表される生命の滅亡。
一つ、二つと焔が灯る。それはやがて鳥の姿を模し、飛翔するかのように迫り来る。
三日月。右手に握った神剣でまず、一羽。中央を両断し、飛び散る火の粉を振り払うように、さらに速くと足は加速を続ける。
「もう一羽ッ。モルガン、任せた――――」
火を燃やすことは不可能だ。なら、火の相手は火に任せろ。
魔眼。赤光の魔眼を強く直視し、使い魔を呼び出す。火の粉を集約させたソレは、宙に浮かぶ魔女と変貌する。
さらに、ギアを上げる。
「のうまくさんまんだばさらだせんだんまかろしゃだやそはたやうんたらたかんまん」
「不気味な詠唱しやがって、このエセ坊主が」
左手が揺れる。ひゅん、と空気を切り裂いて、何かが宙で、弧を描いていた。
まるで、巨大な蛇。羂索(ケンジャク)と呼ばれる縄は、空を駆ける蛇となって煩悩ごと悪と魔を縛り上げる。
三日月を振るう。切断。
ぐるぐるぐる、と刀に縄が巻きつく。質量を持たぬ絹の縄。切られることは無く、長い刀身に巻きつくだけである。
やがて、三日月は炎で焼かれ、熱せられ、歪んだ刀身が拉げた。
さらに右腕を捕らえる羂索。ふわり、と。今度は彩の肉体が、浮いた。
先程とは違う戦場。小道ではなく、岩場に出来た空洞である。定行慧光は、ついに彩の肉体を捕らえた。
洞穴を揺るがす衝撃。力任せに振り回したソレは、遠心力を持って加速し、派手な音と衝撃を引き起こして岩肌に激突した。
紐のような縄。先端には小さな少女が付属している。血に濡れた先端は、止まらない。
メリーゴーラウンドがあった。
メルヒェンの様とは程遠い、しかし幻想的な風景の中、朱を撒き散らすメリーゴーラウンドがあった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(星の雨/7)



すでに周囲の岩盤は崩れ始めている。
八度。八回も続けて岩肌にぶつけた。体重などは感じないほど軽く、抵抗などもすでに無い。
定行慧光は、最後に一際強く遠心し、ハンマー投げの要領で、最大の力を持ってして岩に矢上彩を投げ捨てた。
頭から岩に突っ込み、軽く腰までが埋まっていた。少女の亡骸を隠すように、がらがらと落石が続いた。
軽い、痛み。首を押さえた手が、赤く染まっていた。
ぴゅう、と水道のように血が飛び出た。頚動脈。右の首が、切られている。
「矢上、藍」
迂闊(ウカツ)。矢上彩によって三鈷が破壊されたのなら、効果はもう望めない。
背後に気配がある。だが、定行慧光は振り返らなかった。振り返れば、即座に首が落ちるだろう。
「随分派手な目覚まし時計ね。おかげで目が覚めた」
「彼方は、どうした?」
「矢上煌貴があんまりにも怖かったから、失神してる」
強烈な呪いだった。そう、あれはすでに、呪いだ。動くことを許可しない、絶対の恐怖。
「それにしても、リヴィエルロットの直属なんて、凄い贅沢」
「無駄に喋る時間はあるのか。生殺しというのは解せんが」
「定行慧光は夜神の神剣をへし折った。アレには仕掛けがある」
暗殺者は音も無く、姿を消した。西川彼方さえ連れ去ることを見ると、余程の事態が起こるのだろう。
定行慧光の傷は、右腕だけだ。走ろうと思えば走れるが、呪詛を行使して精神力が底をついていた。活力の停止。いわば、ただの人形に近い。
「シネ」
無機質な声が、空洞に響いた。
二度目の浮遊感。何事かと感じる前に、蒼い海へと沈む。
視界が染まる。光と青の世界の中、照らす青が視界に映った。


愉しい。
最高だよ、オマエ。
全身は血に濡れている。折れた神剣の柄が、淡く青く光っている。
祖母が持っていた三日月の剣。死に逝く所有者と呼応して、最後の役目を果たそうとしていた。
轟音。閉鎖された空が、壊れる。
瑠璃。ラピスラズリの剣。天空の破片(ミーティア)はこの手より、空を落とす紅蓮の炎と変われ。
「シネ」
全てよ。星を落とす天空の破片を握り締め、呆然と立ち尽くす僧侶に向けて疾駆する。
巨大な岩のような体を締め付け、そのまま龍の泉に飛び込む。気泡と青。光源はただ手元にだけ。
ハイロゥと共鳴し合う右腕。毀れて動かない右腕を、青の世界で振るった。
顔面。鼻を殴打し、蒼がゆっくりと朱に染まる。
沈む。鼻を潰され、意識を失った定行慧光と共に、蒼の底へと沈んでいく。
崩落が始まったようで、水中でもはっきりと、轟音を聞いた。
空が揺らぐ。岩が落ちる。隕石のごとく、迫る死の中、蒼の楽園は地上から姿を消すだろう。

星が――――泣いている。

雨のように降り注ぐ星が、世界を、押し潰していく。

蒼い世界の中。
伸ばした右腕の先、招くように、光が――――

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