白い部屋。精神病棟を連想させる部屋で、少女は小さな鞄を見つめていた。
支度はすでに整っている。壁にかかった鞄には、二箱の煙草とライター、新品の黒いパンティ・ストッキングが入っている。とりあえず、通常にも緊急事態にも対処できる装備だ。
今は意地を張っている。意地だ、意地。アイツが来てくれと哀願しない限り、行ったりはしない。
鞄を見ていて飽きることはないが、事態が好転するわけでもない。
出かけよう、と思い立ち、矢上彩はついに動き出す。
左腕の怪我は、ほぼ完治していた。八割は、思い通りに動かせる。普段は珍しい私服姿で、矢上彩はてくてくと街を歩く。
行き着けの喫茶店だったところ。何も無いけれど、駅前に来ればここに入った覚えがある。それでいて、コーヒーを飲んで帰るだけということもあった。
「ジャーック。ブルマン八割、キリマンとモカ、マンデリンをブレンドしたヤツ。モカは煎りを深めで。ミルク入れて、砂糖抜きで」
今日はブラジルの代わりにモカを入れる。この体は甘い物が好きらしく、少し酸味をプラスしたい。
「・・・娘っこ、まさか」
「詮索は不要でしょ、マスター・ジャック。この店はリクエストに応えられないようなヤワな店かしら?」
背中を向けて、笑い合う。もうこれ以上の説明は不要で、便利でいいと彩は思う。
「そういや、小僧が言っていた。朝里彩とでも呼ぼうか」
カップを受け取りながら、あのバカ男の言い触らしていることに閉口した。
「アサリは海に行かないのか?」
「うん。呼ばれてないもの」
「・・・独りじゃつまらないだろう?オレ様が連れて行ってやるぞ?」
「いい。行かないわ。呼ばれたら、その時はお願いしましょうか」
単なる意地にしか過ぎない言葉を彩は告げる。可愛らしい顔で唇を尖らせる表情は、どの女性よりも魅惑的だろう。
どうすれば男を動かせるか知っている。そりゃ、自分は男だもの。
二度目の誘いを笑顔で蹴って、彩は店を出た。
煌貴の自転車で駅前を徘徊する。
学校は夏休みで、ほぼ一ヶ月を学生たちは自由に、楽天的に過ごすだろう。
矢上彩は六月から夏休みに入っている。ただの脱臼を長期入院が必要な病気にカルテを書き換えて、勝手に休学にしてしまった。以来、学校には行っていない。
行き着く所は浅川医院くらいなもので、自転車を冬真専用になった駐車場に置いて、ビルに入る。
一階は冴えないイタリア料理店だった。広い店内に客が埋まることはまず無い。
シェフはイタリア人のコロンボが経営と両立させている。どこぞの刑事を思い出す彼。
思い切りスペイン系の顔からして、イタリア料理店というのが胡散(ウサン)臭い。
今日もがら空きの一階を横目に、三階へ。非常に遅いエレベーターを使う人間は、足が不自由である人だけだ。歩いた方がよっぽど速いからだろう。
「おお、またお前さんか。今日は手伝いに来たんだろうな?」
よく見る顔の患者を診察しながら、柚葉は片手を振る。手伝え、という意味らしい。
「・・・」
無視して冷蔵庫を開けて、海草もツナさえ入っていないシンプルなサラダを取り出す。コンビニのサラダの中で、一番安価なものだろう。毎日のようにサラダを奪われて、そろそろ対策を講じる時期になったのか。
「家にいると息子夫婦がうるさくてねぇ・・・」
老婆の愚痴を聞きながら、柚葉は丁寧に診察を続けている。最初から手伝わせるのは諦めていたようだ。
「あまり長生きはしたくないもんだねぇ・・・」
「そうか。早く死ぬといいな」
レタスを頬張りながら、奇妙なやり取りを眺めていた。冬真が聞けば卒倒ものだろうが、彩や柚葉から見れば、現世での死は鏡面世界での生へと繋がる。高齢化社会で停滞しつつある循環を少しでも正常にしたいと思うのは当然だろう。
死を司る医者。元より、浅川柚葉は死体安置所の人間だ。その役割は人を生かすより、魂を生かすことにある。
だが、高度に発達した科学による文明は、寿命を著しく伸ばしている。例に漏れず、老婆もしっかりとした足取りで診療所を後にする。
「ここは怪我や病を治療する場だ。単なる話し相手が欲しければ、欲求不満の団地妻の井戸端会議にでも出席すればよかろう」
「病は気から、なんて言うじゃない。普段はトーマに任せっきりなんでしょう?」
「臨床心理士の資格は本物だからな。きちんと学習し、習得した資格である以上、冬真は心理カウンセリングの職務を遂行すべきだろう」
看護士の資格は捏造されたもので、柚葉としても扱いに困っていた。訪れる患者の精神的負担を減らし、心理的援助を行うのが現在の君塚冬真である。
「赤字赤字って唸るなら、いっそ上でコンサルテーションでも行えば?心療内科とでも命名すれば、補助金も増える」
「それだ。私が冬真の代わりに愚痴を聞くのも面倒だ。いっそ、改築期間と称して休業しよう」
思い立つと同時、すぐに電話を取り出し、スロウの誰かと会話を始める。金の無心だ。強引に話を推し進め、勝手に電話を切るのは常套手段(ジョウトウシュダン)。圧力を持ってして、明日には口座に入金の確認が出来るだろう。
「しかし、お前さんは猫のような女だな。まるで餌付けだ。しかも懐かないときた」
視線の先にあったサラダのカップを投げ捨て、ひとつ欠伸をした。呆れる柚葉を無視して、再び冷蔵庫から、今度はコーヒー牛乳を取り出す。
「遠野に猫又はいない。夢魔とも無関係よ、私」
「矢上彩が本物だったら、冬真なぞすでに死んでるだろうが」
呆れながら冷蔵庫を閉める姿を見て、見当違いの発言をしたことに気付く。確かに、遠野夜神家と化け猫の類は無関係であり、猫と形容するには程遠いと思うのだ。
着信を告げる耳障りな音が聞こえ、柚葉は手に持ったままの子機を耳に当てる。私は柚葉から目を離し、待合室に備え付けられたテレビを点けた。
テレビは昼のワイドショーをやっていた。近くの高速道路、トンネルで事故があったらしい。
トンネルと言えば、去年の秋を思い出す。ワイドショーの内容と近い思い出。
夏の怪談話。トンネルでヒトダマが出て、事故を起こしたと暗い画面が伝えていた。
「鬼火の類か。どう思う、彩」
「下らない与太話でしょう。柚葉は知らないかもしれないけれど、夏と言えばこの手の話題が昇るものよ。それで、誰からだった?」
子機を置き、柚葉は隣のソファに腰掛ける。その表情はいつもと変わらない。
「冬真だ。弛張熱の患者がいるらしく、指示を出していただけだ。感染症の可能性は低く、おそらく自己免疫疾患だろう」
冬真の宿泊している民宿の女将が、長い微熱に悩まされている。柚葉の診断では、慢性関節リュウマチ。症例も年齢も符号するらしく、ステロイド薬を持ってこちらに投げてくる。
「彩に来て欲しいとも言っていた」
「御免だわ。私、アイツに呼ばれてまで行く理由、無いもの」
ただの意地だろう。けれど、意地を捨てる気持ちは全く無い。
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(氷夏/2)
「ええっと、慢性関節リュウマチと呼ばれる膠原病と思われます。渚さんは自己免疫疾患と言って、体内の成分を異物と勘違いして攻撃してしまう状態にあります。ずっと部屋にいて、感染症の可能性は低い、と考えられます。あ、でも特別な病気じゃないですから。多くは妊娠できる年齢になった女性が発症して、女性ホルモンが関係してると考えられてるんです。渚さんはまだ二十六歳と若いんですけど、大体三十歳くらいになると発症する可能性が高まります。えと、それで慢性関節リュウマチっていうのは、関節に慢性的な炎症が起きてしまうもので、膠原病の中では最もポピュラーなものです。全身性であれば、症状として脱力感、倦怠感(ケンタイカン)、全身の痛み、そして微熱が続きます。今、診療所から副腎皮質ホルモン、いわゆるステロイド薬を取り寄せましたので、それを飲めば治りますよ」
丁寧に分かりやすく、医者の君塚冬真は説明をしてくれた。医者の説明なんてものは、大抵、分かりにくい。それはきっと意図的で、教えたくないからだと思っていた。
だから反面、君塚冬真は不気味にさえ思えた。
「あはは。だって、不治の病とかじゃないですから。素直に教えちゃって問題、ないです」
軽く笑って、彼は否定した。安堵の表情は彼だけでなく、義妹の夏海も同じだった。
「えと、もうひとつ。小学生以下は無料とかにするのはどうでしょう?その分、料理とかは減らしておけば、コストもそんなにかからないと思うんです」
「・・・え?」
丸っきり、思考の外にある言葉を投げかけられて、思わず思考が停止した。
「あのね、渚お姉ちゃん。君塚さんたちは一週間もいてくれるんだって。それで、どうしたら人が入るかとか、ずっと考えてくれてたの」
「え、ああ。そういうこと。私に異議はありません。夏海ちゃん、土井さんとよく相談して、それで決めてくれれば、お姉ちゃんは反対しないから」
深々と礼をする君塚冬真と、対照的に喜んだような表情の義妹。何とかこの凍った夏を、溶かそうと努力している。
なら、頑張って欲しい。この浜が騒がしくなるのは、すごく、嬉しいことだから。
二人が出て行って、再び窓の外を眺めた。
きっと私は、壊れてしまっている。倦怠感も脱力感も、すでに消え去ってしまっているのだから。
治らない。そして、あの人の待つ夏へ還ろう。
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