Mirage

Angelic-7

学校から帰るなり、崇行は矢上の正面に腰を落ち着けた。
正面から彼女を見つめる。綺麗な顔に根負けしそうになるが、じっと耐える。
ひとつ、決意した。
柚葉はああ言ったが、きっと何かの間違いだ。だから崇行は、一週間、監視されながら見張ってやろうと決意する。
その間に、誰かが死ぬことを望みながら。
オレが、おまえの無実を証明してやる、彩。
「待て、どこ行くんだ、矢上」
夕焼けが部屋を染める頃、矢上は不意に立ち上がり、外に出ようとした。
ここ二時間、矢上とは何の会話もないまま、無言で視線を外し、けれど睨み合っていた。
「買い物。おなかすいた」
「オレも行こうか?」
「いらない」
「じゃあ、雑誌を買ってきてくれないか?」
数分後に、矢上は帰ってきた。手にコンビニの袋を提げて、ヴァージニアスリムを二箱と、適当に選んだであろうお弁当。そして矢上がいつも食べている海草サラダとハーゲンダッツのチョコチップ。
もふもふとレタスを馬のように食みながら、ソファの上で見守ってみる。抗議の視線を兼ねてだ。
「おまえ、何で一口がそんな大きいんだ?普通、女の子ってのはもっとゆっくり、少しずつ食うんじゃないのか?」
頬を一杯に膨らませて、大口を開けるわけではないが、詰め込むようにゆっくりと咀嚼する矢上を見る。
ちなみに、食事中に矢上が喋ることはない。食べ物が詰まっているためだろう。
「で、雑誌は?」
もふ、とフォークをコンビニ袋に向ける。確かに、雑誌らしいものが入っている。
だったら出せばいいものを。弁当をテーブルに置いて、崇行はビニール袋から雑誌を取り出す。
「ぐお・・・」
「・・・ん、わかんないから適当に選んだ」
「だからって、エロ本買ってくるかな、普通」
躊躇(タメラ)いとかあるものじゃないのか。女がエロ本なんて買うのか。
「くそ、意地でも読んでやる・・・」
「だって、男の人はそういう本が好きでしょう?あ、面白かったら報告ね」
「死んでしまえ・・・」
雑誌を要求するのは、深夜まで起きているためだ。起きていれば、矢上は出かけられない。
暇潰しのための雑誌が、エロ本。深夜に男女二人でエロ本を読め、と。
「面白い?」
無邪気に覗き込んでくる矢上に、違う意味での抗議の視線を送る。
ぱたぱたと足を動かして、ベッドに寝そべったまま小首を傾げる。くそ、悩ましい・・・。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(天使再臨/閑話)


「アイツ、夜中まで起きてる。私を監視してるのだろうけど、迷惑なことこの上ない」
「・・・彩、それはお前さんのせいだと思う。それは置いておけ、どうせ目的は達成されてる」
「うん。八人は殺したから、後はアイツだけ。それで?何で私を呼んだの?」
「残念な報告だ。冬真がマヌケだった。妹を預からず、実家に帰したらしい」
彩の目が細まる。険しい表情、ではないが、彩が不快な時に見せる表情だと、柚葉は勘付いている。
「君塚氷彩と別れて六日目。もう壊れていてもおかしくない」
「・・・もうすぐ日が暮れる。冬真には、知らせるな」
最悪の事態を想定して、彩は念を押した。
医院を飛び出すように、彩は走り出す。九人目。それが氷彩なのか、それとも崇行なのか。

「気をつけなさい、彩。今宵は、満月――――」

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


夜になっても、矢上は戻らなかった。
今日で五日目だ。その間、事件は起こらなかった。
内心、焦りに似た感情で支配されていたが、このまま事も無く終われば、それはそれでいいんじゃないかな、と思っていた。
しかし、矢上がいない。
時刻はすでに八時を過ぎ、九時近くなっていた。
崇行は堪らず、部屋を飛び出した。探す当ては一つだけあるが、最悪の結果が待っているだけになる。
それでも、崇行は迷わなかった。
この目で見るまで、全てはわからないのだから。
市街地へ繰り出す。浅川医院を通り過ぎ、一つ、一つ、路地裏を確かめていく。
不良の溜まり場となった場所、異臭がするゴミの山、そして、立ち入り禁止の現場。
「お。トシかよ、久しぶり」
そのうちの一つで、旧友に会った。今はこんな場所に居ついているのかと思うが、今こそ友達がいてよかったと思う瞬間も無い。
友人は、まるで忘れてしまったかのように首を傾(カシ)げる。視線は疑問を込めたものだ。
わざわざ昔の容姿を思い返してくれる前に、崇行はまくしてたてるように当初の目的を果たすことにした。
「髪の短い女の子、見なかったか?」
「なんだ、ソレ」
「ああ、えっと、説明してる暇ないんだ。髪が短くて、すんげえ美人で色白の!」
「すんげえ美人は見なかったけど、アイツなら見たぞ、君塚センパイの妹」
君塚氷彩の名が、思わぬところで飛び出した。
「なんか視線がおかしくてよ。ナンパしよっかなーとか思ったけど、クスリでもやってんのか、あの女。妙にキマってたぜ」
「いや、無いと思うけど。そうか、君塚か。悪い、トシ。綺麗な美人見つけたら、電話くれっ」
返事も聞かず、飛び出した。携帯を取り出して、メモリーを呼び出す。
何で矢上は携帯、持ってないんだ、クソ。
君塚先輩なら、きっと矢上を知っている。
淡い期待を抱いて、又聞きした君塚冬真の番号へと着信を繋げた――――

三十分ほどして、君塚先輩は車で現れた。
矢上の名前だけでは、いい返事は得られなかった。氷彩絡みになると、ようやく君塚先輩はやって来てくれた。
「ちょっと、柚葉さんに連絡してくれる?」
ハンドルを握りながら、すでに発信されている携帯を受け取った。問いかけようとすると、運転に自信が無いから、と苦笑混じりに答えてくれた。
「・・・わたしは今、大河ドラマを見てる」
意味の分からない応対に困惑しつつ、名乗った。ますます機嫌の悪くなる柚葉に、懇願する口調で君塚先輩の用件を告げる。
「なに?君塚妹がいない?冬真のマヌケめ、今頃出張っても出番は無い。無論、わたしは行かないぞ、脚が痛むだろ」
「いや、ダジャレはいらないですけど」
「君塚妹とこの件に関しては、全て彩が片付ける。満月なのがいただけないが、彩なら望月孝明を殺せるだろう。どうだ、ボーヤ。お前さんの願いは、今、現実となる」
一瞬、何を言っているのかわからなくなった。
電話はすでに切れている。彩、矢上が、親を殺す?
事態は、考え得る中で最悪の方向へ邁進している。
「・・・どうしたんだ、崇行くん」
携帯を握ったまま、ゆっくりと君塚先輩を見た。彼は視線を前に集中させたまま、優しく、問いかけてくる。
「大丈夫。僕が力になるよ。だから、言ってみてくれ。こう見えても、厄介事には慣れてるから」
知らず、喋っていた。優しくて穏やかな表情は、まるで頼りにならないが、きっと、この人だけは、世界を敵に回しても、優しく諭してくれる。
「――――九人目。つまり、あの場所しかない」
車は針路を変える。
見慣れた――――自分の家へと。
携帯を仕舞うため、崇行はダッシュボードを開けた。


私は夜が好きです。
だって、今夜も好きなことが出来るから。
だって、今夜も誰かを殺せるから。
だって、人を殺せるから。

夜になりました。
私は家を出て、てくてく歩いていきます。
今日殺すのは家族です。二人同時というのが楽しみ二倍、夢いっぱいです。
クラスメイトと同じ苗字の表札を見て、ぴんぽんを二回だけ、押しました。
本当は、もっといっぱい押したいのです。

「――――悪いが、ニセモノに手柄はやらない」

振り向きます。
そこに、私がいました。



「あれ?」
気がつくと、夢は途中で終わっていた。映像の最後、自分自身の登場を映して。
「君塚氷彩。オマエは、私の目を盗んでいた。正確には、私の視点から得られる視覚情報と自身の視覚を結合させた。だが、三つの視点というものは成り立たない。人間の眼球は二つあり、二点の視覚は平面の映像を立体としてその虚像を映す。三点になると、それはすでに『魔眼』だよ。結果として、目蓋を下ろした時、網膜に投影される仕組になる。オマエが見ていたのは自分の手ではなく、私の手よ」
矢上彩は、幽霊のよう。
琥珀色の目を光らせて、闇夜に橙が輝いている。

「――――夢は現実じゃない。ただの、錯覚」

それが、君塚氷彩の意識に残る、学友「矢上彩」の最後の言葉となった。
倒れこむ。地面に、夢で見たように、死体となるかのように。
途中、誰かが、支えてくれていた。

「ほら、ね。氷彩、オバケの目は、暖かいんだ。君を、夢から守るために」


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(天使再臨/6)


君塚冬真が妹を抱いた時には、矢上彩はすでに、姿を消していた。
遥かな上空、大気を切り裂き、歪な満月を迎え撃つために――――

「望月孝明。『人狼(ワーウルフ)』の貴様がここにいられる道理は無い」

だん、と屋根の上まで跳躍し、敵意の眼差しを中年男性に向けた。
「そうか。すでにピュセルが報告していたか。極東の島国だと思って油断していたのが悪かった」
「時代遅れなんだよ、あんた。この社会に貴様の居場所など、とうに消え失せてる」
空に穿った巨大な銀円。一挙動さえ把握し得る宵闇の美しさに、呆、と息を吐き、旧世代の妖怪は暗く笑う。
対する矢上彩は、無言。敵意は必殺の意志と変わり、視線を鋭き刃へと。
スーツに身を包んだ敵を直視する――――右腕、おそらくは徒手の敵の最大の武器を。
「赤光(シャッコウ)の魔眼か。確かに、この手の敵と対するのは、初めてだ」
音も無く、右腕の袖が拉(ヒシャ)げる。何かによって遠隔操作されたかのようにソレは、黒い炎となって焼き尽くし、焦がし尽くす。敵は、軽く右腕を振って、原型を失った右袖を払い落とした。
「視られたら終わりだな。では、勝負。その双眸(ソウボウ)、我が身を視認出来るか」
不意に、男は空を飛んだ。まさしくそれは、飛翔の名に相応しい跳躍、滑空だった。
隣の屋根に乗り移る行為だと彩は予想する。そして、彼女もまた、「飛」んだ。
二人の男女が夜を舞う。僅かにダンス・ホールを照らす、満月の射光。彼らの姿を照らすことなく、闇に、宵に、屋根伝いに二人は隠れ舞う。
彩の眼。赤く灯った瞳は、魔なる眸。三色に変化するとされるプライマリィ・カラー。
あらゆる色彩を治める三色。即ち、赤・青・黄。他のどの色にも干渉されない、絶対色。
朱の眼が望月孝明に襲い掛かる。焼却の能力を持つ赤色は危険を望月孝明に示していた。
右足を捉える。間は、三秒。心臓が三拍する間に、彩は右足を見つめ続けた。
空中で、望月孝明はバランスを失ったようにしてから、屋根へと激突した。右足に走る違和感は確かなもので、すでに「焼却」されている。
神経、及び筋肉組織の崩壊。右腕と同じように、右足もまた、二度と元には戻らない。
「くそ、原色の魔眼だと――――」
咄嗟に、体を起こして空を見上げた。遥かな月空、禍々しく光る赤い月がふたつ。
魔眼など、取るに足りない。灰色の魔眼、石化は厄介だが、魅了や暗示程度にしか利用できない魔眼は、あくまで補助的なものだ。近接戦闘において、注意を置けばいいだけのもの。
それが、最大の障害になっている。同じく徒手空拳で挑んでくる敵は、何のことは無い少女。ただ両目を爛(ラン)と輝かせているだけに過ぎない。
原色になると、格が違う。魅了などではない。それはすでに、恍惚と魅せられる光。
「有り得ん。あの少女、すでにドラクールの眼を持つのか」
認識できない。思考回路がそれを認めながら、理性は拒絶を続けている。
「馬鹿な。リヴィエルロットと肩を並ぶと言うのか、魔眼が、魔眼ごとき」
片足で着地し、瓦を弾きながら、なおも少女は疾走する。
――――望月孝明は気付かなかった。その大きな間違いに。
ヒトの身で飛翔のごとき跳躍も、着地も雑に、今まさに、目前へと迫ろうとする疾駆も、不可能だと言うことに。

矢上彩は原色の魔眼持ち(プライマリィ・カラー)、という認識だけで、「最高位天使(アーク・エンジェル)」の力に気付かない。

すでに望月孝明に正常な思考など無い。
闇雲に、しかし最強の拳を振るうのみ。屋根を突き破り、コンクリートを破壊するほどの拳。
少女の体では耐えられない。肋骨をへし折り、内臓に突き刺し、肉体を圧迫して破壊する一撃。
暴風のように荒々しく、しかし確実に、拳は矢上彩の腹部へと到達する。
彩は、動かない。疾駆し、胸元に飛び込んだ小さな体は、いつか少年に魅せた動きを再現する。
くるり、と左腕が回る。加速に使われた両腕は、前後の振り子運動から、軌道を変えて上下に。
迫る拳を、ぱちん、と弾いた。ただそれだけ。左腕で内から外に四分の一回転させるだけで。
驚愕する余裕は無く、望月孝明は胸部への掌底で空を舞い、三軒先の民家に墜落した。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


正直、見惚れていた。
「・・・君塚先輩、アイツって、実は天使なんじゃないですか」
車に妹の氷彩を乗せて、戻ってきただろう君塚冬真に、崇行はそんな率直な感想を告げた。
彼は、あはは、と一つ笑い声を残してから、そうだねと呟いた。
「殺人鬼だし、口も悪いから悪魔だと思ってたろ?」
「でも、彼女、ツバサを持ってるんです。白くて、綺麗な、夜を裂くツバサ」
本気で、オレは矢上を天使だと思った。
君塚先輩はそれ以上の追及をせず、黙って夜空を見上げていた。
戦いはすでに終局。最後に、どーん、と派手な音を残して、深夜の住宅街に相応しい静寂を取り戻す。
「彩は勝つ。さて、崇行くん。君は父親が目の前で殺されるシーンを見たいかい?」
わか、らなかった。
死ねと望んだ心は否定の言葉を浮かべない。矢上の手で殺されるなら、自分は「被害者の家族」と言う看板を下げ、同情と悲哀の表情で見られるだろう。
否定する言葉なんか無い。けれど――――肯定する言葉も出なかった。
本当に死ぬという事実さえ、怖いのか。
そこまで自分は臆病なのか。
「――――」
ずる、ずる、ずる。
父親の頭を掴み、引き摺りながら、矢上彩がやって来た。
「・・・ん、その左腕は?」
「オマエはいつも、見なくてもいいモノを見る」
君塚先輩の視線を追うと、矢上は左腕をぷらぷらさせて、まるで骨抜きになっていた。
投げ出すように、彼女は頭を掴んでいる右腕を振った。どこぞの家の塀に突っ込んで、また騒音を鳴らす。
「コーメイ・ポルディーニ。国籍はイタリア、日本名が望月孝明。バルトーク家の従属者であり、死者・使徒を合わせて八十名の配下を従えている。殺すのなら殺すが、生かしておくという選択肢もある。八十人が仇討ちで日本に殺到されても困るんだ」
望月孝明。今回の事件の張本人、と矢上は付け加えた。
犯人は確かに矢上彩だった。八名の男女を殺害し、死体を残酷な手法で傷つけ、君塚氷彩の見た映像の「視点」であった。
「うん、それは正しいね。僕には理屈がわからないんだけど」
「・・・なら、訊く。ニュースで報道された人物を、誰か知っていたか?その後、葬儀のニュースは流れていたか?墓に参った人はいるか?誰か一人でも、被害者の名前を覚えているか?」

天使が、言う。今回の事件、全てが「狂言」だと。

「そんなのは『犯人』である私でさえわからない。そりゃそうさ。彼らは社会という緻密(チミツ)な網の中で、どこの線とも繋がってない。網を構成するのは線、つまりは人だけど、網に繋がってない線が被害者。遠目で見る分には網に見えるかもしれない。網と思える。でも、よく眼を凝らすとただの線で、網じゃない」
「じゃあ、誰も知らないってことなのかよ」
「いや、知人くらいならいるかもな。被害者は全て、望月孝明が用意した人形(パペット)だ。生屍(リビングデッド)のような死者ではなく、ちゃんと生きて、社会の中にいる。ひょっとしたら戸籍まで用意されてるかも。周到なことだ、おかげで割り出すのに時間がかかった。だが、八人だって最初からわかってたからな。残ったのは、大本だけ」
三人の視線が、瓦礫に注いだ。音を立てた瓦礫は、名を呼ばれ、呼応するように立ち上がった。
「そうだ。手駒は九人。全て、我らが王、シュトラウスが呼び出した者たちだ。黄泉の国から遣わされた九名には何もしていない。それを勝手に貴様が炙り出し、殺しただけという事件だ。プライマリィ・カラーには、その歪みさえ見透かされたのか。それとも、ふん。貴様のような存在を生み出したのが間違ったのか」
ぐるり、と。首が回る。視線の先には、息子がいた。
「迷うな、崇行。ソイツは、オマエの父親なんかじゃない」
珍しく、矢上の声音には感情があった。それが怒りだと、崇行には感じられた。

「九人目、最後の切り札が貴様だ。子として世界に格納された、愚鈍極まる息子が」

矢上と父親は、まったく正反対のことを、言ってのけた。
「まだわからんか。そこの悪魔はな、おまえを利用していただけだ。八人目の見当をつけた矢上彩は、最後に私の拠点を探そうとした。結界のある拠点を探すことなど、異変探しより難解だろうな。人と違い、家は動かない、喋らない、失敗をしない。しかし、逃げられない。おまえを解き放ち、後を追い、拠点を軽々と突き止めた。息子を人質にとり、絶対有利な状況を作り上げた」
父は矢上を悪魔と呼び、ありったけの事実で批判した。
きっと、父子は和解した。崇行は、何故か喜んでいることに気がついた。
だが、頷くことは、しなかった。
先程の言葉は事実だが、ひとつだけ、間違っているから。
「――――オマエは父親かもしれないけど、味方じゃない。味方は、矢上だ。オレは、だから、矢上を信じる」

悪魔の形相で、悪魔の所業を行っていても――――ただ一度きりの笑顔は天使だったから。

「愚鈍だ。だから愚かだと言うのだ。その笑顔こそが、金紗(キンシャ)の魔眼だと何故気付かない」
「なんだ。じゃあやっぱりオレは、矢上が好きなんだ。だって、矢上の目って、魅力的だもんな」
魔眼が何だ、魅惑がどうした。そんなの、魅惑的な眼にオレがやられたってだけの話。
後悔などない。望月崇行は、彼女といた日々が楽しくて、幸福だったから。
矢上。なんとなく、これが最期になると思って、崇行は彼女を見た。


う、おーーーーーーーーーーーーーーーん。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

(天使再臨/7)


う、おーーーーーーーーーーーーーーーん。

一拍置いて、不思議な遠吠えが夜空に響いた。
望月孝明は上を向く。見上げた闇、円く穿った月がある。
三半規管を破壊し、行動不能を呼び起こす遠吠えを止めた頃には、望月孝明の姿は人を捨てていた。
「まずは貴様からだ、愚かな少年」
声に出せたのなら、孝明はきっとそう言うだろう。
今は理性など無い。本能だけが、間近にいた息子へと向いた。
明確な殺意を唯一の愛情表現として。
本能を脅かすような敵は、いない。「束縛」の効果を持つ遠吠えは、耳を覆っていない限り、魔術師だろうと創造者だろうと無差別に適用される。
四足(ヨツアシ)で、狼は風になり、爪を振るった。

「夜、神」

ヤガミ、と。確かに息子は言って、確かに父は聞いた。
息子だった少年の心はわからない。
その爪が胸にかかる瞬間まで、父を抱くように伸ばした手、満月が翳るその理由、夜の合間に翻る輝く短髪があるということに。
理由は、遅すぎた。

崇行が何かを言って、手を伸ばした。
それが自分への合図だと知り、矢上彩は、己が力を眼球へと結集させる。
視界の先には、灰色の獣と、青い魂。
結界ではない。故に、破壊は不可能。
ならば、間違っててもいいから、とにかく飛べ――――!
アスファルトの大地を深く削り、足元を発光させて、あらゆる力を振り絞って、矢上彩は飛んだ。
目指した向こう。助けを乞うように伸ばされた望月崇行の下へ。

満ちた月が欠ける一条の闇。刹那、銀色に煌く、貴い命の結晶が視えた。

手を握る。伸ばされた左手を夢中で掴んで、ソレを奪った。
思えば、崇行と触れたのは、これが初めてだった。
もう彩の目に、崇行は映らない。
今、視界を支配するのは、碧の魂のみだ。どこか青より淡い、けれど深い、空の色。
空の中心に、彩は欠けてしまった絵の具を書き足した。

赤。

「・・・不死、の体さえ、貴様の前では無力だったか、蒼穹(ソウキュウ)の魔眼」

消えて逝く。青い魂は、月が出ているうちにと、早々と夜空に駆けて行く。
蒼穹の魔眼。「命」という不確かな何かを視認する能力。
矢上彩には、命の色が、視えていた。

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